第19話 湿布の匂いと、屋敷の静かな晩酌
第19話です。激動の開墾作業を終えた、静かで温かい夜。
夜明け前の冷たい風が、ボロ屋敷の隙間をすり抜けて居間に吹き込んでいた。
俺はいつものように一番乗りで起き出し、冷えた手先を擦り合わせながら暖炉へ向かった。
灰を火かき棒で丁寧にかき分け、底に残った小さな赤い熾火を見つけ出す。前夜に乾かしておいたナラの小割りを三本、空気の通り道を計算して三角形に組み、フイゴを手に取った。
シュポ、シュポと規則正しく二回、空気を送り込む。パチリと乾いた爆ぜる音が響き、細い黄金色の炎が立ち上がると、居間にじんわりとした暖気が広がり始めた。
毎朝欠かさず行う、道具と資材の点検だ。
俺は腰の革ベルトから、真鍮製の十寸計算尺、目盛りを刻んだ鋼尺、手のひらサイズの仕上げ砥石を取り出し、長テーブルの上に整然と並べた。
油壺から椿油を一滴垂らし、ネル布で計算尺のスライド面を磨く。シャキリ、シャキリと滑らかな手応え。
どんな過酷な現場であっても、道具の手入れを怠れば一瞬で事故につながる。十年間、倉庫番として叩き込まれた身体の記憶だ。
「さて、今日の作業段取りを整理しておくか」
出納帳を開き、鉛筆を走らせる。ボロ屋敷の修繕、備蓄食糧の管理、納屋の棚卸し。やることが山積みだ。
やがて二階からバタバタと慌ただしい足音が響き、三人娘が居間へと降りてきた。
「なんですのレン、朝から熱心に帳簿付けなんて。優雅な貴族の朝は、淹れたての上質な紅茶から始まりますのよ?」
オリヴィアが銀刺繍の施された寝巻きの裾を優雅に翻し、長椅子に腰を下ろした。手にはなぜか、王立魔導院特製の超高純度マナ水晶が握られている。
「レンさん、おはようございます! 昨夜思いついた新しい調合液の反応が止まらなくて、瓶がちょっと発熱してるんです♪」
ステラが抱えているのは、ドクドクと紫色に脈打つ巨大なフラスコ。表面からシュワシュワと怪しいピンクの蒸気が吹き出している。
「おいステラ、頼むから朝食前に危険物を抱えて居間に入ってくるな! 絨毯に一滴でも垂らしたら床板ごと消し飛ぶだろ!」
「えへへ、大丈夫です! 爆発限界温度までは、あと三度くらい余裕がありますから!」
「あと三度ってそれもう沸騰寸前だろうが!」
「ん。お腹すいた。朝ご飯、なに? お肉?」
ベルカが半分眠ったような顔で俺のエプロンの端を掴み、背後からは体長五メートルの巨大ネズミ・チュウちゃんが「キュイッ」と甘えた声を出しながら鼻先を突っ込んできた。
「朝から肉が食えるか! まずは目の前の現場トラブルを片付けるのが先だ!」
農村への野菜配給を終え、屋敷に戻った頃には、空は群青色から夜の帳へと移り変わっていた。
裏庭の畑は見事に整地され、美しく畝が並び、納屋には整理整頓された藁と乾草が整然と積まれている。
俺はドカリと椅子に腰を下ろし、肩を回した。
「レンさん、お疲れ様です! 特製の薬草湿布を作ってきましたよ♪」
ステラがトレイに載せて持ってきたのは、スッとするハッカの香りが漂う緑色の湿布薬だった。
「ステラ……これ、爆発したり肌が溶けたりしないよな?」
「失礼ですね! ちゃんと薬草学の基礎に基づいた、純度百パーセントの鎮痛消炎湿布です! レンさんの肩と腰のために調合したんですから」
肩と腰に湿布を貼ると、ジンジンとした心地よい冷感が広がり、張り詰めていた筋肉の強張りがスッと抜けていった。
「わたくしも、お茶を淹れてさしあげましたわ。……その、今日は少しだけ、役に立てた気がいたしますの」
オリヴィアが少し照れくさそうに、香りの良いハーブティーのカップを差し出してきた。
「ああ。お前の空間ゲートの微調整がなきゃ、カボチャも動かせなかったし、イナゴも防げなかった。大したもんだよ」
「ふふん! 当然ですわ! わたくしを誰だと思って――痛っ、手が筋肉痛ですわ……」
オリヴィアがティーカップを持ったままプルプルと震え、みんなの笑いが起きた。
ベルカが台所から、大皿に山盛りにされたローストポークを運んできた。
昼間に捕獲した鋼鉄猪のバラ肉を、カボチャの果汁と塩で漬け込み、暖炉の熾火でじっくりと炙り焼きにしたものだ。
脂がパチパチと弾け、香ばしい肉汁の匂いが居間を満たす。
「チュウちゃんも、干し草とカボチャの皮をたらふく食べて、裏庭で丸くなって寝息を立ててるぞ」
俺は戸棚から、村長からお礼にと貰った安酒の瓶を取り出し、コップに注いだ。
「よし。食糧危機脱出と、畑の開墾完了を祝して――乾杯だ」
カリッと香ばしい焼き目の下から、ジュワリと濃厚な肉汁が溢れ出す。カボチャの酵素で肉質が驚くほど柔らかくなっており、噛むほどに旨味が広がった。
「美味しいですわ! 安酒の酸味が、脂っこいお肉と最高に合います!」
たわいもない会話、パチパチと爆ぜる暖炉の炎、湿布の清涼な匂い。
過酷な労働の後に味わうこの時間こそが、現場で生きる人間の最高の報酬だ。
俺はコップの酒を干し、静かに目を閉じて、満ち足りた吐息を漏らした。
俺は真鍮の計算尺を取り出し、スライド尺をカチカチと動かして瞬時に数値を弾き出した。
「オリヴィア、ステラ、ベルカ! ボーッとしてる暇はないぞ、直ちに現場配置につけ!」
「ええっ!? わたくし、まだ朝のお茶を一口も飲んでおりませんのに!」
「文句は後だ! 現場の保安管理は一秒の遅れが致命傷になる! 倉庫番の資材応用技術――『重心分散パレット工法』と『流体誘導カーテン』を展開するぞ!」
俺は納屋から即座に必要な資材を選別した。規格寸法の杉板パレット四枚、耐荷重五トンの麻ロープ三束、そして予備のトタン板。
現場にある資材を、物理法則に従って最も効率的な形に組み上げる。それが倉庫番の真骨頂だ。
「ステラ、その調合液を右舷のスリットに流し込め! 急激な気化熱で流速を三倍に引き上げる!」
「はいっ! 急速冷却反応、点火します♪」
「オリヴィア、空間ゲートの開口角度を三十度に固定! ベルカとチュウちゃんはアンカーロープを『南京結び』で二重固定しろ!」
「ん。チュウちゃん、踏ん張って。ご飯のため!」
ドズゥゥゥゥッ!!
