汚い記憶
久那崎は目を覚ます。薄暗い天井ではなく、陽の光を存分に反射させる白い天井に目を細めた。その天井には自分を囲むようにカーテンレールが設置されていることに気づき、久那崎は自分が病院にいることが理解できた。頭上付近には点滴がぶら下がっていた。
空調が程よくきいていて、自分を覆う布団が体を暖かく包み、心地よく感じられたのは久しぶりだった。辺りを見回すと、狭いが個室にいるとわかった。
――手厚い看護……いや、監獄の間違いか。嫌というほど人と話をさせられるのか。自分で招いた結果とはいえ。
久那崎は溜息をついた。
そこに病室のドアをノックなしに開いた。花の刺さった花瓶を持ったみさ希が入ってきた。
「あ、目が覚めていたのね。良かった。二日間も眠ったままだったのよ。先生は、体の冷えと栄養が足りてなかったんじゃないかって。でも、大事に至らなくて良かった。目が覚めてすぐだけど、体の調子はどう? 久那崎さん」
みさ希は、台に花瓶を置いて、久那崎に向き直った。
「あなたは?」
久那崎は、無表情で問い直す。
「そうよね、紹介が遅れてごめんなさい。私は、夢乃調査室の林原みさ希です。潜入調査の管理をしているんだけど、もう話は分かるわよね?」
久那崎とは対照的に、みさ季の笑顔には怒りのような何にも屈しない強いオーラを発している。しかし、久那崎はなんとも思っていない。
「えぇ。情報が漏れないようにわざわざ個室にしてくれたわけか」
「四人部屋で、人に気遣いながら病人するのは嫌でしょ?」
「それもそうね。助かるわ。で、何から話せばいいのかしら?」
久那崎は、体を起こした。布団から出した自分の手には、点滴のチューブが繋がれていた。
「無理はしないで。体調が良ければ、少しずつで」
「むしろいつもより体は楽ね。今までがどうしようもなかったってことか」
久那崎はため息混じりで笑った。
「確認だけど、久那崎さんの下の名前は、夏夜子でいいのかしら?」
「えぇ。古臭い名前でしょ」
「そう? 名前から由来がしっかり伝わってくる素敵な名前じゃない」
――私もせめて、全部漢字にして欲しかったと今でも思う。
みさ希も自分の名前に嫌なところがあったが、今からではどうしようもない。
「素敵な名前か……。できれば人生を素敵にして欲しかったな」
夏夜子は、布団に視線を落とした。
「実はそのことなのだけど、あなたのお父さんに連絡を取らせてもらったわ」
「へー。よく連絡先がわかったわね」
夏夜子は、少し顔を引きつらせた。
「あなたが倒れた日の夜、お部屋にお手伝いさんが来たから少しお話をね」
「チィッ! もう来るなって行っておいたのに、来たのかよ」
「あなたのことをすごい心配していたわよ。ご飯を食べてくれなくて悩んでいたみたいけど。それじゃ倒れても仕方ないってところね」
「で、アイツは何か言っていたの?」
夏夜子の質問に、みさ希はすぐには答えなかった。夏夜子の父親に電話で言われたことが、言いづらかった。
「……生きるなら勝手に一人で生きろ。マンションの部屋は引き払う、と。それだけ言って秘書の女性に電話を渡されてしまって、話はそれ以上できなかった」
「そう。あんな家の人間たちに助けてもらおうとも思ってないし。警察に連れて行くなり勝手にして下さい」
「そうせっかちにならなくてもいいわよ。私としてはちょっと考えていることがあってね。それは後で決めてもらえればいいのだけど」
みさ希は微笑んだ。
――あの人と同じような笑い方。嫌い。
夏夜子は、何を考えているのかわからないみさ希を細めた目で見返した。
「……お母さん、四年前に亡くなられていたのね。お父さんと一緒に住んではいなかったの?」
「住めるわけないでしょ。あんな人殺し家族と」
「人殺し家族?」
「そう。病気がちだったお母さんを精神的に追い込ませては弱らせ、最後は死に追いやった。あのクソオバ、お母さんの実の妹がね」
姉妹だけあって顔育ちは似ていたが、性格が違っていた。温和な姉・夏子に対して、妹・冬子は強気で腹黒い。夏夜子は、母の姿を思い出すとすぐに冬子が出現し、黒い幕の後ろへ追いやってしまう。
「でも、お父さんを嫌う理由にはならないんじゃない……。わざわざ別に住まなくても」
