12話 溶解
3日目・昼。
遮断されていた通信回線は正午を知らせる古いサイレンの残音とともに復旧した。
窓の外を隙間なく覆っていた薄暗い靄のような空気の歪みが、日光の粒子に弾かれるようにして完全に霧散していく。
途切れていた高架通路の電波表示用デジタルインジケーターが、明滅を繰り返しながら一つ、また一つと鮮やかな緑色の点灯を取り戻していった。
重く淀んでいた安アパートの部屋の空気が外部のネットワークとの接続を回復した途端、急激に密度を失って薄れていくような奇妙な感覚。
世界が再びこの部屋を「発見」し、強引にその一部として組み込み直しているようだった。
ユイは作り付けの狭い机の前に座り、静かに息を整えた。
画面に表示されたローカル保存用のデータの最終確認を行い、送信実行のボタンを指先でそっと押し込む。
画面の中央で、ローディングを示す細い透過リングが青く数回旋回した。
『送信中……』
『暗号化キー照合完了』
『メインサーバー接続完了』
パッと画面の表示が切り替わる。
『共同庭園演習:最終課題データ送信完了』
無機質な青い文字が、暗いモニターに鮮やかに発光した。
大学のメインサーバーへと彼女が四十八時間の猶予の中で、徹夜同然で組み上げた空間設計データが確実に届いた証だった。
送信完了の無機質な表示。
それを見届けてからソファの端で腕を組み、ただ静かに壁を見つめていたアズが衣擦れの音を立てて立ち上がった。
「行くぞ」
「……はい」
ユイは自分でも驚くほど素直に頷いた。
やり残したことはもう何ひとつなかった。
下層の冷たく理不尽な現実の中で必死にしがみついていた「学生としての自分」を繋ぎ止めるための証明書は無事に送られた。
あの不気味な睡魔の領域のなかで引き延ばされた四十八時間はここで本当の終点を迎えたのだ。
ユイは使い古した薄い上着を羽織り、最低限の身の回り品が入った小さなバッグを肩にかけた。
アズの後ろについて湿気で建て付けの悪くなった金属製のドアを押し開ける。
部屋を出る。閉鎖が解けた区画には少しずつだが確実に日常の不揃いな生活音が戻り始めていた。
昨日までの不気味な静寂が嘘だったかのように薄い壁の向こうからパイプを水が流れる甲高い排水音が聞こえ、アパートの老朽化した換気扇がけたたましい回転音を上げ始めている。
遠くで緊急事態の全面解除を告げる街頭アラームが、一定の間隔で電子音を響かせていた。
上空を見上げれば、システム再起動を終えた自動搬送ドローンが何機も整然と列をなし、灰色の空を幾何学模様を描くように交差しながら飛び去っていく。
通りに出ても、人影はまだ疎らだった。
数日間、原因不明の異常な睡魔によって昏睡状態に陥っていた住民たちはまだ自室で呆然と身体を起こしている最中なのか、あるいは急激な現実の復帰に頭を追いつかせかねているのかもしれない。
だが、世界は確実に動き始めていた。
ユイが無意識の拒絶で閉じ込めていた時間も狂わせていた街の歯車も、何事もなかったかのように元通りの速度で回転を再開している。
アズは区画の外れ、半ば崩れかけた高架下の一角に停めていたエンブレムの完全に剥がされた黒い業務用車両へユイを案内した。
外光をほとんど反射しないマットブラックの車体は、いかにも監察局の裏の仕事に使われる特務車両といった重々しい佇まいで通りかかる数少ない住民たちの警戒混じりの視線を弾き返している。
「病院みたいなところに行くんですか?」
車体の無機質で無骨な金属の質感を見つめながらユイがぽつりと尋ねた。
「似たようなもんだな。まあ……重要度は段違いだから、その道中も入口も一般には見せられないわけだが」
アズは黒いコートのポケットから取り出した無機質なキーレスエントリーのボタンを押し、重いドアロックを解除しながら淡々と答えた。
カチャリ、と硬質な音が響く。
「一応聞きますけど……痛いですか?」
