3話 夕食に毒は盛らない
0日目・夜
夕食を片づけ終えた後、部屋はいつもより静かだった。
折り畳みテーブルの上には、洗い終えた皿とカップが二つ、端正に並んでいる。
布巾で拭き上げたばかりの陶器は、角度を変えるたびに薄い光を返した。
湯気はもうない。代わりニ温かな食事の名残だけがかすかに空気へ染みついている。古いテレビだけが部屋の隅でやけに明るく映像も流れていない画面を青白く照らしていた。
ユイはソファの端に浅く腰を下ろし、膝の上でそっと指を絡めた。
向かいではアズが背もたれに体を預け、手にしたコップの縁をぼんやり眺めている。黒いコートは脱いである。それでも疲れまで脱ぎ捨てられるわけではなかった。肩に残る硬さも、視線の奥に沈んだ警戒も、まだ消えていない。
食卓と呼ぶにはあまりに頼りない折り畳みテーブル――の上には夕食の名残がまだ少しだけ残っていた。
大皿に盛った合成米、薄く焼いた代用肉、温めただけの野菜スープ。
そこへ庭園管理科の実習で余った香草を刻んで散らしただけの実に質素な献立だ。
だが、湯気が立っていた間はそれなりに見栄えがした。ほんの少し手を加えただけで生活はこんなにも“整って”見えるのだとユイはぼんやり思う。
――こんなものをあの人が口にしてよかったのだろうか。
不安がなかったわけではない。 アズは監察局の人間だ。封鎖案件に踏み込んでくる側の人間であり、部屋の空気ひとつ、住民の呼吸ひとつまで見落とさないような目をしている。
食事を出す側の緊張がどこか別の意味を帯びてしまうことくらいユイにも分かっていた。それでも食べやすいようにだけは気を配った。
代用肉は繊維がほどよく崩れ、噛むたびに薄い塩気が広がる。スープはあっさりしていて、香草の青い匂いが舌の奥に残った。上層の人間が食べるような洒落た味ではないかもしれないが、空腹をやわらげるには十分だったはずだ。
「……苦しくなかったですか」
ユイがそう尋ねると、アズはコップから顔を上げずに答えた。
「何が」
「夕食です」
「ああ」
少しだけ間を置いて、アズは肩をすくめた。
「普通だったぞ」
「普通、ですか」
「お前は何を期待してたんだよ」
「いえ、別に。お口に合わなかったら困るなって」
「困るほど変なものは入ってなかった」
そう言いながら、アズはわずかに目を細めた。
その表情に、ユイは首をかしげる。
「……いや、入ってたか」
「何かありました?」
「妙に旨かったんだよ。あれ、何を使ってた?」
「鶏肉の代用品です」
「代用品?」
「培養肉の余りですね。安いので」
「……へえ」
アズは感心したように頷いた。
だが次の瞬間、何かを思い出したように眉を寄せる。
「いや待て。さっきのスープも妙に香りがよかったな」
「庭園で余った香草も入れてあります」
「庭園?」
「学校の温室です。食用区画の」
「……それはまあ、まともか」
「“まとも”でよかったです」
ユイは少しだけ息をついた。
緊張が完全に抜けたわけではない。けれどアズが食べるたびに皿を空へ近づけていく様子は意外なほど静かで変に形式張っていない。それが少しだけ安心だった。
ただその安心の底には拭いきれないものもあった。
アズの動きは無駄がない。箸の持ち方ひとつ、コップを置く位置ひとつに、癖のような整い方がある。食事をしているようでいてどこか別の仕事をしながら食べているようにも見える。見られているのは料理だけではない。
そんな気がしてユイはふと喉の奥を乾かした。
「ただ、あの葉っぱは何だ」
アズが皿の端を見たまま言った。
「付け合わせです」
「名前を聞いてるんだが」
「食人花の若葉ですね」
アズの手が止まった。
「……今なんて?」
「食人花です」
「待て、……俺は聞き間違えたな?」
「いえ、それで合ってます」
「おい」
「茶葉にも使うんですよ。若い葉のほうは香りがいいので」
「そういう説明を先にしろ」
「だって食べてからのほうが安全だと思って」
「安全なわけあるか」
アズは額を押さえた。
ユイは堪えきれず、肩を震わせる。
「そんなに嫌でした?」
「嫌だろ……!食人花って単語を聞いて落ち着いて飯食える奴のほうが少ないぞ」
「でも食べられてるのは花の方ですよ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、何の問題ですか」
「気分の問題だ!」
ユイはつい笑ってしまった。
