1話 政府職員との出会い
0日目・夕
インターホンが鳴った。
安アパートの薄い壁に電子音がやけに乾いて響く。
少女――ユイは脱ぎかけた上着を胸元に抱えたまま動きを止めた。
時刻は夜の七時。
窓の外では高層通路を走る輸送列車の低い振動音が絶え間なく続いている。
“上層”へ向かう貨物便だ。規則的な轟音はこの街では雨音みたいなものだった。
――ピンポーン。
“予想外”の二回目にユイは眉を寄せる。
宅配の予定はない。自分を訪ねてくるような家族や友人はいない。
大学の知人が訪ねてくることもない。そもそもこの部屋の番号を知っている人間自体がほとんどいなかった。
生憎、このアパートのインターホンにモニターは付いていない。
ユイは数秒だけ考え、それから上着を乱暴に羽織って玄関へ向かった。
チェーンは掛けたまま、扉を少しだけ開く。
――ドアの隙間に、黒いコートが見えた。
「あ」
扉の前の男が声を出した。
ユイも思わず声を漏らす。
「……えっ」
黒い外套。黒い手袋。
くたびれた顔。寝不足の隈。年齢は三十代前半くらいだろうか。
無精髭はないが、剃ったばかりの青さが残っている。
この土地では滅多にお目にかかられない“小綺麗”な人間。
監察局――と一目で分かった。この黒服は政府直属の人間だ。
この国で育った人間なら誰でも察する。特にこの街の人間は察しがいいだろう。
治安が悪いからか、何らかの事情があるのか。彼等の姿を目にする機会はそう少なくない。
男は視線を逸らし、頭を掻いた。
「……いや、その……悪いな。まさか着替え中だとは思わなかったんだよ」
ユイは無言で男を見る。男も沈黙する。
気まずい空気が流れ、やがて男は肩を竦めた。
「そんな警戒しないでくれよ。俺が怪しい奴に見えるだろ?」
「見えますね」
「だよな。まあ実際、怪しい仕事ではある。でも別にあんたをどうこうしに来たわけじゃない」
男はそこで一拍置き、苦笑した。
「……いや正確には“どうこうするため”に来たんだけどな。俺の仕事はあんたの“説得”なんだ。期間内に話を付ける必要があって」
「説得?」
「――お嬢さん、今すぐあんたの『魔法』を止めてくれないか?」
――魔法。
ファンタジーではお馴染みの“概念”だ。絵本や漫画、アニメといったメディアでは今でも根強く支持される架空の力――この世界に魔法は存在しない。
当然ユイは魔法使いではない。どこにでもいる普通の学生だ。
……大の大人、それも国の役人が「こんな冗談」を言う為に家に来る?
ユイはしばらく男の顔を見つめていたが、やがて静かに言った。
「とりあえず、ドア閉めてもらっていいですか。まだ着替えが終わってないので」
「ああ。そいつは失礼」
男は素直に一歩下がった。小さく音を立てて扉が閉まる。
ユイは背中を扉に預けたまま、小さく息を吐いた。
監察局。最悪の相手だ。
セクター内の治安維持、思想監査、異常案件の隠蔽、情報統制。
表向きは行政組織。実態は政府の目と耳、そして手足。
この国の住民はみな、あの黒服を恐れている。
なのに――。
「……変な人」
なぜか、恐怖より先にそう思った。
◇
――五分後。
男は律儀に部屋の前で待っていた。
放置していれば帰ってくれる、日を改めてくれる……とは思ったが、現実はそこまで甘くない。
「悪いな。茶まで出してもらって」
男は湯気の立つカップを手に気怠そうにソファへ沈み込んでいた。
ユイの部屋は狭い。古いテーブル。小型の調理台。本棚。折り畳みベッド。
それだけで空間が埋まる。下層学生向けの格安住宅だ。
「いえ」
ユイは男の向かいに腰を下ろす。
男は部屋を見回しながら、ぼそりと呟いた。
「しっかしまあ……最近の若い子ってのはみんなこんな感じなのかね」
「こんな感じ?」
