第4話 違う世界に住む人
夕食を片付け終えたあと、部屋はいつもより静かだった。
折り畳みテーブルの上には、洗い終えたばかりのカップが二つ並んでいる。湯気はもうなく、古いテレビだけが、薄い箱の奥で不自然なほど明るく光っていた。
ユイはソファの端に膝を揃えて座り、リモコンを手の中で弄んだ。
隣ではアズが、あくびを噛み殺しながら背もたれに身を預けている。
監察局の黒いコートは脱いであったが、仕事帰りの社会人らしい疲れだけはまだその顔に残っていた。
「テレビつけますよ」
「お前の家なんだから好きにしろ」
「一応、聞いてみただけです」
「聞くほどのことか?」
ユイは小さく笑って、ボタンを押した。
この地域ではまともに生きている通信網のほうが少ない。
長距離回線はもうとうに頼りにならず、画面に流れる映像の多くは録画された番組か、数日前の放送を編集し直した再放送だった。
生放送はほとんど過去形の贅沢になっている。
「あ、これ先週のやつだ」
ユイが番組一覧を眺めながら言う。
セクター放送局が配布している録画アーカイブの一つだった。
『フェノム・システムズ代表インタビュー』
表示された番組を選択すると――画面が切り替わる。
映ったのは見慣れないほど整った応接室だった。明るい照明。無駄のない机。柔らかな布張りの椅子。そこに座る女は姿勢だけで“上の人間”だと分かる。
艶のある長い黒髪が肩を越えて背へ流れ、その内側に差し込まれた鮮やかな青が光を受けるたび深海のような色を見せた。瞳もまた青い。冷たい色ではない。むしろ穏やかで静かな水面のようだった。仕立ての良い黒のスリーピーススーツは皺ひとつなく整えられ、細い指先にも余計な装飾はない。
「わあ……美人ですね」
「そうだな」
派手さはない。
なのに、画面の中心にいるだけで視線を奪っていく。
企業の広告塔として作られた人間なのか、それとも元からこういう人間なのか。
少なくとも、下層の安アパートで暮らすユイとは、まるで別の世界の住人だった。
フレデリーク・マリ。
フェノム・システムズ代表。
ユイは画面を見上げたまま、ぽつりと言った。
「あの人、監察局でも有名なんですか」
「有名も何もあの顔を一度見ればだいたい忘れないさ」
「テレビ向きって感じですね」
「企業の顔だからな」
「セクター代表ってテレビに出るものなんですね」
「出る必要があるから出るんだろ」
アナウンサーの声が、画面越しに静かに流れる。
内容はフェノム・システムズの現況と各セクターにおける回収・浄化事業についてだった。
表向きフェノム・システムズは再資源化の会社だ。汚染物の回収、危険物の隔離、事故後の区域整理、再利用できる資材の精製。下層でも名前だけは知られている。直接関わることはなくても、見えないところで世話になっている類の企業だった。
画面の中でフレデリークは静かに微笑んだ。
『我々の仕事は壊れたものをそのままにしないことです。回収し、分け、危険を減らし、使える形に戻す。それだけです』
ユイは膝の上で手を組んだ。
「……“それだけ”って顔じゃないですね」
「そりゃそうだろ」
「監察局の人もそう思うんですか」
「思う、というよりは思う前に確かめるな」
「監察局って見張り役みたいなものなんですね」
「乱暴に言えばな。治安、思想、異常案件、情報の流れ。そういうものを見る。企業の経営を直接握る部署じゃないぞ」
「じゃあ、フェノム・システムズと揉めたことは?」
「いきなり核心だな……あるにはある。何度かな。あそこは規模がでかい。下層でも上層でも動いてる。しかも表向きは街を支えてる企業だ。だから何かあった時にこっちが強く出ると別のところが困る」
「便利だから簡単には切れないんですね」
「そういうことだ」
アズは空になったコップを手に取り、小さく息を吐いた。
「揉めたって言っても大仰な話じゃない。汚染物の搬出記録が合わないとか、封鎖区画の処理が遅いとか、事故報告の出し方が妙に綺麗すぎるとか、そういう地味な話だ」
