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深い底に沈んでいたもの

 雨は依然として降り続けている。船尾から後ろへ流れていく船の通った跡に残る白波は、雨とともに静かにに消えていく。

 ピナは、船尾の甲板に設置されていた深さ五メートルの飛び込み用プールの前に立っていた。プールの水面は、船の振動と雨粒が落ちているせいで複雑な水面模様を作り出している。厚い雲のせいでプールの水は黒く見え、深さ五メートルどころか深海のように永遠と広く深い不気味さすら感じられる。

 ピナはプールサイドから中央付近まで伸びる一番低い飛び込み台の先へやってきた。自分の体重で、飛び込み板が沈むのが分かる。突然、折れはしないだろうかと不安を誘ってくる。

 つま先から向こうに見える黒い世界。底は見えず、水中で光るものすら見えない。

「ふー」

 ピナは深呼吸をして、目を閉じた。

 すると、制服姿から水着姿にピナは変化した。すでにゴーグルも装着していて、しかし、ヘッドホンはしたままの水着には合わない格好になっていた。さらに防水仕様の懐中電灯を持ち、これから潜るんだという意思が現れていた。

《ピナちゃん、気合い入っているわね。用意していなかった懐中電灯も具現化まで》

「はい。このくらいしないと、私、鍵を見つけられないと思って」

 その声は震え、一緒に足も震えていた。雨風で体が冷えたわけではなく、真下に広がる一寸先は闇のようなプールに恐怖を覚えていた。

《安心して、プールだから。絶対、底はあるし、何もいないから》

「は、はい。わかっているつもりなんですけどね……」

 ピナは苦笑した。

 ――泳ぐの、あまり得意じゃないのに……。でも、ここまで来たからには……。

 ――やっぱり、怖い。

 と、目をつぶると、サキチの姿が浮かんだ。船長室で一瞬見えた誰かが、今ははっきりと見えるようになっていた。

 ――サキチ先輩。私が作り出した想像だとしても……。サキチ先輩が助けてくれたんだ。

 ピナは、次に目を開けると、膝を曲げて飛び込み板を踏み込んだ。その一回の反動で、宙に飛び上がったピナは、意を決してプールに飛び込んだ。

 水しぶきの上がる音からすぐに、水中特有の反響する世界にピナはいた。しかし、全身が水中にありながらも、落下の勢いで沈んでいくピナは、足を伸ばしても底につかない恐怖と真っ暗な水中の影から何かが現われて来るのではないかという勝手な想像がさらに恐怖心を大きくさせ、プールから逃げ出したくなった。

「プハァー」

 ピナは、水面に顔を出し、プールサイドの壁につかまった。それでも水中で自由になっている足から不安を取り除くことはできない。

《大丈夫? しっかり懐中電灯で底を照らしましょう》

「はい」

 ピナは、懐中電灯の光を確認し、水中に向けた。底まではおろか、一メートル先まで光が届いているのかわらなかった。

 ――水が濁っているわけじゃないのに、どうしてこんなにも暗いの。夜の海みたいに、まるで闇……。あ、これってクライアントの深部が投影されているのかも。確か、生きる目的が知りたいって……。

 ピナは、懐中電灯を持つ手に力を入れた。

 そして、また大きく息を吸って闇の広がる水中に潜った。

 ピナは必死に水をかく。

 なかなか先へは進まない。

 まだ、底の見えない闇に恐怖心を感じているピナ。

 まるで、見えない手で押し返されているよう。

 ――ダメ。ここで私がひるんだら、この人はどうなっちゃうの。ずっとこんな深い闇に閉ざされたままになっちゃうかもしれない。そんな風になって欲しくない!

 ピナは、水を蹴る足に集中した。

 ――お願い、具現化あらわれて!

