第5話 旅のお供に
「……神の食べ物だ」
焼きおにぎりを手にしたまま、ジャレッドはぽつりと呟いた。
「そこまで!?」
あまりにも大仰な感想に、こなたが驚きの声を上げる。
だが、ジャレッドは冗談を言っている様子ではなかった。
手元の焼きおにぎりを、未知の宝物でも発見したかのように眺めている。
そして、確かめるようにもう一口。
かりっ。
薄く焼けた表面が小気味よい音を立てて割れ、中からふっくらとした米がほどけていく。
「……すごい」
「な、何がです?」
「表面はカリッとして香ばしいのに、中は柔らかい。それに、このショウユダレっていうのも面白いね」
「醤油ダレです」
「焦がした時の匂いがすごくいい。甘じょっぱい旨味が米に絡んで、米そのものの味を何倍にも引き立てている」
「…………」
「噛むたびに米の甘みがじわっと広がって、それを醤油ダレの――」
「ジャ、ジャレッドさん?」
「なに?」
「めちゃくちゃ喋りますね!?」
「そう?」
「そうですよ!」
こなたは目の前の男の変貌に、驚きを隠せなかった。
ついさっきまでのジャレッドは、何を話しても「へぇ」「そう」「なるほど」と短く返すばかり。
感情の起伏も乏しく、常にどこか眠たげで、気を抜けば意識だけ別の場所へ飛んでいきそうな男だった。
それが今ではどうだ。
たった一つの焼きおにぎりを前にして、香りだ食感だと次々に感想を口にしている。
しかも、本人には饒舌になっている自覚すらないらしい。
「…………」
呆気に取られていたこなたは、やがて堪えきれず頬を緩めた。
「……そんなに気に入ってもらえたなら、教えた甲斐がありました」
「うん。すごく美味しい」
その返事には、普段の気の抜けた調子とは違う、素直な喜びが滲んでいた。
ジャレッドは再び焼きおにぎりへ齧りつく。
三日ぶりのまともな食事。
腹の虫は先ほどから盛大に空腹を訴えていた。
それでも、獣のように料理を掻き込むことはしない。
一口ずつ、丁寧に噛む。
焼きおにぎりを味わった次は、塩おにぎり。
素朴な米の甘味を楽しんだあと、再び香ばしい焼きおにぎりへ戻る。
そうして交互に味わいながら、ゆっくりと食事を進めていく。
その所作は妙に美しかった。
おにぎりを持つ指先。
口元へ運ぶ動き。
咀嚼する時でさえ、どこか品がある。
荒事を生業とする冒険者というより、礼儀作法を厳しく叩き込まれた家の人間のように見えた。
「三日ぶりのご飯なんですよね?」
「うん」
「もっとこう……獣みたいにがっつくのかと思ってました」
「そういう食べ方は怒られるから」
「誰に?」
「色んな人に」
「色んな人?」
「うん」
「……やっぱり育ち良さそう」
「普通だよ?」
「その普通、たぶん普通じゃないと思いますけど」
ジャレッドは特に否定するでもなく、最後に残っていた焼きおにぎりを口へ運んだ。
何度かゆっくりと噛み、名残惜しそうに飲み込む。
やがて皿の上から、塩おにぎりも焼きおにぎりも綺麗になくなった。
「…………」
ジャレッドは空になった皿へ目を落とす。
「どうでした?」
こなたが期待を隠しきれない様子で尋ねた。
料理を自分で作ることはできない。
自分自身で味わうことも、もうできない。
だからこそ、誰かが食べてくれること。
そして、美味しいと言ってくれることが今の彼女には嬉しかった。
ジャレッドはしばらく何も言わなかった。
やがて椅子から立ち上がる。
「こなた」
「はい?」
ジャレッドは彼女と正面から向き合うと――深々と頭を下げた。
「ありがとう」
「えっ」
「本当に美味しかった」
「いやいやいや!」
予想外の行動に、こなたが慌てて両手を振る。
「頭上げてください! 作ったのジャレッドさんですから!」
「でも、君がいなかったら作れなかった」
「それはそうですけど……」
「これほど食事で感動したのは、初めてだよ」
大袈裟に聞こえる言葉だった。
しかし、頭を上げたジャレッドの顔に冗談めいた色はない。
本気でそう思っている。
それが伝わってきたため、こなたも強く否定できなくなった。
「だから、お礼がしたい」
「お礼?」
「うん」
ジャレッドは腰に下げていたマジックバックへ片手を入れた。
しばらく中を探り、取り出したのは手のひらより少し大きな革袋。
「どうぞ」
「…………何ですか、それ」
「お金」
じゃらり。
袋の口が開かれる。
中に詰め込まれていたのは、眩しいほどに輝く金貨だった。
数枚どころではない。
ぎっしり。
これでもかというほど詰まっている。
「多い多い多い多い!」