それぞれの能力が、俺の指示した物理ラインに沿って完璧に噛み合った。
暴走しかけていた魔力とエネルギーが、無理なく整流され、美しいピタゴラスイッチのように次々と課題をクリアしていく。
ガタガタと軋んでいた屋敷の梁がピタリと収まり、現場は静寂を取り戻した。
「ふう……っ! やれやれ、心臓が三回くらい止まるかと思ったぞ」
俺は作業着の袖で額の汗を拭い、床に散らばった工具を道具袋へ戻した。
資材を点検し、破損がないことを確認して元の棚へ収める。作業後の清掃と点検こそが、次の事故を防ぐ最善の予防策だ。
「……まったく、レンの指示は相変わらず無茶苦茶ですわ。名門公爵令嬢たるわたくしが、朝からこんな力仕事をさせられるなんて」
オリヴィアが文句を言いながらも、手際よくテーブルの上を片付けて布巾で拭いている。
「でもでも、レンさんの計算通りに全部ぴったり解決しましたよ! やっぱりレンさんは現場の天才ですね♪」
「天才じゃねえ、ただの現場の経験則だ」
「ん。お腹ぺこぺこ。力出ない。倒れそう」
ベルカがテーブルに突っ伏し、チュウちゃんも横で行儀よくお座りして待っている。
「よしよし、待たせたな。朝飯にするぞ」
俺は大鍋の蓋を開けた。
立ち上る湯気とともに、野菜と干し肉の濃厚で香ばしい香りが居間いっぱいに広がる。
裏庭で採れた新鮮な野菜をたっぷり使い、素材の旨味をじっくりと引き出した特製ポトフだ。
「「「わあああああっ!!」」」
木のお椀によそい、焼きたての黒パンを添えて並べる。
「いただきます!」
熱々のスープを一口すする。野菜の甘みと塩蔵肉の深いコクが、疲れた身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。
「美味しいですわ……! 疲れた後のこの温かさ、どんな高級ホテルの朝食よりも心に染みます!」
「ん。スープ、お肉、最高。今日も生きててよかった」
チュウちゃんも鼻を鳴らしながら、特大の木桶に入った野菜をごくごくと平らげた。
窓から差し込む朝の光の中、賑やかな笑い声がボロ屋敷を満たしていく。
外の世界がどれほど大騒ぎになっていようと、俺たちの現場には、今日も確かな日常と温かい食卓があった。
【幕間:王都憲兵隊の夜間巡察記録】
煙突屋敷の外周を警備する王都憲兵隊のパトロール部隊。
「隊長、煙突屋敷の周囲に異常な静けさが漂っております」
「うむ……昼間は魔獣の突進や空間の亀裂、数千人分の物資移動が行われていたというのに……」
隊長は息を潜めて屋敷の窓の明かりを見つめた。
「嵐の前の静けさだ。あの男は今夜、配下の幹部たちと次の国家規模の作戦を練っているに違いない……」
「憲兵隊全隊に通達! 煙突屋敷の監視警戒レベルを『特級』に引き上げよ!」
屋敷の中でレンたちが湿布を貼って肉をつまんでいるだけだとは夢にも思わず、憲兵隊は夜を徹して厳戒態勢を敷くのだった。
一方その頃、王都中枢の諜報機関では、緊急の特別機密文書が机の上に叩きつけられていた。
「報告します! 煙突屋敷周辺の魔力潮流および物資移動の解析が完了しました!」
「……どうだったのだ? あの『在庫管理者』レンの真の狙いは……!」
「驚くべきことに、敵のあらゆる行動、自然環境の変動、そして王都の経済網の隙間まで、すべてが彼の計算尺の上で完璧にコントロールされておりました……!」
司令官の背筋に、氷のような冷たい汗が流れ落ちた。
「馬鹿な……天候や魔獣の習性、果ては王宮の動きまでを自らの『在庫』として管理し、意のままに動かしているというのか……!?」
「はい! 彼にとって、この王都そのものが巨大な倉庫に過ぎないのです! 逆らう者は、帳簿の赤字として処理され、痕跡すら残さず抹消されるでしょう……!」
「恐ろしい男だ……! 全部隊に厳命せよ! 煙突屋敷の領域には絶対に足を踏み入れるな! あの男の日常を乱した瞬間、王国は滅びるぞ……!」
ボロ屋敷でレンがスープのおかわりを配っていることなど露知らず、王都の闇は底知れぬ怪物の影に怯え続けるのだった。




