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5話 監視対象に情が移ると面倒なんだ

 翌朝。

 ユイは浅い眠りの底からゆっくり浮上しながら、まず“違和感”に気付いた。

 部屋に人の気配がある。


 ぼんやりした視界のまま天井を見つめる。

 薄汚れた白い天板。隅に走ったひび。安アパート特有の湿った空気。聞こえてくるのは相変わらず遠い貨物列車の低音だけ――のはずだった。

 しかし今日はそれ以外の音がある。


 規則的な呼吸音。

 ユイはゆっくり上半身を起こした。

 視線の先、狭い床のスペースに黒い塊が転がっている。

 黒いコート。長い脚。無造作に投げ出された腕。片腕で目元を覆い、壁にもたれるような中途半端な姿勢で眠る男。監察局の人間――アズだった。


 コートを丸めて枕代わりにしているあたり本当に最低限の睡眠だけ取ったらしい。


 昨日の夜、そのまま部屋に居座ると言い出した時は冗談かと思った。

 監視対象を一人にできない、閉鎖区画の中で単独行動したくない、戻ろうとしても出口に辿り着けない――理由はいくつか並べていたが、結局のところ彼自身もこの現象を完全には把握できていないのだろう。


 それでも、まさか本当に床で寝るとは思わなかった。

 ユイはしばらくその姿を眺める。


 ――監察局。

 政府直属の実働機関。

 思想監査、能力者管理、異常案件処理、情報統制。

 下層に住む人間なら誰でも知っている。

 見たことがなくても、噂だけは聞く。


 黒服に連れて行かれた。黒服が来た。黒服が消した。

 そういう話だ。もっと冷たい人間だと思っていた。

 感情のない機械みたいな。あるいは人間を“処理対象”としてしか見ていないような連中。けれど目の前で寝ている男はどう見ても単なる寝不足の会社員だった。


「……なんでいるんですか」


 ユイが呟く。

 するとアズは目を閉じたまま答えた。


「監視対象を一人にするなって命令されてるからだ」


 声が掠れている。

 本当に起きたばかりなのだろう。


「帰ってなかったんですね」

「一度報告に戻ろうとした」

「で、帰れなかったんですか?」

「三回同じ自販機の前に戻されたよ。お前と同じだ」


 ユイは思わず吹き出した。

 アズは片目だけ開け、不満そうに眉を寄せる。


「笑い事じゃねえぞ。深夜に一人でぐるぐる歩いてる黒服とか通報案件だろ」

「この辺、誰も起きてませんよ」

「それも怖えよ」


 アズは大きく息を吐き、ようやく身体を起こした。

 寝不足の顔が昨日より悪化している。

 目の下には濃い隈。髪も少し乱れていた。


 ユイはベッドから降り、狭いキッチンへ向かう。

 電気ケトルに水を入れる。古びた加熱音が鳴り始める。

 こうして朝に誰かがいるという状況そのものが妙だった。


 一人暮らしを始めてから、部屋に誰かが泊まったことはない。

 そもそも部屋へ人を入れた記憶自体ほとんど無かった。

 家族すら自分を訪ねてくることはない。


「朝ご飯どうします?」

「食い物あるのか。流石にあの花は食わないよな……?」

「朝食はいつも乾パンと栄養ゼリーですけど」

「いかにも下層学生って感じだな……」

「監察局は違うんですか?」

「監察局は食堂があるから」

「うわ、権力を感じますね」

「そこ羨ましがるのかよ」


 ユイは少し笑った。

 ケトルが沸騰する。

 安物の茶葉をマグカップへ入れ、湯を注ぐ。部屋に薄い香りが広がった。

 アズは眠そうに目を擦りながらソファへ移動する。

 その動きには妙な生活感があった。


 監察局の人間にも“朝”がある。

 そんな当たり前のことが、妙に不思議だった。

 簡素な朝食を済ませると、ユイは端末を立ち上げた。

 机の上に青白い光が広がる。


 共同庭園演習。

 培養学舎・庭園管理科の実地課題。

 空中へ投影された立体設計図には、巨大温室の構造が複雑に組み上がっていた。


 住民通路、給水設備、栄養循環路。

 ――捕食植物区画、死体処理搬送ライン。

 その中を赤い警告表示がいくつも走っている。

 アズはそれを見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。


「朝から見るもんじゃねえな」

「食人花だからですか?」

「さらっと言うなよ……。昨日からそのワードで地味に精神削られてるんだよ。何なんだよ、人間食って育つ花って……」


 ユイは設計図を拡大する。


「この辺の導線が詰まってるんですよね。搬送路と住民通路が近すぎるんです」

「搬送って死体か?」

「主に」

「主にってことは他にもあるのかよ」

「肥料とか」

「聞かなきゃよかった。結局人間じゃねえか……」


 アズは本気で頭を抱えた。

 ユイは思わず口元を押さえる。


 ――楽しかった。

 誰かが隣にいる。適当に会話して。くだらないことで顔をしかめて。

 反応が返ってくる。


 たったそれだけなのに部屋の空気がいつもと違って感じられる。

 今までこの部屋はただ“静かな箱”だった。

 誰とも話さず、誰にも会わず。食事も、勉強も、睡眠も一人で完結する場所。

 それが当たり前になりすぎて孤独なのかどうかすら分からなくなっていた。


「……監察局の人って、みんなこんな感じなんですか」


 ユイが何気なく訊く。


「“こんな”って?」

「もっと無機質かと」

「無機質な奴もいるぞ。真顔でビルを爆破する奴とかな。突然ビルに押し入って“こう”だ。5分もかからん。入室から退室までずっと“真顔”だ。まあ、飯も食うし仮眠もするからそんな奴でも人間なんだけどな」

「はあ……あなたは?」

「俺はただ疲れてるだけだ」


 アズはソファに沈み込んだまま天井を仰ぐ。

 その顔には、本当に疲労しか無かった。


「というか、お前本当に集中力あるな。こんな状況で課題やれるのかよ」

「現実逃避ですよ」

「強いなあ、最近の学生は」

「弱いからこそ逃避するんです」


 ユイは設計図を回転させながら呟く。


「……でも、ちょっと安心してるのかもしれません」

「何が」

「完全に一人じゃないので」


 ……言ってから自分でも少し驚いた。

 こんなことを他人に口にする性格だっただろうか。

 アズは数秒黙った。それから低い声で言う。


「そういうこと平然と言うなよ」

「はい?」

「監視対象に情が移ると面倒なんだ」

「移ってるんですか?」

「まだ移ってない」

「“まだ”って言いましたね」

「揚げ足を取るな」


 ユイは小さく笑う。

 そしてまた端末へ視線を戻した。

 窓の外では、相変わらず貨物列車の音だけが遠く響いている。

 閉じた区画の朝は、不気味なくらい静かだった。

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