第22話 摩擦係数ゼロの超濃縮ワックス油
第22話です。ステラの床ワックス大暴走!
昼下がりの作業場。
俺は納屋の木製作業台の上で、板材のカンナがけをしていた。
シュッ、シュッ、と心地よい木の削り音が響き、檜の清々しい香りが立ち上る。
だが、その平穏な空気は、ステラが満面の笑みで飛び込んできた瞬間に消し飛んだ。
「レンさん、レンさん! 便所の床用の耐水ワックス、できましたよー!」
ステラが両手で抱えてきた真鍮の小壺。そこから漂うのは、柑橘系と鉱物油が混ざり合った、嗅いだことのない不思議な芳香だった。
「ステラ……そのワックス、普通じゃない匂いがするんだが」
「ふふん! 撥水性を高めるために、極北のトド油と神話級スライムの体液を千倍濃縮して調合した【摩擦係数ゼロ・超撥水ワックス】です!」
「摩擦係数ゼロだと……!?」
ツルッ。
ステラが作業台の角に足を取られ、手から離れた真鍮壺が、カンナがけしたばかりの床板の上にドバッとぶち撒けられた。
」
「ステラ、廊下の床板に油を引いて乾拭きしろ。乾燥しきってささくれ立ってる」
「はーい! 床磨きですね、任せてください♪」
俺が便所の窓枠の補修をしている間、ステラが嬉々として調合鍋をかき混ぜていた。
嫌な予感がして作業の手を止め、廊下を覗き込む。
「……おい、ステラ。その油、どこで手に入れた?」
「倉庫の奥にあった鉱物油に、わたし特製の【超濃縮スライム潤滑核】を溶かし込みました! 摩擦係数を極限までゼロに近づけた、究極の光沢ワックスです♪」
俺の叫びも虚しく、ステラはモップで廊下一面に透明な油をぶちまけていた。
そこへ、寝ぼけ眼のオリヴィアがスリッパで足を踏み入れた。
「ふわぁ……何やら騒がしいですわね、レ――きゃあああっ!?」
摩擦係数ゼロの床の上を、まるで氷上のカーリングストーンのように時速五十キロで猛烈に滑走していく。
突き当たりの雑巾箱に頭から突っ込み、オリヴィアの足がピクピクと痙攣した。
俺は奥歯でカリリと胃薬を噛み砕き、ツルツルの廊下に立ち往生した。
俺は真鍮の計算尺を取り出し、スライド尺をカチカチと動かして瞬時に数値を弾き出した。
「オリヴィア、ステラ、ベルカ! ボーッとしてる暇はないぞ、直ちに現場配置につけ!」
「ええっ!? わたくし、まだ朝のお茶を一口も飲んでおりませんのに!」
「文句は後だ! 現場の保安管理は一秒の遅れが致命傷になる! 倉庫番の資材応用技術――『重心分散パレット工法』と『流体誘導カーテン』を展開するぞ!」
俺は納屋から即座に必要な資材を選別した。規格寸法の杉板パレット四枚、耐荷重五トンの麻ロープ三束、そして予備のトタン板。
現場にある資材を、物理法則に従って最も効率的な形に組み上げる。それが倉庫番の真骨頂だ。
「ステラ、その調合液を右舷のスリットに流し込め! 急激な気化熱で流速を三倍に引き上げる!」
「はいっ! 急速冷却反応、点火します♪」
「オリヴィア、空間ゲートの開口角度を三十度に固定! ベルカとチュウちゃんはアンカーロープを『南京結び』で二重固定しろ!」
「ん。チュウちゃん、踏ん張って。ご飯のため!」
ドズゥゥゥゥッ!!