みさ希が問うた。
「それが、なるのよ。クソオバがお父さんを狙っていたんだから。と、いうよりお父さんの会社の金を、かもしれないけど。私にとっては、何を狙おうとお母さんが殺されたことに変わりはない。お父さんもお母さんに似たクソオバに優しくされるせいで、心を乗っ取られるのは早かったわ」
「それで居ても立ってもいられなくなって、家を?」
「まだ中学生だったし、なかなか心の整理がつかず、しばらく一緒に住んでいたけど――」
そこで夏夜子が喋りを止めると、夏夜子の眉間にしわが寄る。そして、
「お母さんにしていたようなことを今度は、私にしてくるようになった。お父さんには猫を被り、私には本性を向けて来た」
「それって……」
「聞きたい?」
夏夜子の質問に、みさ希は口をキッと閉めた。安易に聞いてしまえば、自分がと言うより夏夜子自身を過去の記憶で傷つけるのではないかと。どんなことをされていたのかは、想像の範囲を出ない。
「やめておくわ」
「それが懸命ね」
しかし、夏夜子の頭には、消えない記憶が映し出されていた。
お母さんと一緒に買いに行った服やカバンをナイフでズタズタにされる光景を目の前で見せられる。次に、思い出の写真も。お母さんとの写真だけでなく、お父さんとお母さんが写る写真も、同じように切り刻まれて燃やされた。
それが部屋の片付けと言われた時は、頭が真っ白になった。
夏夜子が完全に意気消沈してからは、ペット以下の扱いとなり、時に優しくされたと思えば、その反動を喰らうかのように夏夜子の体を痛みつける。反抗すれば、それ以上のことを体に刻まれる。影に君臨する気分で動く君主のようだった。
「お母さんが死んで楽しいことなんて一度もなかった。家では発言が許されず、ノーとは言えない。学校が唯一の救いになるとかもしれないと思ってたけど、次第に、あんな閉ざされた空間で周囲と歩調を同じにして群れなければならないと思い始めたら、心が苦しくなった。同じ空気を吸って、言いたいことも言えない生活、家でも学校でも。それが繰り返されれば、体どころか心も安定を求めて、自分をなくそうとするのよ」
「……」
「そんな中でも、高校には合格した。そこで、私は目をかけられなくなった。あのマンションの部屋を与えられ、強制的に家を出て行くことになった。もう相手にするのも面倒になったんだと思う。お手伝いさんがいれば、私を放っておいてもいいんだと。お手伝いさんにも特にあれこれ言われなかったし、高校にも行かなくなってそれからずっと引きこもっていた」
「それで、夢に潜入するようになった……」
「ごく最近の話。あの部屋に来た彼にも言ったけど」
「えぇ、聞いているわ。楽しんでいたそうね」
すると、重苦しい空気を跳ね除けるように夏夜子は笑い出した。
「すごーく楽しかった。知らない誰かを脅かしたり、人の記憶をいじって戸惑う人たちを見ているのがね……でも、結局、あの女と自分も同じようなことをしていると感じたりしていたのも事実」
「……」
「そう思ったら、自分が汚くて嫌になった。こんな汚い過去の記憶なんて消えてしまえばいい。あのシステムがあれば、それもできるんじゃないかと思ってさ。彼に言ったら、引っ叩かれたけど」
その痛みが蘇ってくるように、夏夜子は頬を手で触れた。
「サキチくんね。彼ならそうするでしょうね」
「熱い人間なの?」
「そういう訳ではないけど。彼も過去に色々悩んだ人だと思うから」
「そっ。私以外にもそんなやつもいるんだ。あー、なんか喋りすぎちゃったな。疲れた」
夏夜子は、後ろに倒れ、頭を枕の上に乗せた。
「そう、じゃぁ、ゆっくり休みなさい」
みさ希は横になった夏夜子に布団をかけ直してやる。すぐに夏夜子は手を出して、みさ希の手を遮った。
「馴れ馴れしことすんなよ」
みさ希はさっと手を引いた。
「ごめんなさい。では、私はこの辺で失礼するわ。しっかり静養してね。また来るわ」
みさ希はカバンを手にとって、病室から出て行った。
――また、来るのかよ。そういえば、考えていることがあるって言ってたけど、何?
夏夜子は、ちょっとだけ想像をめぐらしたが何も考えつかなった。
ほんのり花瓶に刺さった花の香が漂い、夏夜子の心を落ち着けた。




