2話 魔法の存在しない世界
0日目・夜
――しばらくして。
アズは手にしていた安物の陶器カップをカチャリと静かにテーブルへ置いた。
「さて。そろそろ本題に入るか」
その一言で部屋の中の弛緩した空気が一変した。
アズの醸し出す気配から脱力感が削ぎ落とされ、鋭利な刃物のような冷ややかさが覗く。ユイも思わず背筋をピンと伸ばした。
「俺はあんたの“魔法”を止めるためにここへ来た」
狭い室内がしんと静まり返る。
部屋の外、遠く離れた高層鉄骨通路を走り抜ける重貨物列車の低い重低音だけが、絶え間ない地響きとなって足元から微かに伝わってきていた。
魔法。幼少期に誰もが絵本で触れる、極めて聞き馴染みのある、それでいて現実からは程遠い架空の概念。
目の前のくたびれた大人が大真面目な顔をして「魔法」などという言葉を口にするのはどこか気恥ずかしく背痒い思いがした。
「……さっきは着替えのドタバタで突っ込みませんでしたけど。その“魔法”って一体何なんですか? この世界に魔法なんてものが存在しないなんて下層の子供だって知っていることです。アニメや漫画のフィクションの中だけの話であって現実には存在しません。“能力”の存在なら知っていますけど。私にはそんな大層なもの、影も形もありませんよ」
アズは少しだけ細めた目をユイに向けた。
魔法は存在しないが、いわゆる“能力”と呼ばれる超常体質は存在する――それがこの社会の冷徹な現実だ。
だが、能力と一口に言ってもピンからキリまである。
もし自分に相手の思考を読み取ったり、指一本触れずに物体を自在に浮遊させたりするような強力な力があれば今頃こんな壁の薄い安アパートの片隅で、カビの匂いに囲まれて暮らしてなどいないはずだ。
大手企業や区画の統治機関は常に有能な能力者を喉から手が出るほど欲している。
戦闘適性が無くとも世間の見栄えが良いビジュアルを持っていれば企業の看板広告タレントや芸能人として華々しい上層生活を送ることだってできるのだから。
しかしユイの心の中には、アズの言っている言葉を「完全な人違いだ」と即座に笑い飛ばせない明確な理由が存在していた。
「……心当たりはあるんだろ?」
アズの静かな問いかけにユイは思考を巡らせる。
ここ数日、この狭い生活圏の中で絶えず感じていた、不気味なほどの違和感――。
彼女はぽつりと自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「……無い、とは言い切れませんね」
「思い出したか?」
「ここ数日、アパートの周りで人っ子一人見ていません。高層通路から“遠く”走る貨物列車の音は響いてきますけど、路地を走る車も、住民の自転車も、配送のドローンさえ一回も見かけない。元々このあたりは人通りの少ない不人気な区画ですけど、それにしても妙に静かすぎると思ってはいたんです」
「概ね正解だ」
正直なところユイはこの強烈な違和感を自分から肯定することが、どこか恥ずかしかった。
“普通”に社会的な生活を送っている人間であれば半日もあればこの異常事態に気づくだろう。
毎日の通勤や通学、食料の買い出し、気晴らしの散歩……理由は人それぞれだが、人間生活を営む以上、必ず建物の外へと出て他者と交差するはずなのだから。
「この第十四区画の該当ブロックは今、ほぼ“閉じた”状態にある」
「閉じた?」
「外から人間も物資も入れない。正確には“入ったつもりで気づけば最初の場所に戻されている”。配送ドローンも、治安巡回員も、一般の通行人もだ。空間の座標と位相が、まるごと歪んで捻じ曲げられている」
ユイは不快そうに眉を寄せる。
この男が監察局の扱う「能力絡みの異常案件」を処理するために派遣されてきたこと自体は理解できた。だが――その異常事態の「中心」にいる元凶が自分だと言いたいのだろうか。
「……そんな異常な能力、教科書でもニュースでも聞いたことがありませんよ。もし本当にそんな広域を歪める力があるなら、今頃ネットもニュースも大騒ぎです。どこの巨大企業だって放っておかないでしょう」