それぞれの能力が、俺の指示した物理ラインに沿って完璧に噛み合った。
暴走しかけていた魔力とエネルギーが、無理なく整流され、美しいピタゴラスイッチのように次々と課題をクリアしていく。
ガタガタと軋んでいた屋敷の梁がピタリと収まり、現場は静寂を取り戻した。
「ふう……っ! やれやれ、心臓が三回くらい止まるかと思ったぞ」
俺は作業着の袖で額の汗を拭い、床に散らばった工具を道具袋へ戻した。
資材を点検し、破損がないことを確認して元の棚へ収める。作業後の清掃と点検こそが、次の事故を防ぐ最善の予防策だ。
「……まったく、レンの指示は相変わらず無茶苦茶ですわ。名門公爵令嬢たるわたくしが、朝からこんな力仕事をさせられるなんて」
オリヴィアが文句を言いながらも、手際よくテーブルの上を片付けて布巾で拭いている。
「でもでも、レンさんの計算通りに全部ぴったり解決しましたよ! やっぱりレンさんは現場の天才ですね♪」
「天才じゃねえ、ただの現場の経験則だ」
「ん。お腹ぺこぺこ。力出ない。倒れそう」
ベルカがテーブルに突っ伏し、チュウちゃんも横で行儀よくお座りして待っている。
「よしよし、待たせたな。朝飯にするぞ」
俺は大鍋の蓋を開けた。
立ち上る湯気とともに、野菜と干し肉の濃厚で香ばしい香りが居間いっぱいに広がる。
裏庭で採れた新鮮な野菜をたっぷり使い、素材の旨味をじっくりと引き出した特製ポトフだ。
「「「わあああああっ!!」」」
木のお椀によそい、焼きたての黒パンを添えて並べる。
「いただきます!」
熱々のスープを一口すする。野菜の甘みと塩蔵肉の深いコクが、疲れた身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。
「美味しいですわ……! 疲れた後のこの温かさ、どんな高級ホテルの朝食よりも心に染みます!」
「ん。スープ、お肉、最高。今日も生きててよかった」
チュウちゃんも鼻を鳴らしながら、特大の木桶に入った野菜をごくごくと平らげた。
窓から差し込む朝の光の中、賑やかな笑い声がボロ屋敷を満たしていく。
外の世界がどれほど大騒ぎになっていようと、俺たちの現場には、今日も確かな日常と温かい食卓があった。
【幕間:暗殺者部隊の偵察報告】
煙突屋敷の周囲を監視していた暗殺ギルドの斥候が、息を呑んで戻ってきた。
「報告! 屋敷の内部から、音速で物体が射出される轟音と衝撃波を観測しました!」
「何だと……!? 音速の迎撃兵器だと!?」
「はい……屋敷の廊下全体に、不可視の超高速滑走結界が張り巡らされている模様です!」
首領が唸り声を上げた。
「さすがは『在庫管理者』……我々の夜襲を察知し、屋敷そのものを致死性の要塞へと変貌させているというのか……! だが退くわけにはいかん、夜を待て!」
一方その頃、王都中枢の諜報機関では、緊急の特別機密文書が机の上に叩きつけられていた。
「報告します! 煙突屋敷周辺の魔力潮流および物資移動の解析が完了しました!」
「……どうだったのだ? あの『在庫管理者』レンの真の狙いは……!」
「驚くべきことに、敵のあらゆる行動、自然環境の変動、そして王都の経済網の隙間まで、すべてが彼の計算尺の上で完璧にコントロールされておりました……!」
司令官の背筋に、氷のような冷たい汗が流れ落ちた。
「馬鹿な……天候や魔獣の習性、果ては王宮の動きまでを自らの『在庫』として管理し、意のままに動かしているというのか……!?」
「はい! 彼にとって、この王都そのものが巨大な倉庫に過ぎないのです! 逆らう者は、帳簿の赤字として処理され、痕跡すら残さず抹消されるでしょう……!」
「恐ろしい男だ……! 全部隊に厳命せよ! 煙突屋敷の領域には絶対に足を踏み入れるな! あの男の日常を乱した瞬間、王国は滅びるぞ……!」
ボロ屋敷でレンがスープのおかわりを配っていることなど露知らず、王都の闇は底知れぬ怪物の影に怯え続けるのだった。