「寝てる間に終わるよ。移動中に意識も消すし、施設に着いたら麻酔と記憶処置用の神経抑制剤をセットで打つからな。起きた時には自分のアパートのベッドの上だ」
「雑な説明」
「安心しろ。下手な医者より腕はいいから」
「監察局なのに?」
「偏見が酷いな。これでも専門の教育はしっかり受けてるんだよ。人体構造と脳神経のどこをいじれば、綺麗に記憶の引き出しを閉じられるか、それだけはプロだ」
ユイは小さく笑った。
アズの軽薄でどこか突き放したような口調。それがかえってこれから自分の存在の根幹が書き換えられるという底知れない恐怖をふんわりと和らげてくれる。
ユイは車両の重いリアドアにそっと手を掛けた。
冷たい金属の感触が指先から伝わってくる。このドアを開けて中に乗り込んでしまえばもう二度と後戻りはできない。
――その時だった。
「……アズさん」
手を止め、ユイは振り返らずに彼の名前を呼んだ。
「なんだ」
アズの声が少しだけ後ろから静かに響く。
「もしまた街のどこかで会っても……私、多分あなたのこと分かりませんよね」
言葉が冷たい下層の風に乗り、二人のかすかな隙間に漂う。
アズは数秒、沈黙した。
高く澄み始めた秋の空を見上げるでもなく、ただユイの華奢な背中に視線を落としていた。
「だろうな」
低くどこまでも嘘のない声だった。
「そっか」
「でもお前は元々そういう生き方してただろ」
アズの言葉に、ユイはピクリと肩を揺らした。
「……」
「人と関わっても深く踏み込ませない。いつでも切り捨てられるように自分からも傷つかないように距離を置く。何も残らないようにする」
ユイは何も言えなかった。
図星だった。
下層という凄惨で不条理な環境で生き抜くためにユイが身につけた唯一の防衛本能。
誰かと心を通わせても、いつか理不尽に奪われるのなら、最初から誰も受け入れない方がいい。深い記憶も、特別な感情も、生きるためには余計な荷物でしかないのだと、自分に言い禁じ続けてきた。
「だからまあ」
アズは苦笑する。その苦笑いには彼自身が辿ってきた過酷な経験と冷徹な監察官としての諦念が混ざり合っていた。
「いつも通りだ。お前が元々望んでいた静かで誰にも邪魔されない平穏な日常に戻るだけだよ」
ユイは少しだけ俯いた。
擦り切れた靴底で砕けたアスファルトの小さな小石を静かに踏みしめる。
ずっとそうやって生きてきた。誰かと関わることを拒み、自分の殻に引きこもって淡々と「優秀な生徒」を演じてきた。
ならアズの言う通りだ。記憶を消され、この二日間の出来事を忘れることはユイにとって本来の「正しい立ち位置」に戻るだけに過ぎない。
――そして。
「……それ、ちょっと寂しいですね」
ぼそりと漏れ出た声は風にかき消されそうなほど弱かった。
ずっと望んでいたはずの無菌室のような孤独。誰にも踏み込ませない完璧な防壁。
だが、この二日間でアズという男が乱暴にそしてどこまでも不器用に踏み込んできた。
食人花のお茶を飲み、まずい栄養剤を食べ、くだらない映画を並んで観た。その暖かさを知ってしまった後ではかつての「いつも通り」が、ひどく寒々と寂しいものに思えてしまったのだ。
アズは返事をしなかった。
「寂しい」という言葉を拾い上げてしまえば監察官としての自分の引き金が狂ってしまうことを彼は痛いほど理解していたからだ。
アズはコートのポケットから小さな無機質なケースを取り出すとそこから一粒の小さな白い錠剤を取り出し、水の入った未開封のペットボトルと一緒にユイに手渡した。
「ほら。移動中に寝ててもらうための導入剤だ。これを飲んでから乗れ」
「これ……あの不味い栄養剤と同じ味がしたりしませんか?」
「失礼だな。無味無臭だよ」
ユイは渡された錠剤を受け取り、水で飲み下した。
そして、車両のドアをガタリと力強く開けたアズを見上げる。
「乗れ。これ以上引き延ばすと本当に帰れなくなるぞ」
不機嫌そうにけれどどこか優しさを孕んだ声で促す。
「……魔法ですか?」
ユイが振り返り、少しだけ意地悪く目を細めて尋ねた。
