7話 恋愛禁止
1日目・夜
窓の外は完全に暗さへ沈み切っていた。大半の人間が眠っているのだから当然だが、元より下層に“夜景”なんて呼べるものはない。上層みたいに誰かに見せるためだけの照明が存在しないからだ。あるのは生きるために必要な光だけだった。
通路脇に並ぶ古びた街灯。高架を走る貨物列車のランプ。
空中広告のノイズ混じりの明滅。どこかの部屋から漏れる灯り。
それらが湿った夜気の中でぼやけ、街全体を巨大な水槽みたいに見せている。
時折、遠くで蒸気管の圧が抜ける音がした。
金属の軋み。換気ファンの低い唸り。
街そのものが眠れずに呼吸しているような音だった。
ユイの部屋も、その街の一部みたいに薄暗かった。
机の上の端末光。壁際の安い間接灯。キッチンに残された換気ランプ。
ぼんやりした光が床を照らしている。それだけ。
けれど今夜は、それで十分だった。
立体庭園の設計データが、空中に青白く展開されている。
半透明の樹木モデル。歩行導線。排水構造。自動散水ライン。光源配置。
空中に浮かぶそれらは、まるで小さな人工都市みたいだった。
導線設計はほぼ終わっていた。残るのは安全基準の微調整くらいだ。
ユイは背もたれから身体を離し、小さく首を回した。
――骨が鳴る。長時間同じ姿勢でいたせいで、肩の奥が鈍く重い。
視界の端が少しだけ熱を持っている。
デスクワーク作を続けた日の夜特有の疲労だった。
対面のソファではアズが端末を見ていた。
監察局支給らしい黒い情報端末。画面には地図、識別コード、警告表示。
淡い赤色が周期的に点滅している。ユイには内容までは分からない。
ただアズが時々ひどく疲れた顔で画面を閉じることだけは分かった。
疲れている、というより。
積み重なった何かを一瞬だけ思い出してしまった人間の顔だった。
静かな時間だった。不思議と居心地は悪くない。
昨日までの自分なら誰かと同じ空間に長く居るだけで疲れていたはずなのに。
沈黙を気にして。相手の機嫌を探って。変なことを言っていないか、あとから何度も思い返して。会話が途切れる度に相手を見る癖があった。
けれど今はそれがない。アズが必要以上に踏み込んでこないからだ。
放っておくところは放っておく。けれど完全には切り離さない。
話しかければ返し、返さなければ追及しない。
妙な距離感だった。近いのに馴れ馴れしくなく、遠いのに無関心でもない。
まるで寒い日に少し離れた場所で焚かれている火みたいだった。
近づけば暖かい。でも勝手に触れてはいけない気がする。
……ユイはぼんやりとアズの横顔を見る。
横顔は整っている、というより無駄が無かった。
必要なものだけ残して削ったみたいな輪郭。
短く切られた黒髪。疲労の滲む目元。端末の光に照らされる睫毛の影。監察局の黒服を着ていなくてもこの人はきっと“そっち側の人間”に見えるのだろうとユイは思った。
そしてふと思う。
この人はどういうふうに育ってきたのだろう、と。
アズの輪郭には妙に“完成してしまった”感じがあった。
子どもの頃から自分で選ぶより先に選ばれてきた人間の顔。
欲しいものより先に、役割を与えられてきた人間の目。
感情が薄いわけではない。――むしろ逆だ。
感情を置いていく場所を知らないまま、大人になったような静けさだった。
「監察局って恋愛禁止なんですか」
アズの指が止まる。
「……急に何だよ」
「なんとなく」
「なんとなくで聞く話か?」
「ダメでした?」
「……別に」
アズは端末から視線を外さないまま答えた。
「禁止じゃない」
「じゃあ付き合ったことあるんですか」
「ある」
ユイは少しだけ目を丸くする。
「意外」
「どういう意味だよ」
「仕事しかしてなさそうなので」
「実際半分くらい仕事だったな」
アズは短く笑った。乾いた笑い方だった。
古い傷口の上を無意識に指でなぞるみたいな笑い方だ。
笑うこと自体は出来る。でもその奥まで軽くはなれない。
「向こうに愛想尽かされた」
「へえ」
「監察局の人間って、基本帰ってこねえからな」
「帰ってこない?」
「呼び出しが入る。数日消える。連絡も取れない。帰宅予定は消滅する。守秘義務で仕事の話もできない」
「最悪ですね」
「だろ」
アズはソファに深く身体を沈めた。くたびれた大人の姿だった。
ネクタイは少し緩んでいる。黒いシャツの袖口には細かな皺が寄っていた。
監察官というより、もう長いこと眠れていない人間に見えた。
だがユイにはそれだけじゃないように思えた。
この人はきっと最初から“帰る場所”を持っていなかった。
帰宅、という言葉の意味を多分他人ほど知らないのだ。
誰かが待っている部屋。帰れば灯りがついている感覚。
遅い時間に音を立てないよう鍵を開ける感覚。
そういうものを自分の人生として覚える前に別のものを教え込まれてしまった人間の顔をしていた。
「最初は普通だったんだよ」
アズがぽつりと言う。
「飯食って、映画見て、どうでもいい話して」
「ちゃんと恋人っぽいですね」
「一応な」
「信じがたいですけど」
「お前、最近だいぶ遠慮なくなってきたな」
「慣れたのかもしれません」
「そこが怖いんだよな」
ユイは少し笑う。アズも遅れて鼻で笑った。
その笑いだけは少し自然だった。
けれど――そのあと短い沈黙を挟んでアズは低く続ける。
「……死んだよ」
