第三夜:犬と牝馬の物語
今夜は第二の老人、そして第三の老人の物語
魔法によって姿を変えられた者たち。
愛と嫉妬、裏切りと後悔。
不思議な出来事の向こう側にある、人の心の物語が続きます。
一方で、物語を聞く王シャフリヤールにも、少しずつ変化の兆しが現れ始めます。
まだそれは小さなものです。
けれど凍てついた心は、ほんのわずかな温もりから解け始めるものなのかもしれません。
それでは第三夜をお楽しみください。
夜が来た。
砂漠の空には、今夜も無数の星が散りばめられていた。
王宮の高窓から見える夜空は変わらない。
けれどシャハラザードには、昨夜とは何かが違って見えた。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
ただ、ほんのわずかに。
凍った湖の表面に、最初のひびが入ったような気がしていた。
今夜もシャハラザードはドゥニヤザードと共に王の寝所へ通された。
灯火が揺れている。
香の煙が細く天井へ昇っていく。
そして王は
――昨夜よりも早く、すでにそこにいた。
寝台の端に腰を下ろし、相変わらず遠くを見ている。
だが今夜は違った。
待っていたのだ。
物語を。
認めることはないだろう。
けれどシャハラザードにはわかった。
昨夜、「続きは」と口にしたあの瞬間から。
王はもう、物語の外にはいられなくなっていた。
「お姉様」
ドゥニヤザードが身を乗り出した。
その顔には隠しきれない期待が浮かんでいる。
「今日はちゃんと続きを聞かせてくれる?」
シャハラザードは思わず笑った。
「そんなに気になっていたの?」
「気になるに決まってるわ」
ドゥニヤザードは即座に答えた。
「老人はまだ二人残っているし、商人も助かってないもの」
その言葉に、寝所のどこかで空気がわずかに揺れた気がした。
王は何も言わない。
だが否定もしない。
シャハラザードは静かに頭を下げた。
「では、お話ししましょう」
炎が揺れる。
夜が耳を澄ます。
魔神の前には、まだ二人の老人が残っていた。
そして商人マルワーンの運命もまた、まだ決まってはいなかった。
「猟犬を二匹連れた老人が、前へ進み出ました――」
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■:第二の老人の語り
シャハラザードの声が、再び夜の空気に溶けていく。
「この老人には、兄が二人いました。
三兄弟の末っ子で、一番若く、一番慎重な男でした」
「父が死んで、遺産を三つに分けた。兄二人はすぐに隊商に交じって旅に出た。
商売をするためです。でも末の弟は、地元で堅実に商売を続けることにしました」
「一年後、兄二人が帰ってきました。一文無しになって。」
「弟は黙って財産を分けてやりました。
二回目も同じことが起きました。三回目は、三人で一緒に旅に出ることにした」
「旅の途中で、弟は出会いました。砂漠の道端に、ぼろをまとって座っている女に」
「誰?」
「見ればわかるけれど……弟には、わからなかった。ただ、放っておけなかった。
声をかけた。話を聞いた。気がついたら好きになっていた」
「ドゥニヤザード、好きになるのに理由って必要?」
「……要らないと思う」
「そうよ。弟もそうだった。わけもわからず好きになって、旅の終わりにその女を妻にした」
「兄たちは嫌がりました。どこの馬の骨かわからない女を妻にするとは何事かと。
でも弟は聞かなかった。
三人で家に帰った後、兄たちは弟夫婦を殺して財産を奪おうと画策した」
ドゥニヤザードが「ひどい」と呟いた。
「ひどいわね。でも人間はそういうことをする。嫉妬は、愛より根深いものだから」
「夜中、兄たちが弟の部屋に忍び込もうとした時……妻が目を覚ました。
妻は言いました。『わかっていました。いつかこうなると』」
「妻が立ち上がった瞬間、その姿が変わった。巨大な光が部屋に溢れた。兄たちは吹き飛ばされて、気がついたら……この二匹の猟犬になっていた」
「えええ?!」
「妻は女の鬼神だったのです」
シャハラザードは静かに言った。
「あのぼろをまとって道端に座っていた女は、実は人ではなかった。それでも弟は好きになった。
理由もなく、わけもなく。
その純粋さが、鬼神の心を動かしたのかもしれない」
「妻は夫に言いました。
『この兄たちを殺すことはできません。あなたの血を引く者を、わたしの手で殺すことは。でも、このまま人間に戻すこともできない。だから……この姿でしばらく、一緒に生きてください。十年経ったら、また考えましょう』と」
「弟は泣きながら頷いた。妻の言葉が正しいとわかっていたから。そして自分が二人の兄を愛していることも、知っていたから」
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「老人は魔神に向かって言いました」
シャハラザードの声が、ほんの少し低くなった。
「『この二匹がわたしの兄です。悪いことをした。でも、わたしはまだ、この犬たちを憎めない。血が繋がっているから、ではありません。長い時間をかけて一緒に生きてきたから。それだけのことで、人は誰かを愛するのかもしれない』と」
