11話 朝の境界
3日目・朝。
ユイはあまりにも唐突でそして妙に澄み渡った静けさによって目を覚ました。
いつもの朝なら安アパートの薄い壁や建て付けの悪いきしむ床を絶え間なく微振動させていたあの重々しい貨物列車の無機質な走行音が聞こえない。
正確には――完全に消え去ったわけではなかった。
耳をすませばかすかにその排気音や金属摩擦音が届いてはくる。だが、それはあまりにも遠い。まるで分厚く濁った水底から陸上の騒音を聞いているかのような現実味のない膜を一枚隔てた遥か遠くの残響としてしか届いてこないのだ。
まぶたを押し開ける。
薄いカーテンの隙間から部屋へと射し込む光も昨日までのどんよりとした生気のない灰白色とは明らかに違っていた。
大気に停滞していた重苦しい湿気と不気味な圧迫感が少しずつ雲散し、朝の光が部屋の隅々に落ちる影へくっきりと鮮やかな輪郭を取り戻させつつある。
ユイはすり減った薄い布団の中でゆっくりと身体を起こし、深く小さく息を吸い込んだ。
昨夜まで部屋の四隅に重く滞留していた、身を切るような刺す冷気が和らいでいる。肌に触れる空気がかすかにぬるい温みを含んで揺れていた。
ゆっくりと寝返りを打ち、細く開いたカーテンの隙間から窓の外へ視線を向ける。
下層通路の向こう側。昨夜まで不自然なほど死んだように停止していた自動配送ドローンが、低いプロペラ音を小さく響かせながら再び空中を滑るように規則正しく飛び始めていた。
その下にある高架道路ではオレンジ色の警戒警告灯を点滅させた無人の小型輸送車両がスムーズな走行音とともに湿ったアスファルトを走り抜けていく。
「……あ」
その日常の動きを取り戻しつつある光景を目にした瞬間、ユイの口から小さく力のない声が漏れた。
アズは既に起きていた。
部屋の隅、結露の完全に消えかかった窓際に静かに立ち、手元の黒い監察局仕様の携帯端末を覗き込んでいる。その横顔には朝の淡い光が落ち、着古した黒いコートの深い皺に繊細な影を落としていた。
「境界が薄れてる」
アズが振り返りもせずに言った。
「えっ……」
「閉鎖が解け始めてるな。お前が無意識に張り巡らせていた封鎖の力――『領域』の圧力が急激に弱まってる。街の広域システムが順次、自律復旧を始めてるぞ。通信のバックボーンも再構築中だ」
ユイはゆっくりとベッドから降り、冷たさの抜けた床に裸足を踏み降ろした。
肌に触れる部屋の空気の質感が、明らかに昨日までと違っていた。
自分自身をそしてこの狭いアパートの部屋と街の一部を固く閉じ込めていた不可視の分厚い膜が、目に見えない隙間からゆっくりと外へ逃げていくような感覚。
自由になった開放感というよりは指の隙間から大切な砂がサラサラとこぼれ落ちていくような妙に寂しい喪失感が胸を掠めた。
「ああ……終わるんですね」
「多分な」
アズは淡々と言った。
だが、その低い声は普段の軽薄でどこかすれからした調子とは違ってほんの少しだけ硬かった。端末の画面をなぞる彼の指先にもどこか余計な力が入っているように見える。
「課題、提出できそうか」
「回線が戻れば……ローカルに保存してあるので、自動送信されるはずです」
「あと数時間ってとこだな。完全に通信障害が解消されたら、お前のデータも学校のサーバーに無事届く。これで推薦が飛ぶ心配もねえよ」
ユイは折り畳みテーブルの上に置かれた、自分の小さな端末を見つめた。
昨夜、ふたりでくだらない映画を見ながらそして静かに互いの本音を交わしながら完成させた、共同庭園演習の立体庭園設計データ。
たった数日。時間にして四十八時間という、人生という長い時間のなかでは瞬きにも満たない短さ。
けれどユイにとっては息が詰まるほど濃密で随分と長い時間に感じられた。
食人花のお茶の苦さ。
監察局のまずい栄養剤の毒々しい味。
古いディスクで観た稚拙なファンタジー映画。
そしてこの狭くて寒い部屋の床に転がっていた自分以外の誰かの温かい呼吸の音。
ユイは静まり返った部屋の中をぐるりと見回し、ぽつりと呟いた。
「……あの」
「なんだ」
「本当に消すんですか」
アズはすぐには答えなかった。
背中を向けたまま窓の外を滑っていく配送ドローンの光を、ただじっと見つめている。アズの着古した黒いコートの背中が重く沈黙を守っている。
その背中の沈黙こそが、何より雄弁で、逃げようのない答えだった。
「全部?」
「全部じゃない。お前の脳から『能力が発現した前後の記憶』と、それに付随する感情の負荷を不鮮明にするだけだ。学業の知識も、日常の記憶も、学校の友人関係もそのまま残る」
「でも……絶対忘れますよね。アズさんのこととか……この二日間のことは」
「……ああ」
アズは低く自分自身に言い聞かせるように短く頷いた。
ユイは小さく胸の奥から温かい息を吐き出した。
不思議と取り乱して泣き叫びたい気分ではなかった。
取り乱すにはこの部屋の朝の空気があまりにも静かでアズの横顔が悲しいほどに優しかったからだ。
ただ胸の奥底にぽっかりと小さな穴が開き、そこから温かい何かが静かに抜け落ちていくような、空っぽで透明な感覚だけがあった。
「……怖いか」
アズが、ゆっくりとこちらを振り返って尋ねた。
その瞳は誤魔化すことなくユイの顔を真っ直ぐに見つめていた。
「ちょっと」
「そうか」
「でも……仕方ないんですよね」
アズは痛みを耐えるように深く目を伏せた。
「お前の能力は危険すぎる。無意識で街の一画を丸ごと隔離して人間を昏睡状態に陥らせる『封鎖』なんて力、下層の企業も上層の連中も放っておくわけがない。お前自身のためにも野放しにはできないんだ」
