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第6話 気分転換

1日目・昼


 課題の設計修正が一段落した頃、アズが不意に立ち上がった。

 長時間、狭い部屋の中で端末を睨み続けていたせいだろう。空気が少し淀んでいる。机の上には配線図と培養設計のデータ。開きっぱなしの参考資料。冷めた茶。

 端末の熱と人間の体温だけで部屋がじわじわ温かくなっていた。


 ユイが肩を回して首を鳴らしているとアズは窓の外を一瞥してから言った。


「気分転換だ。少し歩くぞ」

「外、危なくないんですか」

「……それ、お前が言うか?閉鎖の境界に近づかなきゃ平気だろ」


 アズは簡単に答えた。

 その言い方が妙に慣れている。

 危険区域の歩き方を知っている人間の口調だった。


 ――どこまでが安全で、どこからが危険か。

 その境界を身体で覚えているような喋り方。

 ユイは少し迷ったが、結局立ち上がった。


 部屋着の上から薄い上着を羽織る。

 鏡を見るほどでもないと思いながら、乱れた髪だけ軽く手櫛で整えた。

 玄関で靴を履きながらふと違和感を覚える。


 誰かと一緒に外へ出るのが、久しぶりだった。

 下層の住民は基本的に単独で行動する。

 特にユイのような生活をしている人間はなおさらだ。


 群れると面倒が増える。関係を持つと巻き込まれる。

 貸し借り。嫉妬。依存。裏切り。

 下層では人間関係そのものが生活コストになる。


 だから必要以上に近付かない。

 深入りしない。期待しない。相手の生活圏へ踏み込まない。

 それが、この土地で静かに生きる為のコツだった。


 アパートの外へ出る。

 瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。空は灰色に曇っている。高架通路が幾重にも空を横切り、その遥か上を貨物列車が走っていた。

 低い振動音。金属が軋むような走行音。この街では、それが“日常の環境音”だ。


 どれだけ眠れない夜でも。どれだけ気分が沈んでいても。

 貨物列車だけは止まらない。

 都市機能だけが、住民の感情を置き去りにしたまま動き続けている。

 けれど今日はそれ以外が静かすぎた。


 人気が無いのはいつものことだ。

 下層では一日誰とも顔を合わせない生活も珍しくない。


 だが今日は違う。生活音そのものが薄い。

 窓の開閉音も。遠くの怒鳴り声も。配線工事の火花音も。機械修理の金属音も。どこかの部屋で流れている安っぽい音楽も。何も聞こえない。

 世界から人間だけが抜け落ちてしまったような静けさだった。


 二人は並んで歩き出す。

 舗装の剥げた通路。雨染みの残る壁。放置された配送コンテナ。錆びた非常梯子。

 通路脇には無人販売機が並んでいる。

 半分以上が故障中の表示を出したまま放置されていた。

 ユイはぼんやり前を見ながら口を開く。


「……監察局の人って普段何してるんですか」

「案件処理」

「雑」

「機密だからな」


 アズはポケットへ手を突っ込んだまま歩く。

 背筋は伸びている。けれど全体的に気怠げだった。

 真面目なのか不真面目なのか分からない。


「じゃあ趣味は」

「寝ること」

「終わってますね」

「お前な。三徹すると睡眠が娯楽になるんだぞ」

「嫌な知識ですね」

「あと風呂」

「うわ、末期だ」

「湯船って偉大なんだぞ」


 アズは軽く欠伸を噛み殺した。

 本当に眠そうだった。

 ユイは少し先を歩きながら周囲を見回す。


 停止した配送ドローン。点滅を繰り返す街灯。 誰も座っていないバス停。シャッターの降りた店。どれも見慣れた風景だった。なのに今日はどこか“作り物”みたいに見える。人が居ないだけで街はここまで異様になるのか。


「……変な感じ」

「何が」

「世界に私たちしかいないみたい」


 アズは視線だけ周囲へ向けた。


「実際かなり少ないぞ。起きて動いてるやつ」

「……」

「眠ってる住民は政府が回収してる。外側に運び出して医療施設へ移してるらしい」

「じゃあ本当に誰もいないんだ」

「お前と俺くらいだな」


 ユイは小さく黙り込む。恐ろしいはずだった。

 街が閉じて、人は眠っている。

 原因は自分かもしれない。

 