こなたの絶叫がキッチンいっぱいに響いた。
「そう?」
「おにぎりですよ!?」
「足りない?」
「逆です!」
「じゃあ、もっと減らす?」
「そういう問題じゃありません!」
どうやら金銭感覚まで普通ではないらしい。
こなたは頭を抱える仕草をする。
「そもそも私、幽霊ですよ!? こんなにお金もらって何に使うんですか!」
「…………」
ジャレッドが革袋へ目を落とした。
「……確かに」
「今気づいたんですか!?」
「困ったな」
「別に困らなくていいですよ。お礼なんていりませんから」
「それはできない」
今度は即答だった。
ジャレッドは静かに首を横へ振る。
「僕にとっては、十分すぎるほどのご馳走だった。それなのに何も返さないなんて、家名に傷がつく」
「家名?」
「…………」
しまった。
そんな気配が、ほんの僅かにジャレッドの顔を過った。
「まあ、それは置いておいて」
「なんか気になるなぁ……」
「大したことじゃないよ」
「そうやって流す人の台詞、だいたい大したことあるんですよね」
こなたが訝しげな眼差しを向ける。
しかしジャレッドに詳しく話す気はないらしく、金貨の詰まった革袋をマジックバックへ戻してしまった。
「お金じゃなくてもいいよ」
「え?」
「何か、僕にしてほしいことはない?」
「してほしいこと……」
「うん。僕にできることなら」
「…………」
すぐには言葉が出てこなかった。
こなたの意識が、自然と幌馬車の外へ向かう。
何十年もの間、一度として見ることのできなかった広い世界がある。
知らない街。
見たことのない海。
地平線の彼方まで続く草原。
雪を頂く山々。
かつて思い描いていた景色が、次々と脳裏を過っていく。
そして――。
三人の幼馴染。
自分と同じ日に、この世界へやって来た大切な友人たち。
あの子たちは、その後どうなったのだろう。
無事に旅を続けられたのか。
西の果てまで辿り着き、元の世界へ帰ることができたのか。
それとも――。
「……だったら」
気づけば、声が零れていた。
「うん」
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「もちろん」
そこまで言ってから、こなたは迷った。
これは簡単な頼み事ではない。
知り合ったばかりの相手に願うには、あまりにも重い。
それでも。
七十年抱え続けた想いが、口を閉ざすことを許してくれなかった。
こなたは一度俯き、それから覚悟を決めて顔を上げる。
「私を……ここから連れ出してもらえませんか?」
「…………」
「幽霊になってから、何度か外に出ようとはしたんですけど……どうも、この馬車からあまり離れられないみたいなんですよね」
ジャレッドは何も言わない。
こなたは続けた。
「友達が、あのあとどうなったのか知りたいんです」
胸の中へ溜め込んでいた言葉が、一つずつ形になっていく。
「元の世界に帰れたのか。それとも、この世界のどこかで生きていたのか」
それだけではない。
こなたは幌馬車の内部へゆっくり意識を巡らせる。
調理台。
鍋。
食材庫。
そして、長い年月、一度も大地を走ることのなかった車輪。
「それに……この馬車で旅をしてみたい」
七十年。
ここで生きた。
料理を作った。
友達もできた。
笑ったことも、楽しかったことも、決して少なくなかった。
自分の人生そのものを不幸だったとは思っていない。
けれど。
この幌馬車だけは、一度として走らなかった。
「私、友達とこの馬車で料理を売りながら世界中を旅したかったんです」
「…………」
口にしてから、その願いの大きさを改めて実感した。
こなたの口元に、自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「……なんて」
ジャレッドから返事はない。
一秒。
二秒。
時間が経つほど、こなたの中で恥ずかしさと申し訳なさが膨らんでいく。
「あっ、いや! やっぱり今の忘れてください!」
「どうして?」
「どうしてって……」
こなたは慌てて両手を振った。
「世界中を旅してくれなんて、どう考えても無茶なお願いじゃないですか!」
「そんな簡単なことでいいの?」
「…………はい?」
今度は、こなたの動きが完全に止まった。
「簡単……?」
「うん」
「世界を旅するんですよ?」
「そうだね」
「ものすごく時間かかりますよ?」
「うん、いいよ」
「危険もいっぱいあると思いますよ!?」
「それは冒険者だから慣れてる」
「…………」
こなたの口が、ぽかんと開いた。