「思ったより地味なんですね」
「派手ならまだ楽なんだがな。派手なら痕跡も残る」
「この会社はそういうのを残さないんですか?」
「そうだ。静かに整えるのが上手いんだよ……」
テレビの中では司会者が星間戦争について質問していた。
フレデリークはほんの少しだけ間を置いてから答える。
『戦争はこちらが望んで始めたものではありません。ですが、現実として続いています。異星兵器による襲撃は今も各地で起きています。私たちが回収し、処理し、被害を減らす理由はそこにあります』
ユイは画面を見たまま声を落とした。
「……この国、宇宙進出してないんですよね。なのに異星人が勝手にうちに来て、勝手に壊していくって状態なんですよね?」
「そういうことだ」
「理不尽すぎません?」
「理不尽だな」
「しかもその壊し方、人の殺し方まで“変”だなんて」
アズは何も言わなかった。
ユイは続ける。
「異星兵器にやられると焼ける人もいれば、溶ける人もいるし、急に眠ったみたいに死ぬ人もいる。……うちの国だとそれら全てを不審死って呼ぶじゃないですか」
「見慣れてるからな」
「完全に麻痺してますよね」
「俺もそう思う」
ユイは膝の上の指先を見つめた。
この国では不審死は珍しくない。珍しくないからこそ、誰も完全には慣れない。
自然災害みたいな顔をして現れて、個人の生活を平然と壊していく。原因の見えない死はあまりにも日常に溶け込んでいた。
テレビの中のフレデリークは変わらず穏やかな顔をしている。
『異星兵器の被害はどのセクターでも無関係ではありません。だからこそ企業間の連携と現場の信頼が必要です』
ユイは鼻先で小さく笑った。
「“現場の信頼”なんてよく言えますね」
「言うだろうな。上に立つ人間はそういう言葉を仕事として使う」
「アズさんもそう思います?」
「思う」
「……じゃあ、フェノム・システムズが裏で何かしてたら?」
アズはすぐには答えなかった。画面の音声だけが部屋に落ちる。
やがて彼は低い声で言った。
「疑いだけなら腐るほどある。だが、疑いだけで潰せるほど世の中は単純じゃない」
「潰すんですか」
「証拠があれば、だ」
「強制執行、みたいな?やっぱり工場爆破したりするんですか?」
「ケース次第だ。危険なら封鎖するし、証拠が固まれば押収もする。人命に関わるなら介入する」
「へえ……」
「ただ、あそこは簡単には潰れない。いろんなセクターの隙間を埋めてるから。代わりが効かない部分が多すぎるんだよ」
「……やっぱり、そうなんですね」
ユイは少し考えてから、もう一度訊いた。
「でもかなり大きく揉めたことはあるんでしょう?」
「あると言えばあるな」
「それは……どんな?」
アズは天井を仰いだ。
思い出すのが少し面倒そうな顔だった。
「封鎖中の区画から汚染物を先に持っていかれそうになったことがある監察局の管理区画だったんだが、処理の手順が合わなくてな。こっちが確認を入れる前に向こうが“事故処理”の名目で回収しようとした」
「ああ……そういうのって企業間でもかなり揉めますよね。止めたんですか?」
「止めた。……というより止めさせた。記録が残っていたし、向こうも引き下がった」
「なんでそんなことを?」
「さあな。現場判断か、向こうの事情か、上の都合か。少なくとも俺は理由までは知らん」
「フェノム・システムズって、そういうの多いんですか」
「多いと決めつけるほどは知らない。だが、あそこは“きれいに処理する”のが上手い。だからこそ時々こっちが嫌な気分になる」
「嫌な気分?」
「全部が全部、親切に見えるからだ」
その言い方に、ユイはしばらく黙った。
テレビの中では、フレデリークがゆるやかに微笑んでいる。
言葉は柔らかい。姿勢は美しい。見る者を安心させるように整えられている。
けれど、そういうものほど、裏側が気になる。
「……アズさんはその分野じゃないんですか」