「最近になって“突然発生”したものだからな。それにここまで広範囲かつ物理法則を無視した致命的なものは既存の分類される能力というよりは“現象”そのものに近い。だから俺は分かりやすく『魔法』って表現したんだ」
アズはコートの内ポケットから傷の目立つ小型の情報端末を取り出した。
古びた端末の透過液晶画面にはこのセクター周辺の簡易な立体地図が表示されている。
画面にはユイの住むアパートを中心とした数ブロックの一帯が表示されており、その外周が、不気味な点滅を繰り返す濃い赤線で円状に囲まれていた。
「三日前から、ここ一帯は完璧な封鎖状態に突入している。最初はインフラ設備の事故か、通信障害の類だと思われていたんだがな。調査してみたら違った。人間や車両だけじゃない。無線通信も、物理搬送も全部狂わされる。外側の人間はこの範囲の中に辿り着けない。逆に、中にいる住民は外へ出られないんだ」
「えっ……」
「あんたも昨日、自分で身をもって試したはずだろ。近所の無人販売所で」
ユイの表情が、凍りついたように固まった。昨日の夕方、切らした食料を買い足すために重い腰を上げて外へ出た時のことだ。
――セクターの下層には店員のいる有人商店が極めて少ない。
日常の食料品や最低限の日用品の調達は街角に設置された頑丈な自動販売機や管理人のいない無人販売所で済ませるのが一般的な生活様式だ。
理由は単純で住民も訪問者も“お互いに”治安が悪く、信用できないからだ。
有人店舗は強盗や嫌がらせのリスクが高く自動販売機の方が物理的な防犯フレームで囲まれている分、盗難リスクが低いという歪んだ事情があった。
実際、無人店舗の多くは行政機関や区画を裏で仕切る統治組織に保護料を払い、治安協定を結んでいるため、無人だからといって無軌道な盗難事件が頻発するわけではない。
このように下層では無人店舗システムが極度に普及しているため、本人の生活スタイルや無口な性格によっては数日間誰とも一切顔を合わせずに生活を完結させることが全く珍しくない。
ユイはまさにそういった“人との関わりを絶った”タイプの人間だった。
――そのため、アズの指摘する『決定的な異変』も、こうして外部から指摘されるまでは「自分の気のせい」「体調不良」で片付けていたのだ。
昨日の夕方、彼女は確かに手提げ袋を持ってアパートを出た。
寒々しいコンクリートの路地を十分ほど歩いたはずだった。
……それなのに、ふと我に返ると、自分はなぜか自室のアパートの前に立ち尽くしていた。
連日の課題提出に追われて疲れていたのだと思った。あるいは元々あまり良くない自分の方向感覚が暗がりでさらにおかしくなったのだと。
最悪の場合、他人と距離を取りすぎた結果、遂に自分の頭がおかしくなってしまったのかとさえ思っていた。
「昨日、全く同じルートで外に出ようとして、三回連続で自分の部屋の前に戻ってきたな」
「……そんな細かいところまで、陰から見てたんですか」
「俺の仕事は監視だからな」
アズは嫌味もなく、淡々と言い捨てた。
――自分はいったい、何の監視対象に指定されていたのだろうか。
ユイは激しい眩暈と困惑を覚えながら、しばらくの間固く口を閉ざした。
「待ってください。仮に……仮にそのおかしな話が全て事実だとしてですよ? この異常事態の原因が本当に私で“元凶”の私がこうして普通に部屋で過ごしていて国に監視されていたことは置いておくとして……どうしてあなただけはそんな都合よく外から“侵入”出来たんですか。いくら監察局の人間だからってそんな都合よく法則を無視できます?」
「内部に直接『転送』されてきたんだよ。空間跳躍、瞬間移動って言えば伝わるか。古いアニメとかによく出てくるだろ」
セクター内のどんな閉鎖空間にも神出鬼没に現れるという監察局の恐怖の裏事情をまさかこんな形で知ることになるとは思わなかった。