「魔神は、また沈黙しました。今度の沈黙は、最初のものより長かった」
「それから言いました。『三分の一を許す』と」
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シャハラザードは、そこで一度口を閉じた。
部屋の中が、静かだった。
そして…
今夜初めて、王が声を発した。
「……続きは」
低い声だった。
感情を押さえた、でもどこかに何かが滲み出している声だった。
「第三の老人の話は」
シャハラザードは王の方を向いた。
王は相変わらず遠くを見ていた。こちらを向かない。
でも確かに、言葉を発した。
「第三の老人の話は、この後すぐ、お話しします」
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■:第三の老人の語り
「牝馬を連れた老人は、三人の中で一番老いていました」
「その老人には、かつて妻がいました。愛していた。それは本当のことでした。でも、老人は商人で、旅が多かった。家を空けることも多かった。
妻のことを愛していた。
けれど、妻が何を考えているかを、聞こうとしなかった」
「ある旅から帰った日、老人は見てしまいました」
シャハラザードの声が、一段低くなった。
「妻が、黒人奴隷の男と笑っているところを」
部屋の中が、張り詰めた。
「老人は扉の陰で、動けなかった。怒るより先に、疑問が来たと言っています。
なぜ、と。
なぜこんなことになったのか。自分は愛していた。
妻のために働いていた。間違ったことをした覚えはなかった。なのに、なぜ」
「答えは出ませんでした」
「妻が老人に気づいた瞬間、その表情が変わりました。驚きではなく――怯えでもなく。どこか、ほっとしたような顔でした」
「老人にはその顔が、一番理解できなかった」
「次の朝、目が覚めたら犬になっていました」
ドゥニヤザードが「また魔法!」と声を上げた。
「そう。妻も魔法を使える女でした。第一の老人の妻と同じように。でも、魔法の使い方は違った。第一の妻は怒りから使った。第三の妻は……怯えから使ったのかもしれない」
「怯え?」
「旦那に、自分が本当のことを言えなかった。愛していないわけではなかったかもしれない。でも旦那に、ずっと言えないことがあった。それが積もり積もって、見つかった時……言葉の代わりに魔法が出てしまった、のかもしれない」
「お姉様の想像?」
「そうよ。物語に書かれていないことは、想像するしかないから」
シャハラザードは静かに続けた。
「犬になった老人は、肉屋に拾われました。肉屋の娘が正体を見抜いて、人間に戻してくれた。そして娘は言いました。『妻に呪いを返す方法を教えてあげましょう』と」
「老人は迷いました。妻を呪い返すことが、正しいのかどうか。裏切られたのは本当だ。でも……あの顔が頭から離れなかった。見つかった時のあの、ほっとしたような顔が」
「それでも老人は、娘から魔法を学んで、妻に向かいました」
「妻は逃げませんでした。老人の目を見て、静かに立っていた」
「老人は呪文を唱えました。妻は牝馬になった」
「その瞬間、老人は泣いたそうです」
シャハラザードの声が、少し揺れた。
「勝ったとは思えなかった。復讐できたとも思えなかった。ただ……これ以上、お互いを傷つけないために、それしか思いつかなかったと」
「老人は今でも、牝馬の世話をしています。どこへ行く時も連れて行く。死ぬまで、そばにいるつもりだと」
「魔神は三人目の話を聞き終えて、長い沈黙の後に言いました」
「『話は全部で三つ、全部面白かった。約束通り、この商人を許す』と」
「商人のマルワーンは、頭を地面にこすりつけて礼を述べた。三人の老人にも深々と頭を下げた。そして砂漠を歩いて家へ戻り……家族に抱きつかれながら、それまで一度も泣いたことのない男が、声を上げて泣いたそうです」
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シャハラザードは、そっと口を閉じた
物語が、終わった。
ドゥニヤザードが、ゆっくりと息を吐いた。目が少し赤くなっている。
「……老人たち、かわいそうだったね」
「そうね。かわいそうだったわね」
「みんな愛してたのに、うまくいかなかった」
「人はね、愛している人のことほど、うまく伝えられないのよ」
「なんで?」
「怖いから。失いたくないから。大切だから。……大切だから、うまくいかないことがある」
ドゥニヤザードは少し考えてから、姉に寄りかかった。
「お姉様は? 怖い?」
「何が?」
「今のお姉様の話……自分のこと、関係ない話だと思って話してた?」
シャハラザードは、少し笑った。
「どうかしらね」
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その時、寝所の奥から声がした。
「……その商人は」
低い声だった。
王の声だった。
シャハラザードは顔を上げた。
王は相変わらず遠くを向いている。
でも今夜は、問いかけてきた。