ユイの表情が止まる。部屋の空気が、一瞬だけ冷えた気がした。
換気ファンの音だけが妙に大きく聞こえる。
アズは端末を見たまま言う。
「案件に巻き込まれた」
「……監察局の?」
「いや」
短い返答。
「ただ俺が関わってた案件だった」
それ以上は言わなかった。それだけで十分だった。
助けられなかったのだ。――あるいは。
助ける資格が自分には無いと思ってしまったのかもしれない。
監察局の人間は命を扱う。異常を処理する。人を守る。
でも時々、自分のすぐ近くにいた誰かだけを守れない。
多分それが一番深く残るのだろう。
「監察局ってさ」
アズが淡々と続ける。
「孤児を拾うんだよ」
ユイは黙って聞く。
「親がいないやつ。戸籍が消えたやつ。下層で死にかけてるやつ」
淡々とした声。
まるで他人事みたいな口調だった。
けれど逆に、それが長年擦り切れた記憶なのだと分かる。
「適性があるとそのまま引っ張っていかれる。今日からうちの所属になったってな」
「じゃあ……アズさんも?」
「まあな」
彼は肩を竦めた。
「選択肢なんか最初から無かった」
軽い言い方だった。軽いのに妙に重かった。
本当に“そう”だったのだ。
泣くとか嫌がるとか、そういった段階すら無かったのだろう。
気付けば制服を着せられて。
気付けば訓練を受けて。
気付けば“監察官”として生きていた。
銃の持ち方。異常存在への対処。報告書の書き方。人を疑う方法。
アズは淡々と“教育”の一端をユイに語った。
ユイのような一般人の想像するイメージ通りの回答であったが、当事者でなければその苦痛は真に理解出来ないのだろう――自分はただ外から覗いているだけ。
……そういうものばかり覚えて。
誰かに甘える方法だけ、最後まで教わらなかった。
そうやって長く生きると人は諦めるのが上手くなるという。
期待しないこと。執着しないこと。失う前に距離を取ること。
アズの静けさはそうやって出来上がっていた。
「じゃあ家庭向いてないですね」
「否定はしねえ」
「結婚とか無理そう」
「おい」
「だって帰ってこないし」
「仕事だからな」
「相手、寂しいですよ」
「……そうだろうな」
その声だけ、少し掠れていた。そこで会話が途切れる。
外では貨物列車が通り過ぎていった。低い振動音が壁を震わせる。薄い窓ガラスが微かに鳴る。この街ではその音だけが世界の脈拍みたいだった。
人が居なくても。幸福が少なくても。街は止まらない。
鉄と電力だけで無理やり夜を継続している。
ユイはベッドの端に腰掛け、自分の膝を見た。
膝の上で指先を組む。少し迷ってから小さく呟いた。
「……でも少し分かるかもしれません」
「何が」
「誰かと居るのって疲れるじゃないですか」
「まあな」
「気を遣うし」
「うん」
「嫌われないようにすると、もっと疲れるし」
「それは分かる」
「でも、居なくなると寂しい」
言った瞬間、自分でも驚いた。
こんな話をするつもりじゃなかった。
もっと軽い雑談のつもりだったのに。
言葉が口から落ちたあと、胸の奥が少し熱くなる。
アズはすぐには返事をしなかった。
ただ少しだけ目を細める。
その視線には、観察みたいな鋭さがなかった。
代わりに、何かを思い出しかけた人間の静けさがあった。
ユイは視線を逸らした。
静かすぎて、自分の心音まで聞こえそうだった。
「……お前さ」
「はい」
「本当に記憶消す気あるか?」
「課題が終わったら」
「逃げそうなんだよなあ……」
「逃げませんよ」
「信用できねえ」
「酷い」
「そういう顔するやつほど急に消えるんだぜ」
「偏見です」
ユイは笑った。自然に零れた笑いだった。
アズはその顔を見て一瞬だけ言葉を失う。昨日よりずっと柔らかい顔だった。
――昨日のユイは全部を諦めた人間の顔をしていた。
静かで。温度が薄くて。何も期待していない顔。
けれど今は違う。普通に笑っている。……年相応に。
その無防備さが、妙に胸に引っかかった。
アズはこういった時間に慣れていなかった。
監察局で育った人間は、“誰かを守る”訓練は受ける。
――けれど“誰かと普通に過ごす”訓練は受けない。
まして失った相手の記憶がまだ胸の底に沈んでいるならなおさらだ。
だから踏み込みすぎない。優しくしすぎない。軽口の形でしか近づけない。
近づいた先にあるものが、いつか壊れると知っているから。
アズは小さく息を吐いた。
「……ほんと面倒だな、お前」
「褒め言葉として受け取ります」
「そういうとこだぞ」
「どこですか」
「無自覚なところ」
「無自覚で怒られるのは納得いきません」
「大抵の厄介ごとは無自覚のまま始まるんだよ」
ユイはきょとんとする。本当に分かっていない顔だった。
……その顔を見ていると毒気を抜かれる。
アズはそれ以上何も言わなかった。
窓の外では遠くでまた貨物列車が通り過ぎる。
遠いランプの光が、壁と天井に細い線を走らせた。
その光は数秒で消える。けれど消えた後も薄い残像だけが視界に残った。
閉じた街の夜は静かだ。世界に自分たちしか居ないみたいな錯覚を起こすほどに。
――その静けさの中で。
ユイは端末の光に照らされた手元を見つめながら、胸の奥が少しだけ温かいことに気付いていた。冷え切った部屋の中でここだけ小さく灯りが点いている。
そしてアズはその温度に気付かない振りをしていた。
気付けばきっと戻れなくなるからだ。