国外の過酷な荒野から、厳重なセキュリティのホテルの個室、大企業の密室会議室に至るまで、彼らは前触れもなく忽然と現れる。その不気味なインパクトの強さから下層住民の間では「黒服はドブネズミみたいに湧いて出る」と半ば都市伝説的に揶揄されていた。
アズが明かしたそのカラクリは「局内部に強力な空間転送系の能力者が所属している」という非常に単純明快なものだった。
考えれば誰にでも思いつく可能性ではあるが、まさか実際に人間をピンポイントで現場に送り込んでくるとは。
――ひとまず監察局が異常を察知した経緯と、“元凶”である自分が未だに無傷で部屋にいる理由は理解できた。
しかしそれと同時にユイの胸の中に一つの不吉で恐ろしい疑問が湧き上がっていた。
「……でも、私以外の普通の人たち。近所に住んでる人たちは、もしかして全員……死んじゃ……」
「安心しろ。誰も死んじゃいない。ただ眠ってるだけだ。この歪んだ境界線を越えて外に出ようと試みると猛烈な疲労感が蓄積してそのまま強制的に深い眠りに落ちるらしい。今は政府側が“化学プラントの設備事故による緊急ガス漏れと外出制限”って形で、住民には偽の避難情報を流して誤魔化してる」
ひとまず自分の“影響”で死者は出ていない。
もし一人でも人を死なせていたらと思うと――考えるだけで背筋が凍りつくような恐ろしさを感じた。
というのもこの国は人間、特に“下層”の貧困層の人命を極めて軽視しているとはいえ「広域の殺傷能力」を持った無制御な能力者が存在すると分かれば容赦なく即座に抹消に動くはずだからだ。
「……そんな大それたことを本当に私がやってるんですか? どうして私が……」
「さあな。だが現状、この封鎖された異常区画の中で意識を保ってピンピン動き回ってるのはお前一人だけだ」
ユイは以前、自室の古いモニターで漠然と眺めていたドキュメンタリー番組の映像を思い出していた。
そこに登場した能力者は自分が力に目覚めた瞬間のインタビューでこう語っていた。「敵対組織の人間を燃やして処理する裏仕事の最中、より確実で強い火力を心から求めた瞬間、手に炎が宿った」という滑稽で凄惨な話だった。
『――人間が能力に目覚める時、それは必ず強烈な願望や願いと隣り合わせなんだ』
番組の中でその男は自慢気にそう語っていた。
だが、自分にはそんな大層な力など求めた記憶はない。
ただもし日常の中でたった一つだけ、密かな願いがあったとすれば……。
アズは黙り込んで俯いているユイの顔を、逃さず真っ直ぐに見つめた。
「局の分析班が考える、お前のアビリティ発現原因の候補は三つだ。幼少期の深刻な愛着障害、身近な人間の喪失体験、あるいは……孤独な隔離環境への長期適応。まあ、下層で生きている人間なら、どれかしら一つくらいは当てはまるんじゃないか?」
その言葉に、ユイは思わず息を飲んだ。
最も触れられたくない自分の内側を無造作に暴かれたような気がした。本来なら見知らぬ他人に理解されたくもないし、理解したような顔をされたくもなかった。
「俺は心理学者じゃないから、お前の細かいトラウマなんざ知らん。ただこういう『空間を閉ざす』タイプの力は大体、人間関係の拒絶や閉塞感から発現する傾向にある。……まあ、職業柄こういう厄介なメンタル系の案件ばかり担当させられるから詳しくなるんだよ」
「……悔しいですけど若干図星ですね」
「よくある話だ。能力ってのは、本人の無意識の願望に強く引っ張られるものだからな」
ユイはゆっくりと足元へ視線を落とした。
確かに思い当たる節は幾らでもあった。
離れて暮らす家族とは、必要最低限の事務連絡しか取り合わない。通っている学校でも深い関わりを持つ友人など一人も作らなかった。
故郷の街を離れて以来、プライベートで連絡を取り合う相手など皆無だ。
この狭く暗い部屋で、誰とも一言も言葉を交わさずに一日が終わる日常など、何一つ珍しくなかった。
たまに耐え難いほど寂しいと思ったことはある。