「ですよね」
「今回は運が良かっただけだ。お前の心が壊れきる前に俺が接触できたし、睡眠障害を起こした住民にも死人は出てない。不幸中の幸いって奴だ」
「……」
「だが、次に暴走したら……お前の感情が弾け飛んで本当の惨劇が起きたらもう取り返しがつかなくなる。その前に原因となる記憶の結びつきを解いて、能力の芽を摘むしかないんだ。それが監察局の法で、お前を守る唯一の方法だから」
ユイは静かに頷いた。
頭では痛いほど理解できる。アズの言っていることは客観的で正しく、何よりも自分という一人の人間を守るための現実的な処置なのだと。
ただ自分の心が、感情が、まだその冷たい正論に追いついていかないだけで。
ユイは少しだけ息を整えると視線を上げて彼を見つめ返した。
「じゃあ最後に」
「なんだ」
「一個だけ、質問いいですか」
「答えられる範囲なら」
ユイは少し考えてから首を少しだけかしげるようにして言った。
「私、この数日……楽しかったですかね」
アズは呆れたように目を瞬かせた。
「他人事みたいに言うなよ。自分の気持ちだろ」
「だって忘れるので。あと少ししたら自分がこの二日間でどう思ってたのかも分からなくなっちゃうから……今のうちに見ていた人に聞いておきたくて」
アズは参ったというように苦い顔をし、困った手つきでボサボサの黒髪をガシガシとかきむしった。コートのポケットに両手を突っ込み、しばらく天井の薄汚れたシミを見上げてから吐き捨てるように呟いた。
「……まあ」
「まあ?」
「お前、最初よりはマシな顔してたよ」
「それ褒めてます?」
「多分な」
ユイはふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。
「ならよかったです」
その素直でどこか吹っ切れたような笑顔を見て、アズは耐えかねたように酷く痛ましい目をして、すっと視線を窓の外へ逸らした。
外の街は着々と息を吹き返していた。
薄暗かったセクターの遠くの区画から一つ、また一つと街路灯に灯りが戻り始めていく。これは元いた場所へ戻るだけの“工程”のひとつだ。
何も持たず、誰とも繋がらず、孤独の中に閉じこもっていた、あの冷たい日常へ。
「ねえ、アズさん」
「……なんだよ」
「記憶を消されたら、私はまたあの頃みたいに一人で平気になるんですかね」
「そうなるように処理するんだよ。余計な孤独感や喪失感を残さないために綺麗に消すんだ」
「……そうですよね」
ユイは折り畳みテーブルの角に指先で触れた。
このテーブルで二人で苦いお茶を飲んだ。まずい栄養剤を飲まされた。
その記憶が消えてもこのテーブルはここに残り続ける。
――なら消えてしまうのは「自分の中の記憶」だけであって過ごした事実そのものが世界から消滅するわけではないのかもしれない。
「アズさんは、覚えているんですよね」
ユイの静かな問いにアズの肩がピクリと跳ねた。
「……何の事だ」
「私と過ごした、この二日間のことです。私は消されちゃうけど……アズさんは監察官だから記憶はそのまま残るんですよね」
「……仕事の記録としてはな」
「じゃあ、私が忘れても、世界に一人くらいは覚えている人がいるんだ」
ユイは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。
誰の記憶にも残らず、誰の人生にも交わらないまま消えていくと思っていた。
けれどこの不器用で疲れた顔をした監察官の頭の中にだけは、自分の存在が、この二日間のくだらないやり取りが確かな記録として残る。
それは下層の孤独な少女にとって何よりの救いのように思えた。
「私、アズさんが私の記憶を持っていてくれるならそれでいいかもしれません」
「……お前な、変なこと言うなよ」
「変じゃないです。本気です」
アズは窓枠に手をつき、歯を食いしばるようにして沈黙した。
彼の背中が微かに震えているように見えた。
監察官として数多くの能力者を処置し、多くの記憶を消去してきた男。
彼にとって残される側であり続けることこそが最も過酷で逃げ場のない罰なのだと、ユイは知っていた。
忘れる側は楽だ。
何も知らず、何も痛まず、まっさらな状態で明日を迎えることができる。
覚えている側は消えていった者たちの残影をその背中に背負い続けなければならない。
「……最悪ですね、私」
ユイは呟いた。
「何がだ」
「私だけ楽になっちゃうから。アズさんに重い記憶を押し付けたままになっちゃうから」
「……仕事だからな。気にするな」
アズの声は掠れていた。
遠くで甲高いサイレンの音がひとつ、聞こえた。
監察局の回収車両が、封鎖の解除された境界線を越えて、こちらへ向かってきている音だった。
刻一刻と、別れの瞬間が近づいている。
ユイは部屋の中を見渡した。
小さくて、古くて、寒かった自分の部屋。
けれどこの二日間だけは何所よりも暖かく、居心地の良い場所に思えた。
「アズさん」
「なんだ」
「ありがとうございました」
ユイは真っ直ぐにアズの背中を見つめ、心を込めて言った。
「私を見つけてくれて」
アズは振り向かなかった。
ただ、窓の外を見つめたまま、低く、押し殺した声で短く答えた。
「……さっさと準備しろ。もうすぐ迎えが来る」
その言葉の裏にある崩れそうなほど脆く優しい感情をユイは静かに感じ取っていた。
朝の澄んだ光が部屋を満たしていく中、二人は最後の静寂を惜しむようにただじっと佇んでいた。




