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13話 境界の残照

 陽光が巨大な強化ガラスの天井を透過して、やわらかく降り注いでいた。


 大学の中央温室区画――下層の無機質で灰色の街並みや絶え間なく充満していた重く湿った排気ガスの不快な匂いとは完全に隔絶されたその空間には、青々とした葉の匂いと湿度を含んだ暖かな土の香りが満ち満ちている。

 天井近くに設置された大型の調温ファンが一定のリズムで微かな駆動音を立てて静かに回転し、人工的に制御された微風が時折、熱帯植物の大きな葉をサラサラと揺らして吹き抜けていく。


 ユイは一人、白磁のタイルが綺麗に敷き詰められた静かな通路をゆっくりと歩いていた。


 手元の小型端末が、ひそかに電子音を鳴らす。

 画面を開くと担当教員から送られてきた『共同庭園演習:最終結果報告』という件名の通知が表示されていた。


『提出された設計データおよび生態系シミュレーションの完成度を極めて高く評価する。よって本課題は「A評価」をもって通過とし、本学からの上層特別推薦枠へのエントリーを正式に承認する』


 簡素で素っ気ない定型文通りのテキスト。

 本来ならその場で跳びあがって歓喜するべき結果だった。下層という貧しく先の見えない環境から抜け出し、自分自身の力だけで未来を切り開くための唯一の切符。それを手に入れるために自分はどれだけの夜を削り、どれだけの孤独に耐え、血の滲むような努力を続けてきたことだろう。


 だが――ユイは画面を見つめたままぽつりと呟いた。


「……なんだろ」


 胸の奥底にかすかな、それでも無視できない小さな引っかかりがあった。

 課題を完遂したという大きな達成感や安堵感のすぐ後ろにぽっかりと開いた小さな穴のような違和感。まるで数百ピースある複雑なジグソーパズルの最も重要な最後の一片がないまま強引に額縁の中に完成させてしまったかのような説明のつかない感覚だった。


 ユイは歩みを止め、温室の金属製の手すりにそっと寄りかかった。

 端末を上着のポケットに仕舞い、眩しい太陽の光が差し込む高い天井を見上げる。


 ここ数日、妙に長くて鮮明な夢を見ていた気がする。


 薄暗く狭い、見慣れたはずの自分のアパートの部屋。

 窓の外を隙間なく覆っていた重苦しい不気味な靄と遠くから規則正しく腹に響いてくる貨物列車の重々しい振動音。

 型崩れした古い小さなソファに深く腰掛け、不機嫌そうに天井を眺める着古した黒いコートを着た背の高い男の影。


――誰なんだろう。


 必死に思考の糸を辿り、その影の顔を思い出そうとする。

 だが、意識を向けた瞬間に脳の奥深くで冷たい拒絶が起きる。

 まるで分厚い濃霧が視界を覆い尽くすように輪郭は一瞬でぼやけ、思考は形を失って散り散りに霧散していってしまう。


 何かとても大切なものがあった気がする。

 食人花のお茶……? 不味い栄養剤……? 内容のよく分からないくだらない古い映画……?

 断片的な記憶の欠片のような単語が、意識の表面に浮かんでは弾けて消える。


 だが、そこに恐ろしさや恐怖感はなかった。

 思い出せないもどかしさと同時に不思議と胸の奥がほんのりと暖かくなるような、何かに優しく守られていたような静かな余韻だけが確かに残っていた。


「……気のせいかな」


 ユイは首を小さく振って、温かい吐息を吐き出すと、視線をゆっくりと足元へ落とした。


温室の隅、白磁のプランターの中でまだ芽が出たばかりの小さな苗が可憐に揺れていた。

 自分が課題の設計案に組み込んでいた、下層の過酷な環境でも強く根を張る頑丈な品種の食人花だ。


 ユイはその場にゆっくりとしゃがみ込み、まだ柔らかい緑の葉にそっと指先で触れた。人工照明と太陽光の混ざり合う光を受け、葉の表面がかすかに輝いている。土は少しだけ乾き始めていた。


「……ちゃんと水、あげないとね」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


 その声は、自分でも驚くほど穏やかで、優しかった。

 以前の自分ならこんな他愛もない雑草の苗に気を配るゆとりなどなかったはずだ。効率と成績だけを追い求め、誰とも関わらず自分の殻に閉じこもって、冷たく完結していたはずの自分。他人に心を開けば傷つくだけだと決めつけ、いつでも一人で生きていけるように強固な防壁を張り巡らせていた自分。


