第6話 幕間 東の果て
アルテリア大陸、東の果て。
かつて一つの国が存在した。
今では国の名すら忘れ去られ、地図にもまともに記されていない、小さな亡国。
その王都だった場所には、崩れた城壁と朽ち果てた建物の残骸だけが残されている。
長い年月を経て石畳の隙間から草木が伸び、かつて人々が行き交っていた大通りも、今では鳥や小動物が自由に歩き回るだけ。
その廃墟の最奥。
半ば崩れ落ちた城の中庭に、一つだけ不自然なほど原形を保った建造物があった。
古びた石造りの門。
扉はない。
灰色の石を積み上げただけの簡素な門だが、その表面には風化しかけた文字とも模様ともつかない刻印が幾重にも刻まれている。
その門の内側には淡い光の膜が揺らめいていた。
そんな不思議な門を眺めながら三人の少年少女が、その前で待っていた。
「…………遅い」
最初に口を開いたのは、三人の中で唯一の少女だった。
秋桜夕。
腰まで伸びた黒髪を背中に流し、凛とした目元を持つ大人びた少女だ。
年齢以上に落ち着いた雰囲気を纏っており、今も腕を組んだまま、目の前の門をじっと見据えている。
「こなたの奴、いつまで待たせるつもりよ」
口調こそ呆れたようだったが、門から目を離そうとはしない。
その隣では、丸眼鏡を掛けた少年が何度も周囲を気にしていた。
椿原要。
細身で、やや猫背。
落ち着かない様子で眼鏡の位置を直しては、門の向こうにある光へ視線を戻している。
「……本当に、来るよね?」
要がぽつりと呟く。
「さっきの人……いや、人じゃないのかもしれないけど。あの狐の人、ちゃんとここにこなたも送るって言ってたよね?」
「言ってた」
夕が短く答える。
「じゃあ、大丈夫……だよね」
そう言いながらも、要の声から不安は消えていない。
対して。
三人の中で最も落ち着きなく動いているように見えて、実際には最も周囲を警戒していたのが、短髪の少年だった。
竜胆大河。
引き締まった体格に、鋭く周囲を観察する目。
足元に転がる石を爪先で蹴りながら、大河は鼻を鳴らした。
「こなたなら大丈夫だろ」
「どうしてそう言い切れるの?」
要が振り返る。
「図太いから」
「それ理由になってる?」
「なってるだろ。あいつ、昔から変なところで神経太いし」
「……まあ」
否定できないのか、要が口ごもった。
夕の口元にも、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「確かに。私たちより楽しそうにしてる可能性はあるわね」
「だろ?」
「二人とも楽観的すぎない?」
要だけが納得できない顔をしている。
大河は肩をすくめた。
「心配したって仕方ねぇだろ。こなたがここに来るまでは、俺たちにできることねぇんだから」
「それは……そうだけど」
要はもう一度、石の門を見た。
向こう側で揺れている光の膜。
あの中から、いつこなたが姿を現すのか。
三人はこの場所へ送り出されてから、ずっと待ち続けていた。
体感では、それほど時間は経っていない。
それでも。
知らない世界。
知らない城跡。
聞いたこともない鳥の声。
遠くの森から時折届く、獣とも何ともつかない咆哮。
待っている時間が、妙に長く感じられた。
「……なあ」
大河が低く口を開く。
「俺、やっぱ引っかかってんだけど」
「何が?」
夕が問い返す。
「あの狐」
要が反応した。
「神狐さん?」
「神狐? まぁ、超常的な存在ではあるか」
大河の表情から、先ほどまでの軽さが消える。
「あいつの話、全部信じていいとおもうか?」
「…………」
「突然訳の分からねぇ場所に飛ばされた思えば、『元の世界にはすぐ帰せません』『こっちの世界を横断してください』って言われて。挙げ句、よく分からねぇ道具まで渡された」
「でも、僕たちをここへ連れてきたのは……」
「だから、それも含めてだよ」
大河は門から目を離さない。
「あの狐に化かされてるって可能性はないのか?」
要の顔に、新たな不安が浮かぶ。
「……やめてよ。そういうこと言うの」
「考えといた方がいいだろ」
「大河」
夕の落ち着いた声が割って入った。
「疑うこと自体は悪くないわ」
「だよな?」
「でも、今の段階では判断材料が足りない」
大河は黙る。
「少なくとも、あの狐から悪意や邪念は感じなかった」
「夕がそう言うなら……」
要が少しだけ安堵したように息を吐く。
二人は昔から、夕の人を見る目を信頼していた。
相手が嘘をついている時。
何かを隠している時。
人を騙そうとしている時。
夕は昔から妙にそういうものを察するのが早い。
「ただし」
夕は続けた。
「何か別の思惑がある可能性までは否定しないわ」
「ほら」
「でも仮にそうだとしても、今の私たちにはどうすることもできないでしょ?」
「…………」
「ここがどこなのかさえ分からない。帰る方法も、あの狐が教えたもの以外に心当たりはない」
夕は二人へ順番に視線を向ける。
「だったら今は信じて、情報を集めるしかない」
「……現実的だね」
「誰かが現実を見ないと困るでしょう」
