第二夜:語り部の声が、王の夜を満たす
この作品は、古典文学である『千一夜物語』をもとにした現代語訳・再構成作品です。
原典に登場する物語や人物、構成をできる限り尊重しながらも、現代の読者が読みやすいよう文章表現や会話、心理描写を加筆しています。
第二夜で語られるのは、『商人と鬼神の物語』。
鬼神に命を狙われた一人の商人と、彼を救うために現れた三人の老人たちの不思議な物語を参考に書かせていただきました。
どうぞ、今夜もシャハラザードの語る物語に耳を傾けていただければ幸いです。
夜が来た。
砂漠の空には無数の星が瞬いていた。
シャハラザードは今夜もドゥニヤザードと共に王の寝所へ通された。
昨夜と変わらぬ部屋。
昨夜と変わらぬ灯火。
昨夜と変わらぬ沈黙。
けれど、何かが違っていた。
王が来るのが、少しだけ早かった。
ほんのわずかな差だった。
宦官も侍女も気づかないだろう。
だがシャハラザードにはわかった。
王は待っていた。
認めることはないだろう。
それでも昨夜の続きを。
まだ見ぬ物語を。
ほんの少しだけ。
「お姉様」
ドゥニヤザードが声を上げる。
「昨夜のお話の続きを聞かせてください」
シャハラザードは微笑んだ。
そして王へ目を向ける。
王は何も言わない。
だが立ち去らない。
それだけで十分だった。
「では、お話しいたしましょう」
炎が揺れる。
夜が静かに耳を澄ます。
こうして第二夜の物語が始まった。
それは一人の商人と、
三人の老人と、
そして愛する者を失った人々の物語であった。
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商人のマルワーンは魔神の前に立っていました。
約束通り、一年後に戻ってきた。三人の老人を連れて。
そして、その三人の老人が、
魔神に『不思議な話を聞かせる、その代わりに商人を許してくれ』と申し出ました
ドゥニヤザードがこくこくと頷く。
魔神は笑いました。
こんな老いぼれが、自分を満足させる話など語れるものかと。
しかし暇つぶしに聞いてやろうと、ナツメヤシの木にもたれかかりました。
それほど巨大な魔神でしたから、もたれかかった木が大きくしなって、葉が砂漠に
舞い散りました
「まず最初の老人が、ヤギを連れた白髪の老爺が口を開きました」
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「第一の老人の語り」
「わたしの話をお聞きください、魔神様」
老爺は深く頭を下げた。
「わたしには、長年連れ添った妻がおりました。しかし子が産まれなかった。十年が
過ぎ、二十年が過ぎても、子はできなかった」
「老爺よ、それがどうした」
「それで……妾を取りました。愛していた女ではなかった。
ただ、後継ぎが欲しかった。それだけのことでした」
老爺はヤギを一度見た。ヤギは黒い目でじっと老爺を見つめていた。
「妾との間に、男の子が生まれました。それはそれは可愛らしい子でした。
わたしは夢中になりました。妾のことも、だんだん好きになっていった。
それが……妻には、耐えられなかったのだと思います」
「え…」
ドゥニヤザードが口を挟んだ。声が少し緊張している。
「そのヤギは……まさか」
「そのまさかよ」
シャハラザードは静かに答えた。
「ヤギは、その妾なの。でも、話の続きを聞いて。どうしてそうなったか、まだ先が
あるから」
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「妻は魔法を使える女でした」と老爺は語る。
「わたしは知らなかった。いや、知ろうとしなかった。何年も連れ添った相手のこと
を、わたしはちっとも知っていなかった」
「ある朝、目が覚めたら……妾が牛になっていました。わたしの可愛い息子も、
子牛になっていました。妻の仕業だとは、すぐにわかりました。でも証拠がない。
妻は何も言わない。笑ってもいない。ただ、静かに夫の顔を見ているだけでした」
シャハラザードの声が、少し低くなった。
「その静かな目が、老爺には一番怖かったと言っています。怒りでも悲しみでもなく
――ただ疲れ果てた目をして、妻はそこに立っていたと」
寝所が、しんと静まった。
シャハラザードは意図せず、王の方を見た。
王の背中が、わずかに固まった気がした。
疲れ果てた目
語りながら思ったことは、意図した引きではなかった。
でもこの言葉が、どこかに刺さったかもしれない。
「老爺は牛たちを牛飼いのもとへ連れて行きました。何かできないかと
ただ、牛飼いは妾の牛を屠ろうとしました。知らずに。
人だとは気づかずに。
牛飼いが刃を入れようとした時……牛は泣いたそうです。
声を上げて、人のように泣いた」
「老爺はその泣き声を聞いて、牛飼いを止めました。なぜ止めたか、自分でもわから
なかったと言っています。ただ、その泣き声が……と」