 いつからだろう。

 こんな風に、自分の外側にある小さな命に目を向けられるようになったのは。


 その時だった。

 温室を囲む透明なガラス壁の向こう側――大学の中庭へと続く舗装通路を、一人の男が横切っていくのが視界の端に映った。


 着古した裾の長い黒いコート。艶のない無造作な黒髪。

 どこか危険で、どこか投げやりで、けれど背中を少し丸めた不器用な歩き方。

 ユイは吸い寄せられるように、なんとなく顔を上げた。


 男が、ふと立ち止まる。

 ガラス越しに、二人の視線が真っ直ぐに交差した。

 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、目が合った気がした。


 男はガラスの向こう側でユイの姿を認識した瞬間、目を目一杯見開いて、少しだけ驚いたような顔をした。

 どこか痛むものをじっと耐えるような酷く切なくそれでいてどこまでも穏やかな瞳。だが次の瞬間、彼は何事もなかったかのようにすっと視線を逸らすとコートのポケットに両手を突っ込み、そのまま足を止めずにゆっくりと歩き去っていった。


 去っていく背中が、眩しい陽光の中に静かに遠ざかっていく。

 ユイはしゃがんだまま呆然とその背中を見送っていた。

 胸の奥で小さな金属性の鐘が強く打ち鳴らされたような衝撃が走る。


「教員ってわけでもなさそうだし……誰だっけ」


 声が出た。

 思い出せない。名前も、顔も、あの男とどこで出会ったのかも、何一つ脳の引き出しからは出てこない。


 なのにどうしてか。理由も分からずに。

 ギュッと胸を締め付けられるような、鋭い痛みが胸の奥を突き刺した。


 視界が、一瞬だけ大きく歪む。

 指先で触れていた緑の葉の上にポタリと透明な水滴が一つ、落ちて弾けた。

 自分が泣いているのだと気づくまでに少しの時間がかかった。


「え……なんで……?」


 指先で頬を拭うと、冷たい涙が途切れずに溢れ出てくる。

 悲しいわけではないはずだった。推薦は決まり、課題は通過し、自分の未来は約束されたのだ。それなのに胸の奥から押し寄せる温かい涙が止まらない。


 遠ざかっていく黒いコートの背中はもう雑踏の中に紛れ、完全に見えなくなっていた。


 ユイは溢れ出る涙を何度も上着の袖で拭いながら、小さな苗を見つめ直した。

 消えてしまった記憶の代わりに理由の分からない愛おしい痛みが胸に残っている。

 だが、その痛みはどこか温かく自分が一人ではないのだと教えてくれているような気がした。


 ユイはゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。

 涙を綺麗に拭いきると、温室のジョウロへと手を伸ばす。

 さわやかな光が射し込む温室の中で、彼女はしっかりと自分の足で歩き出していた。誰も覚えていない二日間の光の余韻をその胸の奥に確かに抱きしめながら。



 大学の敷地を抜けた先、雑踏が渦巻く下層の街角。

 雑居ビルの陰に停められたマットブラックの特務車両の車内にアズは一人で身を沈めていた。


 運転席のシートを少し倒し、天井を仰ぐ。

 指先には煙を上げる安煙草。車内禁煙を示す赤い警告灯が虚しく明滅していたが、彼は気にも留めずに紫煙をゆっくりと吹き出した。


「……目敏いな、相変わらず」


 苦笑混じりの呟きが密閉された静かな車内に溶けていく。


 ガラス越しに目が合った、あの瞬間。

 少女の瞳には自分という存在の記録は一切残っていなかった。完全に初期化され、綺麗に閉じられた「記憶の引き出し」。

 監察局の手順通り、完璧で完璧な処置だった。


 それでいい。それが彼女にとって一番安全で正しい未来なのだから。


 ――ポケットから取り出した小型記録媒体。

 そこには彼女が拘束されていた四十八日間の記録と書き換えられた記憶の処理ログが収められている。アズはそれを一瞬だけ指先でもてあそび、車内の高熱廃棄スロットへと静かに放り込んだ。カチリ、と小さな機械音がして、データは一瞬で熱に溶かされ、完全に消去された。


「さて……仕事に戻るか」


 アズは煙草の火を消し、エンジンを始動させた。

 重厚な排気音が、下層の雑踏の騒音の中に静かに溶けていく。


 忘れる側の人間は何も失わない。傷つくことも、寂しさを抱えることもない。

 けれど忘れられる側の人間には、その傷跡と温もりが永遠に残る。


「……いつも通り、か」


 アズは苦笑した。

 自分もまたそうやって無数の人間を処置し、見送り、忘れられながら生きていくのだ。監察官という暗闇を歩く人間の、これが正当な報いなのだと。


 バックミラーに映る自分の顔は、相変わらずくたびれていて、少しだけ優しかった。黒い車両は滑り出し、二度と振り返ることもなく灰色の街並みの中へと消えていった。

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