「こなたがいたら、何て言うかな」
要の何気ない一言。
三人の間に、一瞬だけ静けさが落ちた。
大河が鼻で笑う。
「『せっかく異世界に来たんだから楽しもうよ!』とか言うんじゃね?」
「言いそう」
夕も小さく息を漏らす。
「絶対言う」
要もつられて笑った。
ほんの僅かに。
張り詰めていた空気が緩む。
「……遅いわね」
夕が再び門へ向き直った。
「さすがに、そろそろ――」
その時だった。
ぐにゃり。
「……え?」
要が声を漏らす。
石造りの門が歪んだ。
正確には、門の内側で揺らめいていた光だけではない。
石そのものが、水面に映った景色のように大きく揺らいでいる。
「なに、これ……」
「下がれ!」
大河が即座に二人の前へ出た。
門の輪郭がさらに激しく歪む。
ぐにゃりと空間そのものが捻じ曲げられているようだった。
「こなた!?」
夕が門へ駆け寄ろうとする。
「待て、夕!」
「でも!」
「様子がおかしい!」
大河が腕を掴んだ、その直後。
ぱきん。
ガラスが割れるような乾いた音がした。
門自体に、黒い亀裂が走る。
一瞬、目の眩むような閃光。
そして――。
「…………」
三人は言葉を失った。
門が消えていた。
跡形もなく。
つい先ほどまでそこにあった石造りの構造物も。
その向こうで揺れていた光も。
まるで最初から何も存在していなかったかのように、そこには草の生えた地面があるだけだった。
「……嘘」
要の顔から血の気が引く。
「まだ……」
声が震える。
「まだ、こなた来てないのに」
「おい……」
大河が数歩前へ出た。
「おい!」
門があった場所へ手を伸ばす。
当然、何にも触れない。
「ふざけんなよ!」
大河が地面を蹴る。
「話が違うだろ! こなたもここに送るって――!」
「大河、静かに!」
「こんな時に――」
「何か聞こえる!」
夕の鋭い声に、大河が口を閉じた。
「…………」
三人が耳を澄ます。
『――……こえ……る……か――』
「っ!」
三人が同時に顔を上げた。
声。
耳からではない。
直接、頭の中へ流れ込んでくる。
「神狐さん!?」
要が叫ぶ。
『――……転……が……乱れ……』
激しい雑音。
言葉の半分以上が潰れている。
『――こなたが……』
「こなたが何だよ!?」
大河が怒鳴る。
『――……別の……場所へ……転移……』
「…………!」
三人の顔色が変わった。
「別の場所!?」
要の声が裏返る。
「どこですか!?」
『――……わから……』
「分からないって何よ!」
夕まで初めて声を荒らげた。
「こなたは無事なの!?」
『――生……は……』
「…………」
「おい?」
大河が辺りを見回す。
「おい! 聞こえてんだろ!」
返事はない。
「もう一回喋れ! こなたはどこだ!」
何も聞こえない。
「くそっ!」
大河が拳を握りしめる。
要は青ざめたまま、門があった場所へ座り込みそうになる。
「どうしよう……」
「要」
「どうしよう、夕……こなた一人だよ」
「…………」
「知らない世界で、どこに飛ばされたかも分からなくて……」
夕は答えられなかった。
大河も、もう「こなたなら大丈夫だ」とは言えない。
先ほどまで胸の奥に燻っていた不安が、はっきりとした形になって三人へ突きつけられていた。
「……探すぞ」
大河が低く言った。
夕が彼へ顔を向ける。
「絶対、探す」
「大河……」
「あいつ一人置いて、俺たちだけ帰れるわけねぇだろ」
要が唇を噛む。
やがて、強く頷いた。
「……うん」
夕も一度目を閉じる。
そして。
「そうね」
顔を上げた。
「まずは、この世界について知るところから始めましょう」
「ああ」
「こなたがどこに飛ばされたのか分からないなら、手掛かりを集めるしかない」
三人の方針が決まる。
その瞬間だった。
――カツン。
「…………?」
聞き慣れない音がした。
大河が振り返る。
――カツン。
一定の間隔。
硬い何かが、石畳を叩いている。
「……馬?」
要が呟く。
――カツン。
――カツン。
音は、崩れかけた城の奥から聞こえていた。
三人の視線が、暗い回廊の向こうへ集まる。
やがて。
暗闇の中から、一頭の黒い馬がゆっくりと姿を現した。
「…………うそ」
夕の表情が強張る。
馬には――首がなかった。
それでも何事もないように四本の脚で石畳を踏み、こちらへ歩いてくる。
「な……」
要が息を呑む。
馬だけではない。
その背には、一人の騎士が跨がっている。
錆びついた黒い甲冑。
ぼろぼろになった外套。
右手には、人の背丈を優に超える巨大な槍。
そして。
肩から上には――何もなかった。
「……冗談だろ」
大河が掠れた声を漏らす。
首のない馬。
首のない騎士。
朽ちた城跡を長い年月彷徨い続けてきたかのような異形が、三人の前で静かに歩みを止める。
騎士の握る槍が持ち上がった。
切っ先が――三人へ向けられる。
次の瞬間。
首なし馬の前脚が、石畳を強く蹴った。
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