小さく息を漏らすような笑いだったが、それで部屋の空気が少しだけ緩む。
アズはそれを見てますます面白くなさそうな顔をした。
「……今の笑い方、絶対悪いこと考えてただろ」
「考えてません」
「嘘つけ」
「本当です」
「本当だったらもう少し悪質だな」
「酷いです」
「酷くない」
短いやり取りの合間にもテレビの白い明かりだけが、壁と床の上を淡く滑っていた。誰も見ていない画面は何も映さないまま、ただ点いている。
監察局の人間がいるせいか、それが妙に落ち着かなく見える。
ユイはふと思う。
この部屋のどこかに目に見えない記録装置のひとつでも仕掛けられていたとしても不思議ではないのではないか。そんなことを考えてしまう程度にはアズの立ち姿も沈黙もよく訓練されたものに見えた。
監察局という組織の名前はただの部署の名前ではなく目を向けられた側の呼吸を少し浅くする響きを持っている。
それでも、アズは何も言わずただ食べ終えた皿を見下ろしていた。
「……おかわり、いります?」
「いや、もう十分だ」
「意外と少食なんですね」
「疲れてるときに食いすぎると眠くなる」
「もう眠そうですけど」
「余計なお世話だ」
ユイはその言葉に、少しだけ首を傾げた。
「でも、今日は本当に来てくれて助かりました」
「助かったのはどっちだか」
「え?」
「お前の方が落ち着いてるように見えるだけで、こっちだって精神的にはかなり面倒なんだよ」
「……そうですか」
「そうだ」
アズは空になった皿を見下ろし、それからユイへ視線を戻した。
「普通、こういう案件で学生の家に上がって、夕飯まで食わせてもらうことはない」
「そうなんですか」
「当たり前だろ」
「でも、食べてる間は少しだけ普通でした」
「何だ、その少しだけって」
「ちょっとだけ安心したってことです」
アズは一瞬だけ目を伏せた。
長い睫毛が影を落とし、その奥にある感情をかすかに隠す。
けれどそれは安心ではなくどこか別の気配に見えた。ほんの短い沈黙の後で彼は苦笑するように口の端を緩めた。
「……そうかよ」
「はい」
ユイがふっと笑う。今度の笑い方は先程より少しだけ柔らかかった。
アズはその顔を見て、何となく気まずそうに後頭部を掻く。だが、その仕草すら、ユイにはどこか“余計な隙”に見えた。
監察局の人間が見せる隙は本当に隙なのだろうか。
それともこちらにそう思わせるためのものなのだろうか。
考え始めると食卓の静けさまで少し冷たく感じられる。
「……で」
「はい」
「このあと、どうする気だ」
「片づけてそれから少しだけテレビを見るか、寝るか、ですね」
「寝るには早いだろ」
「あなたもでしょう」
「俺は……まあ、まだ起きてるけどさ……」
ユイはアズの顔を見て、わずかに目を細めた。
食後の少しだけ緩んだ空気のまま彼女は言う。
「じゃあ、先にお風呂入ってください」
「……は?」
「汗かいてるでしょう。ずっと外にいたし、疲れてるし」
「急に生活指導みたいなこと言うな」
「生活指導です」
「違うだろ」
「違いません。寝る前に入ったほうがいいです」
アズは呆れたように目を閉じた。
「お前、妙に世話焼くな」
「焼いてません。衛生管理です」
「同じじゃないのか、それ」
「違います」
「……まあ、確かに汗はかいたか」
「でしょう?」
ユイは少しだけ真面目な顔になる。
「タオル出しますから。お風呂入ってきてください」
「命令か?」
「お願いです」
アズはしばらく黙っていた。何かを測るような沈黙だった。
ユイはその間、息を殺すように待った。監察局の人間に見つめられているとただの沈黙ですら妙な重さを帯びる。
やがてアズは小さく肩を落とした。
「……分かったよ」
「はい」
「本当に世話焼きだな」
「疲れてる人には、そう見えるだけです」
アズは立ち上がり、背中を伸ばすように首を回した。骨が軽く鳴る。
ユイはその様子を見ながら、テーブルの端に置いたタオルを手元へ寄せた。
「しっかり温まってきてください」
「はいはい」
「ちゃんとですよ」
「分かったって」
そう言って、アズは洗面所のほうへ向かった。
ユイはその背中を見送り、ほっとしたように息をつく。
部屋には食後の静けさがやわらかく残っていた。テレビの光は相変わらず淡く点いている。だが、今度はその明かりの向こうに監察局の冷たい目がどこか遠くで瞬いているような気がしてユイは無意識に背筋を正した。