 本来ならもっと取り乱していてもおかしくない。

 なのに。どこか心地良かった。

 誰も来ない。誰も去らない。誰にも置いていかれない。


 ――閉じた街。

 その考えに気付き、ユイは自分で少し怖くなる。

 この状況を“安心できる”と思ってしまったことが怖かった。


「……ほんとに私なんですかね」

「何が」

「こんなこと起こしたの」

「まだ実感ねえか」

「だって普通じゃないでしょう」

「能力なんて全部普通じゃねえよ」


 その返しが妙にあっさりしていて、ユイは少し拍子抜けする。

 もっと深刻そうにされると思っていた。

 化け物を見るみたいな目を向けられると思っていた。


 ――けれどアズは違う。

 “珍しい案件”くらいの温度で喋っている。

 監察局の人間にとってはこの手の異常も日常の延長なのだろうか。


 やがて彼は立ち止まった。古い自販機の前だった。

 照明が半分死んでいて、商品表示が暗い。

 薄汚れたパネルに昨日の雨跡が残っている。

 昨日、自分が何度も戻され続けた場所。


 ユイは自然と表情を曇らせた。

 思い出すだけで少し気分が悪くなる。

 歩いていたはずなのに。前へ進んでいたはずなのに。


 気付けば元の場所へ戻っている。

 あの感覚は夢とも現実とも違った。

 現実感だけが切り取られて、空間認識だけ壊されたみたいな感覚。

 アズは顎で前方を示した。


「試しに歩いてみろ」

「嫌なんですけど」

「俺がいる」


 軽い口調だった。けれどその目は真面目だった。

 仕事の顔だ、とユイは思った。普段どれだけ気怠げでも。

 この男は“異常”に対処する側の人間なのだ。

 数秒迷ってから、ユイはゆっくり前へ歩き出す。


 一歩。二歩。

 コンクリートを踏む感触は普通だ。

 靴底が擦れる音も、呼吸も、自分の身体感覚も正常だった。

 十歩。二十歩。


 最初は何も起きない。

 だが三十歩を超えた辺りで、不意に景色が揺らいだ。


「……っ」


 頭がぼんやりする。遠近感が狂う。

 建物の位置関係が曖昧になり、通路が捻じ曲がって見えた。

 高架が不自然に近い。壁が遠い。奥行きが潰れている。

 空間そのものが、自分を押し戻そうとしている。


 ――胃が浮く。

 身体が一瞬、重力を失ったみたいにふらつく。

 そして次の瞬間。ユイはアズの目の前に立っていた。


「……うわ」


 自分でも変な声が出た。

 息が浅い。軽い眩暈が残っている。

 心臓だけが妙に速く脈打っていた。


「戻されたな」

「気持ち悪……」


 ユイは額を押さえる。

 アズは冗談を言わなかった。

 真面目な顔で静かにこちらを見る。


「無理するな。これは多分、お前自身が“外へ行きたくない”と思ってる限り強まるから」

「……」

「逆に言えば、お前の精神状態次第で弱まる可能性もある」


 ユイは俯く。外へ行きたくない。

 否定できなかった。

 この街は嫌いだ。下層も好きじゃない。孤独も苦しい。


 ――なのに。

 それでもどこかへ行く勇気は持てなかった。

 外へ出れば、今の自分すら失ってしまう気がする。


「じゃあ治す方法って」

「多分ある」

「記憶消去以外に?」

「時間か、環境改善か、精神安定か……まあ色々」


 アズは頭を掻く。


「ただ、即効性が無い。上は待ちたがらないだろうな」

「それ……カウンセリング案件では?」

「監察局はそういうのもやるから」

「なんでも屋ですね」

「人手不足なだけだ」


 疲れた声だった。本当に疲れている人間の声。

 ユイは少しだけ笑う。


 その瞬間、不意に気付いた。昨日より自然に笑えている。

 無理に作った愛想笑いじゃない。

 ただ会話が可笑しくて、普通に笑っていた。

 それが少しだけ怖かった。


 まるで、自分の閉じた世界に誰かが入り込んできてしまったみたいで。

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