「その商人は……なぜ逃げなかった。一年あれば、逃げられたはずだ」
シャハラザードは少しだけ間を置いた。
「逃げることが、できる人間と、できない人間がいます」
「その差はなんだ」
「……自分がやったことを、自分の目で見られるかどうか、だと思います」
王が、動いた。
「お前は」
王は言った。
「お前はなぜ……ここに来た」
昨夜も聞かれた問いだった。
昨夜と同じ答えでもよかった。
でもシャハラザードは、少し違う答えを選んだ。
「逃げたくなかったから、です」
「どういう意味だ」
「誰かがやらなければいけないことがあった。わかっていて、目を逸らすことが……
わたしにはできなかった」
沈黙。
「お前は怖くないのか」
「怖いです」
シャハラザードは正直に言った。
「でも怖くて逃げた後、何年も後悔するより……怖くてもここにいる方が、まだ自分でいられる気がします」
また沈黙が落ちた。
篝火が揺れる。
夜風が鳴く。
王は何も言わなかった。
でも、その背中が。
昨夜より、ほんのわずかだけ――軽くなったように見えた。
気のせいかもしれない。
でもシャハラザードには、見えた。
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夜明けが近づく頃、シャハラザードは最後の言葉を紡いだ。
「今夜の物語は、ここで終わりです」
「……次は」
王が言った。今夜は二度目の問いかけだった。
「明日の夜がありましたら」
シャハラザードは静かに答えた。
「また別の物語をお話しします。今夜より、もっと面白い話を」
「今夜より面白い話など、あるのか」
「あります」
シャハラザードは言い切った。
「わたしが読んできた物語は、今夜話したものだけではありません。
船乗りの話、盗賊の話、夢を見た男の話、愛を失った王の話……
それぞれに全然違う味がある。
甘い話も、苦い話も、信じられないほど悲しい話も、呆れるほど可笑しい話も」
「全部お話しするには……千夜あっても足りないかもしれない」
一拍の沈黙。
「……千夜」
王が繰り返した。
「はい」
「お前は千夜、ここにいるつもりか」
「いられるなら」
シャハラザードは答えた。
「いてもいいですか、王様」
長い沈黙が流れた。
砂漠の夜が、最後の深さで息を潜めている。
「……よかろう」
王は、また短く言った。
昨夜と同じ言葉だった。
でも今夜の「よかろう」は、昨夜と少しだけ違うように、シャハラザードには聞こえた。
昨夜のそれは、面倒を断ち切るような響きだった。
今夜のそれは――扉を、一枚開けるような響きだった。
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夜が明けていく。
砂漠が金色に染まっていく。
ドゥニヤザードは姉の隣でいつの間にか眠ってしまっていた。子どものように丸ま
って、静かに息をしている。
シャハラザードは窓の外を見ながら、胸の中で静かに数えた。
二夜、終わった
あと何夜あるか、わからない
でも今夜も、明けた。
王が奥の部屋へ消える前に、ほんの一瞬だけ足を止めた。
振り返りはしなかった。
でも確かに、止まった。
それだけで十分だった。
シャハラザードは眠る妹の髪を、そっと指で梳いた。
千の夜の物語が、胸の中で灯っている。
商人の話、老人たちの話、魔神の話。
そしてまだ語っていない無数の話たちが、順番を待って、声を潜めている。
次は何を語ろう。
あの王の目が、もう少しだけこちらを向く物語を。
あの凍りついた背中が、もう少しだけ柔らかくなる物語を。
シャハラザードは微笑んだ。
物語は、まだ始まったばかりだ。
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第四夜へ続く
第三夜をお読みいただき、ありがとうございました。
この夜で、商人マルワーンを救うために語られた三人の老人の物語は、ひとまず幕を閉じました。
人を愛すること。
人を理解すること。
そして赦すこと。
そのどれもが簡単ではなく、ときに愛そのものが人を傷つけてしまうことがあります。
三人の老人は、それぞれ違う形で大切な人を失いました。
けれど彼らは最後まで、その相手を完全には憎みきれませんでした。
その弱さこそが、人間らしさなのかもしれません。
そして今夜、もう一つ大きな変化がありました。
王が、自ら物語を求めたことです。
最初はただ聞いていただけの王が、今では続きを知りたいと口にするようになりました。
それはほんの小さな変化です。
けれどシャハラザードにとって、その一歩は何より大きなものでした。
商人の物語は終わりました。
しかし千夜一夜の物語は、まだ始まったばかりです。
次の夜からは、新たな主人公、新たな冒険、新たな不思議が待っています。
どのような物語が始まるのか、誰のにも分かりません。
けれどどんな物語であっても、その先にあるのは人の心です。
そしてシャハラザードは、これからも語り続けます。
王のために。
妹のために。
そして、夜を越えようとするすべての人のために。
それではまた、第四夜でお会いしましょう。