……けれど、それ以上に「誰も私に関わらないでほしい」「このままずっと誰にも邪魔されず静かな場所に閉じこもっていたい」と強く願っていたのもまた紛れもない事実だった。
「私が……そんなちっぽけで我儘な理由で、街の区画ひとつをまるごと閉じ込めているっていうんですか」
「まあ、一種の才能だよ。普通の人間は『過去の人生をやり直したい』とか『一獲千金で金持ちになりたい』とかいくら強く願ったところでそれが物理的な力として形になることなんかないんだからな」
「そんなの本当だとしたら周囲に迷惑すぎます」
「完全に見解が一致したな。俺も超絶迷惑だと思ってる」
アズはあっさりと同意した。
実際問題、ユイ自身そんな強大な力を褒められたところで微塵も嬉しくはなかった。
当然、こんな危険な性質を履歴書の特技欄に書けるわけもない。自分自身で制御できない突発的な能力はこの社会では「危険な欠陥体質」と呼ばれ、激しく忌避される。これ以上、自分の存在に不吉なラベルを貼りたくはなかった。
――そもそも能力に目覚める人間そのものが全人口において極めて稀だが、その中で社会的にまともに評価される者などほんの一握りのエリートだけなのだ。
「だからこそ一刻も早くお前のその『魔法』を止める必要がある。今は下層の貧民街のほんの一部分で済んでいるが、もしコレが徐々に侵食範囲を広げていったら手遅れになる。上層のお偉方だって気が気じゃないんだよ。もし万が一、ウッカリ上層の高級住宅街や重要プラントにまで封鎖が広がってみろ、首が飛ぶどころの騒ぎじゃないぞ」
「そんなリアルで生々しい話しないでくださいよ。……で、どうやって止めるんですか? 私、自分の能力の止め方なんて一重も知りませんよ」
「記憶処理だ」
アズの声は、恐ろしいほど静かだった。
記憶処理――この国においては犯罪者の更生や重度精神疾患の治療として広く知られているメジャーな“処置”だ。
多くの場合は深刻なトラウマの払拭、あるいは国家機関との秘密保持契約に基づいて、該当する記憶の一部を局所的に消去・改変する手技として用いられている。
一般市民にとっても聞き馴染みのある手段であるだけに一見すると非常に“穏便”で人道的な解決策のように聞こえる。
「能力が突然発現した前後の記憶をきれいに削り取って原因となった極限の精神状態ごと意識を薄めるんだ。そうすれば現象そのものが急速に収束する可能性が高い」
「可能性……? 絶対に元に戻るわけじゃない時点で、十分怖いですけど」
「だから本来の規定通りなら、お前は即座に隔離施設へ終身送りの案件なんだよ。これでも監察局としては、かなりお前に譲歩してやってる方だぞ」
――譲歩。彼らなりの最大限の配慮なのだろうが、素直に感謝するにはあまりにも複雑だった。
ユイの頭の中にあった監察局のイメージといえば血も涙もない冷酷な国家の暴走機関というものだった。
行政機関の全容を裏で束ねる実質的な恐怖の象徴。彼らに歯向かえば、どんな巨大な犯罪組織であっても一夜にして跡形もなく吹き飛んでしまう。直接その現場を見たことはないが、その悲惨な実績は学生の耳にすら届いている。
アズの口調は終始淡々としていた。だが、その日常的な淡々さこそが、かえって逃れられない現実味を帯びて迫ってくる。
……この男はその気になればこの狭い部屋で自分を殺害することなど造作もないのだろうか。
「そんなわけだから。そろそろいいか? おとなしく一緒に来てもらいたいんだが」
アズは膝を叩き、ソファから立ち上がろうとした。
ユイは少しだけ考え込む素振りを見せたあと困ったようにへらりと笑ってみせた。
「……『いいですよ』って、素直についていってあげたいのは山々な切りなんですけどね」
「なんだ? 意外だな。随分と物わかりの良さそうな物静かなやつに当たったから今日こそは定時で残業無しで帰れると思ったんだが」
「だって、私の記憶が消えちゃうんでしょう?」