どうやら本当に大したことではないと思っているらしい。
「本当に……いいんですか?」
「うん」
ジャレッドはあっさりと頷いた。
「僕も、少し興味がある」
「興味?」
「今日、料理してみて思ったんだ」
ジャレッドが自分の掌へ目を落とす。
剣を握るために鍛えてきた手。
敵を斬り、魔物を倒し、依頼をこなすために使い続けてきた手だ。
けれど今日、その手で初めて米を研いだ。
形の悪いおにぎりを握った。
刷毛を持ち、醤油ダレを塗り、焼き上がる匂いに腹を鳴らした。
どれも剣とは何の関係もない。
これまでの人生で、ほとんど経験したことのない時間だった。
「……楽しかった」
小さな言葉だった。
だが、こなたには妙に強く聞こえた。
「ジャレッドさん……」
「剣を振るのとは違うし、冒険とも違う。でも、自分の手で少しずつ形になって美味しいものが出来上がって……凄く楽しいって思えた」
不格好だった最初のおにぎり。
焼き目がつき、醤油の色に染まっていった米。
そして最後には、自分自身が心から美味しいと思えるものになった。
「それに、こなたが言ってたでしょう?」
「?」
「この馬車で料理を売りながら、世界中を旅したかったって」
「はい」
「僕も、それやってみたいな」
「…………」
意味を理解するまで、数秒かかった。
「ええええええっ!?」
こなたの絶叫が幌馬車を揺らしかねない勢いで響いた。
「ほ、本当ですか!?」
「うん」
「でも、冒険者は!?」
「もうすぐ辞めることになってるんだ」
「え?」
思いも寄らない答えだった。
「家との約束でね。自由にしていいのは、あと少しだけなんだ」
「家との約束?」
「うん。何年か好きに生きさせてもらう代わりに、時が来たら家へ戻る。そういう約束なんだ」
「…………」
「だから、もうすぐ冒険者も終わり」
「また家ですか」
「また家だね」
「何者なんですか、ジャレッドさん」
「それは、そのうち」
穏やかな口調は変わらない。
けれど、この話だけは今のところ深入りされたくないらしい。
「最後の冒険を、どうしようか決めてなかったんだ」
「…………」
「事情があってね。依頼でもないのに、自分の行きたい場所へ行くっていう旅は、ほとんどしたことがないんだ」
こなたは黙って耳を傾ける。
「だから――」
ジャレッドの視線が、幌馬車の中をゆっくり巡った。
調理場。
見知らぬ道具。
先ほどまで二人で料理をしていた場所。
「君と料理をしながら、友達の足跡を辿って世界を旅する――」
そこで、ジャレッドの口元がほんの僅かに緩む。
「最後の冒険としては、悪くないかなって」
こなたは何も言えなかった。
知り合って間もない。
それなのに。
自分が七十年もの間、叶わないと諦め続けてきた願いを、この青年はあまりにも自然に拾い上げてくれた。
「こなた」
ジャレッドが右手を差し出す。
「僕でよければ、君の旅のお供をさせてくれないか?」
こなたは、その掌へ目を落とし、唇が僅かに震えた。
七十年前。
あの真っ白な空間で、胸を躍らせながら思い描いた夢。
叶うはずだった。
けれど、始めることさえできなかった。
人生を終え、もう二度と叶うことはないと思っていた。
その夢の続きを――。
目の前の青年が、拾ってくれようとしている。
「……はい!」
こなたの顔いっぱいに、満面の笑みが広がった。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
差し出された手へ、迷わず自分の手を伸ばす。
すっ。
二人の掌が重なり――。
何の抵抗もなく、そのまますり抜けた。
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙。
こなたが自分の透けた手を確かめる。
「あ」
ジャレッドも宙へ残された自分の掌へ視線を落とした。
「あ」
「……握手できないんでした」
「忘れてたね」
「ジャレッドさんも忘れてたんですか!?」
「うん」
「もう!」
思わず声を上げたあと、こなたは吹き出した。
そして、もう一度。
今度は分かったうえで、透けた手をジャレッドの掌へそっと重ねる。
触れることはできない。
温もりもない。
指先に伝わる感触もない。
それでも。
今度は確かに、手を取り合えたような気がした。
「よろしくお願いします、ジャレッドさん」
「うん」
ジャレッドの口元も、ほんの僅かに綻ぶ。
「よろしく、こなた」
永い間、ただ同じ場所に留まり続けていた魔法の幌馬車。
その車輪が今――ようやく動き出そうとしている。




