第29話 朝の猛烈な便意と、防犯解除不能パニック
第29話です。レン最大の危機!漏れる!!
夕暮れ時、西の空が紫色の夕焼けに染まる頃。
俺は居間の長テーブルで、突然襲ってきた下腹部の激痛に脂汗を流していた。
「ぐ……っ、ステラ、お前昼のスープに何を入れた……!?」
「えっ? レンさんの疲労回復のために、砂漠のサボテンから抽出した【腸内超高速デトックス原液】を三滴ほど……」
「デトックスどころか、俺の腸内で竜巻が起きてるだろうがァァッ!!」
俺は椅子を蹴倒して立ち上がった。
一刻の猶予もない。今すぐ裏庭の便所へ駆け込まなければ大惨事になる。
だが――俺の目の前には、自らが仕掛けた無数の防犯トラップが立ちはだかっていた。
」
俺の腹の奥で、ゴロゴロゴロ……と雷鳴のような地鳴りが響いた。
昨日食べた巨大カボチャの繊維質と、昨夜の緊張が重なり、腸が猛烈な活動を開始したのだ。
俺は席を立ち、便所へ向かって駆け出そうとした。
だが――目の前には、ステラの摩擦ゼロ廊下が立ちはだかっていた。
「ステラ! この廊下のワックス油、どうやって拭き取るんだ!?」
「えっ!? えーと、濃縮解除液を作るのに、調合鍋で三時間はかかります♪」
俺は足袋に荒縄を巻き付け、必死の形相で廊下をスケートのように滑り抜けた。
だが、ドアには厳重な南京錠と、昨夜載せた五十キロの漬物石。
さらに、オリヴィアの虚空ゲートからヒョオオオと不気味な吸引音が漏れ出している。
「オリヴィア! この虚空ゲート、どうやって閉じるんだ!?」
「あら、解除呪文の詠唱には古代語の祝詞を三十分唱える必要がありますわ!」
脂汗が滝のように流れ、膝がガクガクと震える。
「チュウちゃん……森へ連れてってくれ……!」
俺は裏庭へ転がり出ると、チュウちゃんの背中にすがりつき、脱兎の勢いで裏山の草むらへと消え去った。
俺は真鍮の計算尺を取り出し、スライド尺をカチカチと動かして瞬時に数値を弾き出した。
「オリヴィア、ステラ、ベルカ! ボーッとしてる暇はないぞ、直ちに現場配置につけ!」
「ええっ!? わたくし、まだ朝のお茶を一口も飲んでおりませんのに!」
「文句は後だ! 現場の保安管理は一秒の遅れが致命傷になる! 倉庫番の資材応用技術――『重心分散パレット工法』と『流体誘導カーテン』を展開するぞ!」
俺は納屋から即座に必要な資材を選別した。規格寸法の杉板パレット四枚、耐荷重五トンの麻ロープ三束、そして予備のトタン板。
現場にある資材を、物理法則に従って最も効率的な形に組み上げる。それが倉庫番の真骨頂だ。
「ステラ、その調合液を右舷のスリットに流し込め! 急激な気化熱で流速を三倍に引き上げる!」
「はいっ! 急速冷却反応、点火します♪」
「オリヴィア、空間ゲートの開口角度を三十度に固定! ベルカとチュウちゃんはアンカーロープを『南京結び』で二重固定しろ!」
「ん。チュウちゃん、踏ん張って。ご飯のため!」
ドズゥゥゥゥッ!!