「ほら、こうやって得体の知れない男をホイホイ部屋に上げてるだろ。普通上げないだろ。このへんは治安だってクソ悪いし……」
「得体は知れてますよ」
「ん?」
「あなた、監察局の人でしょう」
男が目を瞬かせる。
「おいおい……一目ですぐ分かるもんか?」
「黒服ですし。変わった刺繍のコートじゃないですか」
「あー……まあ、そりゃそうか。……でも普通はもうちょい怯えるぞ」
男は気まずそうに鼻を擦った。
「怯えてほしかったんですか?」
「いや。仕事がいくらか楽になるってだけだ」
どこか淡々とした口調だった。
監察局の人間と話す機会など一生に一度あるか否か。普通に暮らしていれば“無い”機会だ。傍に在りながら、得体の知れない。それでいて恐ろしい組織。
あくまで男はその“一人”に過ぎないが、その一端に触れることで人間の組織であることを再確認する。
ユイは男の顔を覗き見る。
何も珍しくない。どこにでもいる疲れている顔だった。
――この男はきっと毎日ろくに寝ていない。そういう顔をしている。
「名前」
ユイが小さく尋ねる。
「は?」
「あなたの名前」
「あー……名乗る必要あるか?」
「私にはありますけど」
ユイは黙って机の上の学生証を差し出した。
この国では何をするにも身分証が必要だ。学生証はすぐに取り出せる位置に置いている――まさかこんな使い道をする日が来るとは思わなかったが。
男はちらりと確認する。
「ユイ。培養学舎、庭園管理科、一年……土地に似合わずお上品な勉強してんのな。ああ、お前はファミリーネームの無い地域の出身なのか。簡潔な名前だ」
「それで、あなたの名前は?」
「アズ」
「自分もシンプルじゃないですか。偽名ですか?」
「もちろん」
男は悪びれもなく言う。
“下層”の住民が学校に通っていること自体珍しい。普通の人であればそのことに驚くだろう。しかしこの男の興味は学科の方にあるらしい。
珍しいから?――ユイは少しだけ笑った。
アズはその表情を見て、妙な顔をした。
「……なんか調子狂うな、あんた」
アズはそう言って後頭部を掻いた。
長い指――監察局の人間というとユイはもっと機械のような存在を想像していた。
感情を見せず、必要なことだけを告げる。命令を伝え、違反者を連行し、書類を残して去っていく。そういう人種だと思っていた。
監察局は政府直属の執行機関だ。
“局”の中にもいくつか部署があり、全てが危険とも言えないけれど……。
住民の間では「黒服に目を付けられたら終わり」と半ば冗談めかして言われているが、実際は誰も笑わない。
――しかしこうして実際に接してみると自分と何ら変わらない人間に見える。
「そうですか?」
「そうだよ。もっとこう……泣くとか喚くとかすると思ってたんだ」
彼らは表に出ることもあれば出ないこともある。新聞に名前が載ることは滅多にない。だが事件が起きればいつの間にか現場にいる。
誰かが姿を消したという噂が流れれば、その近くで黒いコートが目撃される。
政府が「存在しなかった」と発表した事故の現場にも必ずと言っていいほど彼らがいる。住民にとって監察局とは、嵐や地震に近い。理屈ではなく恐れるものだ。
その象徴が、あの制服だった。
銀糸で紋様が刺繍された黒と白のコート。
階級や所属部署によって細部が異なるらしいが、ユイをはじめとする一般人には違いなど分からない。ただ黒服を見た瞬間、「監察局だ」と理解するだけだ。
強制執行官、監査官、調査官、監視官。名称はいくつもある。だが住民からすれば全部同じだった。政府の手。逆らってはいけない相手。それが監察局。
だからユイはもっと冷たい人間を想像していた。
人を数字で数えそうな人間。相手の事情など気にも留めない人間。