「ああ。発現前後、およそ四十八時間程度の記憶だ。何か困ることでもあるのか? お前、学生だろ。今はちょうどセクターの試験休みの期間のはずだ」
「はあ……そこまで完璧に調べてるんですね。その休みの間に、絶対にやってこいっていう課題が出されてるんですよ。この区画一帯を裏で仕切ってる統治組織から。共同庭園演習の提出課題があるんです」
「共同庭園演習……? ああ、あの半反社組織が運営してる怪しい職業大学のことか」
「はい。区画管理団体と合同で行う実地デザイン演習です」
ユイはテーブルの端にあった自分の情報端末を引き寄せ、画面をアズに向けた。
画面には幾重にも重なった複雑な立体庭園の設計図面が表示されている。
密閉温室区画の配置、作業員の動線、特殊給水管のルート、危険植物の配置図。
その端には、赤い太字で血も涙もない評価基準が並んでいた。
【捕食事故率を規定値(0.02%以下)に抑制すること】
【周辺住民動線の絶対的安全性確保】
【死体処理効率および分解速度を維持すること】
アズが心底嫌そうな顔を歪めた。
「到底、普通の学生が出される課題の画面に見えねえな……」
「庭園管理科ですから。言ったでしょう、“下層”の学校に通ってるって。事実上の職業訓練施設みたいなものですよ。食費や家賃の補助だって、この学校の単位を維持して課題を出さないと支給が止まるんです」
ユイは平然と言い放つ。
――彼女だって、好き好んで家族と離れ、こんな荒んだ下層の怪しい学校に通っているわけではない。
かつて親の事業が失敗し、家族の中で一人だけ下層への移住と助成金受給を命じられなければこんな惨めな状況にはならなかったのだ。好き好んで人肉を喰う危険な植物の世話もしていなければこんな壁の薄い安アパートにだって住んでいない。
「この課題、三人一組のグループワークなんですけど、私だけ記憶が飛んで途中離脱すると、全体の設計データを管理してる担当が消えるんですよね」
「知らん。そこまで他人の学校の都合に面倒見きれるか」
「課題が未提出になると、秋の就労推薦が完全にストップするんです」
「……あー」
アズは片手で盛大に顔を覆った。
下層で生きる学生にとって、組織からの就労推薦停止が何を意味するか。
所属先と後ろ盾を失うということはそのままセクターでの市民権と生活基盤を失い、路頭に迷うことを意味している。
これは学生や社会人といった甘い問題ではなく、この過酷な国における生存に直結する死活問題だった。
「だから今すぐ記憶を消されると本当に困るんですよ」
「課題データのバックアップは取ってないのか?」
「学校の外部クラウドサーバーに保管してあります」
「……この閉鎖空間のせいか」
「はい。外部との同期通信が完全に途絶えてます」
アズは天を仰ぎ、深く深く溜息を吐き出した。
「お前……本当にタイミングが最悪なやつだな……」
「あと四十八時間だけ待ってください」
「長すぎる。現場の独断で許容できる猶予じゃない」
「でも理屈は通ってるでしょう? 現象が明確に確認されたのが今日の夕方。あなた達が私を特定して部屋に来たのが夜の七時。なら明後日の夜までに課題を提出して、その後に私を処理すれば時間の辻褄は完璧に合うじゃないですか」
「『処理』って嫌な言い方をするな」
「記憶消去」
「余計に嫌な響きになったぞ」
ユイはくすりと小さく笑った。
「お願いですからこの課題だけ無事に提出させてください」
「却下だ。流石に二日間の放置はリスクがデカすぎる。帰った後、報告書を見た上に怒鳴られるのは俺なんだぞ」
「監察局の偉い人って普通に部下を怒鳴るんですね。てっきり冷徹なロボット兵士とか、人間離れした恐ろしい人たちばかりなのかと思ってました」
「中にいるのは全員ただの人間だよ。理不尽な理由で普通に怒鳴られる。どこにでもある劣悪で面倒な人間社会だからな」
「なんだか全然夢がないですね」
「最初から夢も希望もない組織なんだよ、ここは」
食い下がるユイを余所にアズは今度こそ重い腰を上げて立ち上がった。