それぞれの能力が、俺の指示した物理ラインに沿って完璧に噛み合った。
暴走しかけていた魔力とエネルギーが、無理なく整流され、美しいピタゴラスイッチのように次々と課題をクリアしていく。
ガタガタと軋んでいた屋敷の梁がピタリと収まり、現場は静寂を取り戻した。
「ふう……っ! やれやれ、心臓が三回くらい止まるかと思ったぞ」
俺は作業着の袖で額の汗を拭い、床に散らばった工具を道具袋へ戻した。
資材を点検し、破損がないことを確認して元の棚へ収める。作業後の清掃と点検こそが、次の事故を防ぐ最善の予防策だ。
「……まったく、レンの指示は相変わらず無茶苦茶ですわ。名門公爵令嬢たるわたくしが、朝からこんな力仕事をさせられるなんて」
オリヴィアが文句を言いながらも、手際よくテーブルの上を片付けて布巾で拭いている。
「でもでも、レンさんの計算通りに全部ぴったり解決しましたよ! やっぱりレンさんは現場の天才ですね♪」
「天才じゃねえ、ただの現場の経験則だ」
「ん。お腹ぺこぺこ。力出ない。倒れそう」
ベルカがテーブルに突っ伏し、チュウちゃんも横で行儀よくお座りして待っている。
「よしよし、待たせたな。朝飯にするぞ」
俺は大鍋の蓋を開けた。
立ち上る湯気とともに、野菜と干し肉の濃厚で香ばしい香りが居間いっぱいに広がる。
裏庭で採れた新鮮な野菜をたっぷり使い、素材の旨味をじっくりと引き出した特製ポトフだ。
「「「わあああああっ!!」」」
木のお椀によそい、焼きたての黒パンを添えて並べる。
「いただきます!」
熱々のスープを一口すする。野菜の甘みと塩蔵肉の深いコクが、疲れた身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。
「美味しいですわ……! 疲れた後のこの温かさ、どんな高級ホテルの朝食よりも心に染みます!」
「ん。スープ、お肉、最高。今日も生きててよかった」
チュウちゃんも鼻を鳴らしながら、特大の木桶に入った野菜をごくごくと平らげた。
窓から差し込む朝の光の中、賑やかな笑い声がボロ屋敷を満たしていく。
外の世界がどれほど大騒ぎになっていようと、俺たちの現場には、今日も確かな日常と温かい食卓があった。
【幕間:冒険者ギルドの伝説更新】
同じ朝の冒険者ギルド。
受付嬢とマスターが、震えながら緊急速報を読み上げていた。
「速報です! 今朝方、悪名高い暗殺ギルド『黒い牙』が煙突屋敷を襲撃するも、一瞬で完全返り討ちに遭い壊滅!」
「さらに、主である『在庫管理者』レン殿は、巨獣チュウちゃんに跨がり、鬼神のごとき形相で裏山へと出撃されたとのこと!」
マスターが拳を握りしめた。
「敵の残党を根絶やしにするため、自ら追撃に向かわれたか……! なんという苛烈さ、なんという徹底ぶりだ……!」
その頃、裏山の茂みで「ふぅ……間一髪だった……」と涙目で腰を上げるレンの姿を、誰も知らなかった。
一方その頃、王都中枢の諜報機関では、緊急の特別機密文書が机の上に叩きつけられていた。
「報告します! 煙突屋敷周辺の魔力潮流および物資移動の解析が完了しました!」
「……どうだったのだ? あの『在庫管理者』レンの真の狙いは……!」
「驚くべきことに、敵のあらゆる行動、自然環境の変動、そして王都の経済網の隙間まで、すべてが彼の計算尺の上で完璧にコントロールされておりました……!」
司令官の背筋に、氷のような冷たい汗が流れ落ちた。
「馬鹿な……天候や魔獣の習性、果ては王宮の動きまでを自らの『在庫』として管理し、意のままに動かしているというのか……!?」
「はい! 彼にとって、この王都そのものが巨大な倉庫に過ぎないのです! 逆らう者は、帳簿の赤字として処理され、痕跡すら残さず抹消されるでしょう……!」
「恐ろしい男だ……! 全部隊に厳命せよ! 煙突屋敷の領域には絶対に足を踏み入れるな! あの男の日常を乱した瞬間、王国は滅びるぞ……!」
ボロ屋敷でレンがスープのおかわりを配っていることなど露知らず、王都の闇は底知れぬ怪物の影に怯え続けるのだった。




