第37話 自分で選んだ旅
「本当に――私と世界を旅していいんですか?」
草原を渡る夜風の中で、こなたの問いだけが静かに残った。
ジャレッドはすぐには答えなかった。
頭上に広がる星々を眺めながら、何から話すべきか考えているようだった。
野営地の方では、薪の爆ぜる音が時折聞こえる。満腹になった白雪は相変わらず長い尾へ顔を埋めたままで、こちらの会話に気づく様子もない。
やがてジャレッドが、ゆっくりと口を開いた。
「こなたが気にしてることは、たぶん間違ってないよ」
「……やっぱり」
「僕には帰る場所があるし、待ってる人もたくさんいる。それに、冒険者を辞めた後は、今みたいに好きな場所へ行ける立場でもなくなる」
そこまでなら、こなたも想像していた。
だからこそ訊いたのだ。
「かなり偉い家の人なんですよね?」
「うん」
やはり、とこなたは納得しかけた。
大金への頓着のなさ。
洗練された所作。
家名というものに対する妙なこだわり。
そのあたりを考えれば、高位の貴族の出身でも不思議ではない。
「じゃあ、家督を継がないといけないとか?」
「家というより、国かな」
「……国?」
ジャレッドは、いつもと変わらない穏やかな顔で答えた。
「僕、本名はジャーレ・クレバリスっていうんだ」
「クレバリス……」
こなたは聞き覚えのある名前を反芻する。
そして数秒後、その名が今いる国そのものと同じであることに気づいた。
「…………え?」
「父は、この国の王だった」
「…………」
「今はもう亡くなってるけどね」
「…………」
「だから冒険者を引退したら、僕が王位を継ぐことになってる」
風が吹き、周囲の草がさらさらと揺れる。
こなた本人は微動だにできなかった。
今聞いた言葉を理解するまでに、かなりの時間を要したからだ。
「…………王位?」
「うん」
「継ぐ?」
「そう」
「ジャレッドさんが?」
「正確にはジャーレだけど」
そこでようやく、止まっていた思考が一気に動き出した。
「お、王様になる人だったんですかあああああっ!?」
真夜中の野営地へ、こなたの絶叫が響き渡った。
何人かの旅人が驚いて毛布から顔を出し、白雪まで耳を立てる。
「こなた、声」
「声も出ますよ! なんでそんな重要なことを今まで黙ってたんですか!?」
「訊かれなかったから」
「普通訊きませんよ! 旅の途中で知り合ったS級冒険者に『ところであなた、次の国王だったりします?』なんて!」
「それもそうだね」
「納得しないでください!」
こなたは頭を抱えようとして、手が自分の身体をすり抜けるのを忘れていたらしく、そのまま勢いよく腕を下ろした。
「ちょっと待ってください。だから商人さんも……」
「かなり格の高い商人だったからね。たぶん僕に気づいてたんだと思う」
「絶対そうじゃないですか!」
これまでに感じていた違和感が、一瞬で繋がっていく。
道中で時折向けられた不自然な敬意。
そして何より、「期限が来たら家へ帰る」という言葉の重さ。
家どころではなかった。
国が待っていたのである。
「だったら余計に分からないんですけど……」
こなたは呆然としながら尋ねた。
「王様になる人が、どうして冒険者なんてやってるんですか?」
「それは……先生の影響が大きいかな」
「先生?」
「僕に剣を教えてくれた人」
ジャレッドの声が、少しだけ懐かしさを帯びた。
「凄く変わった人だったよ。由緒のある高位貴族の生まれで、本当ならもっと貴族らしく振る舞うべき立場だったのに、本人にはその気が全然なかった」
少年の頃、その人はしょっちゅう家人の目を盗んでは屋敷を抜け出していたという。
向かう先は、貴族の子弟が近づくような場所ではない。
冒険者が集まる酒場だった。
まだ酒も飲めない年齢の頃から隅の席へ座り、冒険者たちの話へ耳を傾けては、未知の土地や魔物、遠い国の話に目を輝かせていたらしい。
「大人になってからも同じだったみたい。暇ができると酒場へ行って、帰ってきた冒険者を捕まえては旅の話を聞いてたって」
「貴族なのに?」
「かなり破天荒な人だったからね。随分周りを困らせてたよ」
そんな男には、ずば抜けた剣の才能があった。
名門の出身でありながら肩書きを鼻にかけず、剣を握れば並の騎士など歯牙にもかけない。
その実力を王家に見込まれ、やがて幼い王子の剣術指南役に選ばれた。
その王子が、ジャーレだった。
「僕、子供の頃から何をやらせてもそれなりにできたんだ」
「それ、自分で言うとちょっと嫌味ですよ?」
「僕も今そう思った」
「……自覚あるんですね」
わずかに口元を緩めたあと、ジャレッドは話を続ける。
剣を習えば、教えられた型をすぐ覚え、魔法を学ばせれば必要な術式は一度で理解した。
勉学も礼儀作法もそつなくこなし、周囲は神童だ、将来は間違いなく名君になると、誰もが幼い王子を褒め称えた。
「でも、そんな言葉も僕には何も響かなかった。子供の頃の僕は、何にも興味を持てなかったんだ」
「何にも?」
「剣が好きなわけでも、魔法が好きなわけでもなかった。できるからやってただけ。褒められても嬉しくもないし、欲しいものを訊かれても思いつかなかった」
幼いジャーレにとって、毎日は与えられた課題をこなしていくものだった。
王子として必要だから学ぶ。
次の王として求められるから身につける。
そこに自分の好き嫌いを持ち込むという発想自体がなかった。