しかし彼が銃や警棒といった武器を構える気配も無ければ部屋の外に他の同行者を呼び寄せる気配も一切感じられなかった。
「ほら。さっさと準備しろ、行くぞ」
「嫌です」
「頼むから素直に協力してくれ。こっちだって、若いお嬢相手に手荒な真似はしたくないんだ」
「今、私に無理やり触ったら死にますよ。あなた、自分が今どこにいるのか自覚がないんですか? この閉鎖空間の中。いわば私の内面の世界の中、私の身体の中にいると言っても差し支えないでしょう?」
「だからなんでそんな物騒な脅し文句ばかり出てくるんだよ、最近の学生は……」
「下層の学生は慢性的な課題の恐怖で常に情緒が不安定なんです」
「生まれて初めて聞いた酷い理論だな」
アズは心底呆れたように溜息を吐いた。ユイはずっと逃げようともせずじっと彼を見つめ続けている。
――案の定、男は強硬手段に出てこない。
監察局としてもこの前例のない「空間閉鎖型」の異常事態に対する決定的な対処法を確立できていないのだ。
「……あの」
「なんだよ」
「あなたたち、私を『殺せない』んですよね?」
室内の空気が、ピタリと固まった。
アズは目を細め、底知れない瞳で彼女を見つめ返す。
「……どうしてそう思うんだ?」
「国家公務員のやり方にしてはあまりにも回りくどいからです」
「回りくどい?」
「本当に危険で処理すべき対象ならドアをノックして説得なんてせず最初から遠距離から撃たれてます。あるいは、このアパートごと爆破して終わりにするはずです。監察局って、そういう非道な処理をする組織ですよね?」
「買い被りすぎだ。俺たちは爆破魔じゃない」
「それにあなたはずっと私を説得しようとしてる。お願いまでして引き伸ばそうとしている。つまり……私を物理的に傷つけられない特別な理由があるんですよね?」
アズは数秒間の沈黙の後、参ったというように小さく鼻で笑った。
「……本当、嫌になるくらい勘が良いな」
「当たりですか?」
「半分な」
「残り半分は?」
「お前みたいな『空間閉鎖型』の発現者は局にとっても激レアなサンプルなんだよ。下手に物理的なダメージを与えて刺激すると死に際に何が起きるかわからん。最悪の場合、反動でこのセクターの街ひとつをまるごと空間の彼方に吹き飛ばしかねないだろ」
「へえ……」
「あと」
アズは立ち上がるのを諦めたように再びドカリとソファへ座り直した。
アズはぼそりと、小さな声でつぶやく。
「お前……今にも自分で死にそう顔をしてるからな」
「……は? それただの悪口ですか?」
「そういう追い詰められた奴を下手に恐怖で追い詰めるとろくなことにならないってのが、俺の長年の経験則なんだよ」
ユイは驚いたようにパチパチと目を瞬かせた。
「監察局の人ってもっと血も涙もない冷たい人たちなのかと思ってました」
「冷たいぞ。仕事と割り切ればな」
「でも私を連行するか二日待つか、本気で悩んでくれてますよね」
「俺を悩ませてるのはお前のその往生際の悪さだ」
アズは頭を抱え、深く長々と息を吐き出した。
「……四十八時間だけだよ。ただしその間に空間の歪みが少しでも悪化したり、外部に被害が出たら即座に交渉終了。強制的に連れていく。それと期間中は絶対にお前一人で単独行動するな。俺がずっと監視する」
「了解です。ありがとうございます」
「返事が軽すぎるだろ……」
ユイは自分でも驚くほど久しぶりに心から嬉しそうに微笑んだ。
誰かとこんな風にくだらない他愛もない会話をしたのが、いったいいつ以来だったのか、もう思い出せなくなっていた。
アズはそんな彼女の素直な笑顔を見て、どこか嫌そうに気まずそうに顔を背けた。
「……あーあ」
「どうかしましたか?」
「これ、絶対に後で俺が一番面倒くさくなるパターンだ」
窓の外では高層通路を走る重貨物列車の規則的な轟音が、相変わらず遠く低く響き渡っていた。
完全に閉ざされた街の夜は妙に静かでそしてほんの少しだけ温かかった。