「違う。俺の気分の問題だ。これ以上情が湧くとお前を連れて逃げ出したくなっちまうだろ」
「……嫌な冗談」
ユイは吹き出した。
大袈裟に肩をすくめるアズの顔を見て胸の奥に詰まっていた重い塊がすっと溶けていくような気がした。
最後にちゃんと笑えた気がした。
ユイは車内へと足を踏み入れ、黒いレザーシートに深々と腰を下ろした。
重厚なドアがバタンと閉じられ、外界の騒がしい生活音が完全に途絶える。
フロントガラス越しに見える、アズの影。
彼が運転席に乗り込み、エンジンを始動させる。重い重低音が車体を揺らし、黒い車両はゆっくりと下層の灰色の街並みを滑り出していった。
車内は不気味なほど静かだった。
防音性の高い特殊な特務仕様の車体は、外の騒音を完全にシャットアウトしている。
「準備はいいか」
バックミラー越しに、アズの瞳と視線が合う。
「はい。いつでも大丈夫です」
ユイは静かに答えた。
さっき飲み込んだ薬の効果か、身体の先からじわじわと心地よい脱力感が広がってくる。
「すぐに強い眠気が来る。目を閉じたらゆっくり数を数えてろ。眠ったらそのまま施設に連れていく」
「……アズさん」
「なんだ」
「名前、教えてくれないんですよね」
「『アズ』でいいだろ。偽名だろうがなんだろうが、お前が覚えてるのはその名前だけなんだからな」
「そうですね」
ユイは微かに笑い、シートに深く頭を預けた。
頭の芯が急激に重くなり、視界がじんわりと白くぼやけ始める。思考の糸がひとつまたひとつと解けていくような強烈な浮遊感。
(ああ……本当に、消えちゃうんだ)
課題を終えた達成感。
冷たい部屋で共有した体温。
食人花のお茶の苦い匂い。
アズの苦い顔。
大切で愛おしかった記憶の断片が水に溶けた絵の具のように薄まり、消えていく。
ユイは重くなる瞼に抗わずゆっくりと目を閉じた。
「……ありがとう……」
声になったかどうかも分からない掠れた呟きを残し、ユイの意識は深い、深い闇の底へと沈んで行った。
バックミラー越しに少女の頭がカクンと落ち、完全に深い眠りについたのを確認してアズは静かに息を吐き出した。
車内のモニターにはユイのバイタルサインが表示され、安定した睡眠状態に入ったことを示している。これで施設までのルートにある地下ゲートの場所も彼女に見られることはない。
「……礼を言われる筋合いはねえよ」
アズは誰に聞こえるでもなく呟き、アクセルを踏み込んだ。
車両は下層区画を抜け、監察局の管理下にある地下施設へと向かっていく。
街は完全に息を吹き返していた。人々が行き交い、ドローンが飛び交い、何事もなかったかのように日常が続いていく。
少女が命がけで完成させた課題データはすでに大学のサーバーへ届き、彼女の未来を保証する「推薦」として処理されているはずだ。
彼女は施設に着いたのち「能力」という不条理な呪いから解放され、明日からはただの真面目な学生としてこの下層で生きていく。
アズという男のことなど、綺麗さっぱり忘れて。
「これでいい」
アズは自分に言い聞かせるように呟き、ポケットから安煙草を取り出した。
車内禁煙の赤いランプが点滅したが、彼は無視してライターの火をつけた。
一口吸い込み、紫煙を天井に向けて吹き出す。
忘れる側の人間は何も失わない。傷つくことも、寂しさを抱えることもない。
けれど忘れられる側の人間にはその二日間のすべての記憶と温もりと傷跡が永遠に残る。
「……いつも通り、か」
アズは苦笑した。
自分もまたそうやって無数の人間を処置し、見送り、忘れられながら生きてきたのだ。監察官という暗闇を歩く人間の、これが正当な報いなのだと。
バックミラーに映るユイの寝顔は今まで見たどんな顔よりも静かで、穏やかだった。
閉ざされた四十八時間の猶予は、ここに完全に終わりを告げた。
車は灰色の街の雑踏の中へと消えていき、残されたのは誰も覚えていない――けれど確かにそこに存在した二日間の光だけだった。