 ピナは、足にイメージを送ると、四方八方から光が集まりだして弾けると、ピナの足には魚のひれを模したフィンが装着された。

 すると、強い推進力でピナは魚にでもなったように、ぐんぐんプールの底へと近づいていく。

 懐中電灯の光がプールの底を照らすと、ピナは「やった!」と喜び、少し息を吐き出してしまった。慌てて口を閉じたピナに、もう闇の恐怖心はなかった。周囲に向けて懐中電灯を照らと、一瞬小さく光るものがあった。

 ピナは、懐中電灯の光をそれに当てたままプールの壁際に移動すると、小さく光る物が鍵だとわかった。ピナは、すばやく鍵を拾い、しっかり握るとプールの底を思いっきり蹴って、いっきに水面へ上がった。もうピナの息は限界に達していた。

 水面から顔を出すと、声を荒げておおきく何度も呼吸を繰り返した。プールサイドにへばり付いて、やっと目が開けられるようになると、手の中にあるものを確認した。

「あぁ、良かった。途中で落とさなかった……」

 ピナは自分の手にあった鍵を見て、安堵とともに緊張から解き放たれ、ぐったりとしてしまった。

《ピナちゃん、よくやったわね! 大丈夫?》

「は、はい。なんとか……」

 力の抜けた声だったが、ピナの表情は笑っていた。モニターでその顔を確認していた堀も安心した。

《少し休みたいところだけど――》

「はい、大丈夫です。すぐにアトラクタの箱へ向かいます」

 堀の声を遮るように答えると、まだ半身プールの中だったピナは、プールから這い上がった。すぐにフィンを外して、立ち上がる。水から出たばかりで、体がとても重く感じられ、ピナはふらついていた。

 ――しっかり、自分!

 気合いを入れ直し、一歩一歩地を踏みしめるようにして歩き出す。

 途中、何度かふらついて足を挫きそうになったが、やっとアトラクタの箱があるフロアまで辿り着いた。吹き抜けの上には豪華なシャンデリアが釣られてゆっくり揺れていた。その真下にアトラクタの箱が静かに鎮座している。

 ピナは、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 鍵を一回転させて解錠する。

 ――今まで一番大変なミッションだった。みんなに迷惑かけちゃったけど、ここまでたどり着けました。

 ガチャっと、感触のいい抵抗を押し切るとアトラクタの箱の扉が開いた。隙間からは光が溢れ出す。

 ピナは、輝きを放つピースを箱の中から取り出し、スレートの上に乗せた。すると、ピースはスレートの中に溶けこんで、変わりに解析達成率とその進行バーが表示された。バーはぐんぐんと伸びていき、数字も大きくなっていき100%に達した。

 光が集積された円盤がスレートの上に現れた。リコールと呼ばれた復旧された記憶だ。

 ピナは、それを手にとって光の中を覗き込むと、クライアントが机に向かって字を書いている光景が見えた。その傍らには手紙が何通か置いてあった。

 それはデビューしてまだ間もない頃、著者の小説を読んで心を動かされたという感想と応援の言葉が書かれたファンレターであった。本の売れ行きは良いとはいえなかったが、一人でも心に届いてくれればという姿勢が作家の背中に表れていた。


 ――取りとめられた命には、きっと理由があるはず。これからもずっと本を書いてほしいってことなんじゃないのかな。


 ピナは、リコールをアトラクタの箱の上に置いた。噴水が噴き上がるようにリコールから光が打ち上がると、吹き抜けの天井にあるシャンデリアにぶつかり四方八方に光が飛び散った。まるで、光の紙吹雪が舞っているようだった。

 深い闇の底に沈んでいたものは、くすんでなどなく、ずっと輝いていた。ピナは、それに手を差し出して手のひらに乗せようとしたが、ただ光はその部分だけを輝かせただけだった。

 ――たとえ、小さな輝きでしかなくても、きっと何かの役目はあるのかな。私も潜入ミッションがそうであると思いたい。

 光降る中で、ピナは目を閉じた。

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