ドゥニヤザードが、静かに息を呑んだ。
「牛飼いの娘が、その夜老爺のもとへ来ました。賢くて、よく見える目を持った娘で
した。娘は言いました。『あの牛は人間です。騙された人間です。殺してはなりま
せん』と」
「老爺は驚き、娘に事の詳細を語りました。娘は頷いて言いました。
『わかりました。元に戻してさしあげましょう。でも、その代わりに一つだけお願い
があります』」
「なんだ?と老爺が聞くと、娘は笑って言いました。」
「『わたしを、息子の妻にしてください』と」
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ドゥニヤザードが「えっ」という声を上げた。
「それって……牛飼いの娘は好きだったってこと? 息子のことが?」
「かもしれないわね」とシャハラザードは言った。
「でもそれより、娘は賢かったのよ。力を持つ人間は、使い所を知っている。魔法が
使える娘が、ただで力を使う必要はない。だから取引をした」
「でも息子は子牛のままでしょ? 好きになれる?」
「力を持つ人間を、見る目がある人間もいるのよ」
シャハラザードは先を続けた。
「老爺は承知しました。娘は呪文を唱えて、子牛を人間の男の子に戻しました。
少年はわっと泣いて父に抱きつきました。そして娘に、深く頭を下げました」
「次に娘は、妾の牛に向かいました。娘は言いました。
『この方は罪を犯しました。でも、それには理由があります。理由のない悪意はあり
ません。ただ……このまま野放しにすれば、また同じことをします』」
「娘は牛をヤギに変えました。殺しはしなかった。でも人間には戻さなかった」
「老爺は……泣いたそうです」
シャハラザードの声は、静かだった。
「妻のことが、今でも好きだったから。妻がそこまで追い詰められていたことに、気
づいてやれなかったことが、悔しかったから。そして娘の判断が、正しいとわかって
いたから。全部わかっていたから……泣くしかなかったと」
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しばらく、誰も何も言わなかった。
篝火が、ぱちりと鳴った。
シャハラザードは続けた。
「老爺は魔神に向かって言いました。
『これがわたしの連れているヤギの話です。元は妾でした。今もわたしが世話をして
います。死ぬまで傍にいるつもりです。この話を、あなたが面白いと思うなら……
商人の罪の三分の一を許してくれますか』と」
「魔神は長い沈黙の後、言いました」
「『面白かった。三分の一を許す』と」
その足元で、一匹のヤギが静かに目を伏せていた。
かつて人であった者。
愛され、憎まれ、そして赦された者。
風が吹いた。
砂が舞った。
だが商人はまだ救われてはいない。
残る命は三分の二。
残る物語も二つ。
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シャハラザードはそこで語るのを止めた。
寝所に静寂が降りる。
ドゥニヤザードが小さく息を吐いた。
「かわいそうなお話だったね」
「そうね」
シャハラザードは答えた。
「みんな愛していたのに、うまく伝えられなかった」
しばらく沈黙が続いた。
その時だった。
「……その男は」
低い声が響く。
王だった。
「なぜ、その妾を殺さなかった」
ドゥニヤザードが息を呑む。
シャハラザードは静かに王を見る。
「愛していたからです」
王は何も言わない。
「愛していたからこそ、憎みきれなかったのでしょう」
炎が揺れる。
王は再び沈黙した。
けれど今夜初めて、自ら問いを発した。
それだけで十分だった。
夜明けが近づいている。
「続きは、また明日の夜に」
シャハラザードはそう言った。
王は止めなかった。
窓の外では、砂漠の空がゆっくりと青みを帯び始めていた。
まだ夜は終わらない。
だが確かに。
物語は王の心へ、一歩だけ近づいていた。
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第三夜へ続く
第二夜をお読みいただき、ありがとうございました。
この夜で語られたのは、原典『千夜一夜物語』に登場する「第一の老人とヤギの物語」です。
妻の魔法によって姿を変えられた妾、そしてその間に挟まれた老爺の話は、一見すると不思議な怪異譚のようでいて、その奥には人と人とのすれ違いがあります。
愛していた。
けれど理解していなかった。
許したかった。
けれど元には戻れなかった。
この物語の悲しさは、誰か一人だけが悪人ではないところにあるのかもしれません。
しかし商人の命は、まだ三分の一しか救われていません。
残る老人は二人。
そして、さらに不思議な物語が待っています。
老人二人の話
どのような話なのか。
次の夜も、どうぞお付き合いください。