「何の分野だ」
「企業のことです。こういう大きい会社の取り締まりとか」
「監察局の業務ではあるが、専門ではない」
「じゃあなんで詳しいんですか」
「嫌でも見るからだ」
「嫌なんですね……」
「嫌だよ。企業と揉めるのはいつだって大抵面倒だ。相手が大きいと正しいだけじゃ動かない。役所も企業も人間がやってることだからな」
ユイはふっと息を漏らした。
「……なんか、すごく大人の話ですね」
「大人だからな」
「つまらないです」
「否定はしない」
テレビの音声が少しだけ上がる。
フレデリークが、異星兵器の被害抑制について語っていた。
『回収できるものは回収する。情報として残すべきものは残す。危険なら隔離する。必要なら、再定義する。我々はそのために存在しています』
ユイは小さく首を傾げた。
「“再定義する”って、便利な言葉ですね」
「便利だな」
「何でも意味を変えられそう」
「変えられるから強いんだろう」
ユイは少しだけ笑った。
「フェノム・システムズと揉めたことある?って聞いたら、もっと怖い話が出るかと思いました」
「怖い話が欲しかったのか。残念だったな。今日は地味な話しかない」
「地味でも十分変です」
「変なのは世の中の方だ」
ユイはテレビを見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「……でも、あの会社がないと困る人、多いんでしょうね」
「そうだな」
「嫌いでも、簡単には切れない」
「そういうこともある」
「監察局って、そこらへんの腹芸もするんですね」
「腹芸って言うな」
「じゃあ、何ですか」
「現実的な調整だ」
「もっと嫌な響きになりました」
「事実だからな」
ユイはくすりと笑った。
アズはその横顔を見て、わずかに目を細める。
疲れた顔のまま、それでもどこか落ち着いて見えた。
今夜の彼は“怖い”組織の黒服というより、ただ仕事帰りの男だった。
フレデリークの番組は、まだ続いている。
大きな会社の話。戦争の話。異星兵器の話。監察局の話。
どれも遠いようでいて、結局はこの部屋の外側にある現実だった。
ユイはリモコンを膝の上に置き、画面を見たまま言った。
「……アズさん」
「なんだ」
「あなた、フェノム・システムズと本気で揉めたら、勝てると思います?」
「勝てるかどうかで言えば、状況次第だ」
「ずるい答え」
「大人だからな」
「またそれですか」
「真面目な話をすると、勝つとか負けるとかじゃない。監察局は、揉めた相手を叩き潰すためだけにあるわけじゃない」
「じゃあ、何のためにあるんです」
「国が壊れないようにするためだ」
ユイはその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
テレビの中のフレデリークは、変わらず穏やかに話している。笑顔のまま、世界の重さを軽く見せるように。
ユイはふっと息を吐いて、ソファの背にもたれた。
「……監察局って、思ったより普通ですね」
「失礼なやつだな」
「普通だからこそ、怖いのかもしれません」
「それは褒めてるのか」
「多分」
「寝る前に聞く話じゃなかったな」
「でも、ちょっとだけ分かりました」
「何がだ」
「この世界、会社も役所も、戦争も不審死も、全部つながってるんですね」
「当たり前だろ」
「当たり前なのが嫌です」
「同感だ」
画面の向こうで、フレデリークが最後に微笑む。
『我々は壊れた世界を前に出来ることをするだけです』
ユイはテレビを見つめたまま小さく言った。
「……ほんと、みんな大変そう」
「お前もな」
「私はただの学生です」
「そのわりに、妙に面倒なものを引き当てる」
「失礼ですね」
「事実だろ」
ユイは唇を尖らせ、それから少しだけ笑った。
部屋の中にはテレビの明かりと使い古した家具。夜の静けさがあった。
この静けさの中で企業の話だけは妙に生々しい。けれど眠りを邪魔するほどではなかった。