――少なくとも玄関先で着替え中だったことを本気で謝るような人間ではない。
だが目の前の男は違う。
疲れている。とにかく疲れているのだ。
目の下には薄い隈があり、瞼は少し重そうだった。
姿勢もどこか気が抜けている。警戒心がないわけではないのだろうが、それ以上に慢性的な睡眠不足が勝っているように見えた。
今もソファに腰を下ろしているというより、沈み込んでいると言った方が近い。
熱い茶を両手で持ちながらぼんやり湯気を眺めている姿は監察局の執行官というより休日の会社員だ。もし街中ですれ違ったならまず「仕事帰りのサラリーマンだ」と思っただろう。
少なくとも国家権力の一端を担う人間には見えない。
そんな感想を抱いた瞬間、アズが不意に顔を上げた。
「なんだ?」
「いえ」
「いや今絶対なんか失礼なこと考えてただろ」
「考えてません」
「嘘つけ。そういう顔だった」
監察局の人間にしては妙に勘がいい。
あるいは単純にユイが分かりやすすぎるだけなのかもしれなかった。
「監察局の人って、みんなそういう反応されるんですか」
「まあな。職業柄」
アズは苦笑した。
その笑みは自嘲に近かった。
恐れられていることに慣れている人間の顔だった。
同時にそれを好いているわけでもなさそうだった。
ユイは少しだけ首を傾げる。
「嫌なんですか」
「何がだ?」
「怖がられるの」
アズは茶を口に運びかけたまま止まった。
数秒考えたあと、肩を竦める。
「別に。今更だな」
そう答えたものの、その声にはわずかな苦味が混じっていた。
今さら――つまり昔は違ったのだろうか。
ユイは少し気になったが、初対面の相手に聞くことではない気もした。
……代わりに別の話題を選ぼうか。
アズは茶を一口飲み、目を細めた。
「おっ、うまいなこれ。上層にもこんなの中々無いぞ」
カップを眺める顔だけは妙に真剣だった。
さっきまで魔法だの監察局だの言っていた男と同一人物には見えない。
「茶葉が上等なものなので」
「へえ、そうなのか」
「“食人花”です。聞いたことないですか?」
「……は?」
アズの動きが止まる。
ユイは真面目な顔で続けた。
「人間を食べさせて育てる花ですよ。私が育てたわけじゃないですけど、不要になった葉の部分を庭師の人達が学校に売りに来るんです。これは生協に売ってて」
「待て待て待て。聞きたくなかった。そういうことは先に言えよ!」
「どうしてですか」
「だって……ほら、間接的に人間飲んでるってことになるだろ」
アズは即座にカップを机へ戻した。
真顔だった。本気で嫌そうだった。
その反応が予想以上だったのか、ユイの口元が緩む。
「今更じゃないですか」
「何がだよ」
「監察局でしょう?」
「監察局だって人間なんて食いたくねえよ」
「食べてません。お茶です」
「そこじゃねえ」
思わず強く返したあと、アズは頭を抱えた。
ユイの肩が小さく震える。そして。くすりと笑った。
静かな部屋だった。だからこそ小さな笑い声は妙にはっきり聞こえた。
アズは顔を上げる。
ユイは慌てて口元を押さえたがもう遅かった。
笑っていた。心底おかしそうに。
アズはしばらく呆然とその顔を見ていた。
この部屋で誰かと笑い合うことなど滅多にないのだろう。
それはアズにも分かった。
笑い慣れていない人間の笑顔だった。だからこそ妙に印象に残る。
「……本当に調子狂うな」
「そうですか?」
「そうだよ」
アズが監察局の訪問先で笑われたのは初めてだった。
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異空間シェアハウスは『退廃都市の記録係』のスピンオフです。こちらは共通の世界長編となっております。もし世界観を気に入っていただけたらこちらもどうぞ。