そんな少年を、剣術指南役だけは少し違った目で見ていたらしい。
『お前、何か好きなものはないのか?』
『お前って……僕、一応王子なんだけど』
『細かいこと気にすんなよ。俺とお前の仲だろ? で、好きなものってないのか?』
『……好きなもの?』
『やってて楽しいとか、もっと知りたいとか、そういうやつだ』
『……分からない』
『かぁ~。困った王子様だな』
先生は呆れたように笑っていたという。
だが、ある日。
剣の稽古を終えたあとで、何のきっかけだったのか、その男が若い頃から抱いていた夢について話した。
『俺はな、本当は冒険者になりたかったんだ』
北の果てには一年中雪と氷に覆われた土地がある。
南には夜になると海そのものが青く光る島がある。
砂漠の向こうには見渡す限り赤い岩山が続き、その奥には誰も足を踏み入れたことのない遺跡が眠っているという。
酒場で聞いた話を、先生はまるで自分が見てきたかのように楽しげに語った。
「その時、初めて不思議だと思った」
「何がですか?」
「先生が、すごく楽しそうだったから」
普段は豪快で、剣を持てば厳しく、貴族らしくしろと周囲から小言を言われては笑い飛ばしている人だった。
そんな男が冒険者の話をする時だけ、少年のように目を輝かせる。
叶うかどうかも分からない未来の話をするだけで、あれほど楽しそうにできる男の姿に、幼いジャーレはそれがとても奇妙に映った。
「最初は、先生がどうしてそこまで冒険者に惹かれるのか知りたかっただけだと思う」
やがて稽古が終わるたび、話の続きを聞くようになった。
『昨日の話だけど』
『んん? なんだ?』
『空に浮かぶ島があるって言ってたでしょ。その続きは?』
その言葉を聞いた先生は、ひどく驚いた顔をしたあと、大声で笑ったという。
『無感情なお前から、話の続きを聞きたいなんて言葉が出るとはな! いいぞぉ~。空島はな――』
そこから二人の仲は急速に縮まった。
剣の師弟であるだけではない。
稽古の合間には冒険者から聞いた旅の話をし、時には城を抜け出した先生に連れられ、身分を隠して町を歩いたこともあった。
ジャーレにとって、それは初めて誰かに言われたからではなく、自分からもっと知りたいと思えた時間だった。
そんな日々が何年か続いたある日、先生は突然、指南役を辞めると告げた。
『冒険者になることにした』
爵位も家の役目も、引き継げるものはすべて弟へ譲るつもりだと話した。
家族とは散々揉めたらしい。
それでも先生の決意は変わらなかった。
『本当に全部捨てるの?』
『捨てるって言うなよ。ちゃんと後始末はしてるぞ?』
『でも、先生は責任のある貴族でしょ』
『だから長いこと諦めてたんだよ』
その時の先生は、これまで冒険者について語っていた時よりも、さらに晴れやかな顔をしていた。
『もういいんだ。残りの人生くらい、行きたい場所は自分で決める』
幼いジャーレは、その言葉に衝撃を受けた。
「僕にはできない選択だと思った」
「家を捨てることがですか?」
「うん。僕には国がある。先生みたいに、全部置いていくことはできないと思ったから」
王子という立場から逃げるという選択肢は、少年ジャーレには最初からなかった。
それでも先生が自分で人生を決めようとする姿は、眩しいほど鮮烈に映った。
『思い切った決断だね、その選択は僕には無理だと思う。でも……先生が本当に行きたいなら、僕はその門出を祝福するよ』
『……そうか、ありがとな』
『最初はどこへ行くの?』
先生は笑って答えた。
『決めてない』
『決めてないの?』
『それがいいんだろ。朝起きて、右へ行くか左へ行くか。その日の気分で自分で決めるんだ』
たったそれだけのことが、少年ジャーレには途方もなく自由なことに思えた。
けれど――。
「先生は、冒険者にはならなかった」
ジャレッドの声から、わずかに温度が消えた。
「旅立つ前に倒れたんだ」
「……病気だったんですか?」
「うん。治らない病気だった」
しかも、本人は以前から知っていた。
指南役を辞めると告げた時には、すでに医師から余命を伝えられていたという。
「じゃあ……冒険者になるって言った時には」
「自分が長くないことも分かってた」
こなたは何も言えなかった。
「僕は先生に訊いたんだ。どうして黙ってたのか、冒険者になるって話は嘘だったのかって」
病床の先生は、痩せた身体でそれでも笑った。
『嘘じゃないさ』
『でも、もう旅なんてできないじゃないか』
『そのつもりだったんだよ。一日でもいいから門を出て、冒険者として歩いてみたかった』
残された時間が少ないと分かったからこそ、男は初めて家という枠から出ようと決めた。
最後くらいは、誰にも行き先を決められず、自分の足で歩いてみたかった。
しかし、そのささやかな願いにすら身体が間に合わなかった。
『だったら、僕が先生の夢を継ぐよ』
幼いジャーレは言った。
『先生が見たかったところを、僕が全部見てくる』
ところが、先生は首を横に振った。
『やめろ』
『どうして?』
『俺の夢は俺のものだ。お前が背負う必要はない』
ジャーレには、その言葉の意味が分からなかった。
先生の代わりに夢を叶えることが、何故いけないのか。
だが男は、最後まで譲らなかった。
『お前は無駄に何でもできるから、周りは何でもやらせようとするだろう』
弱くなった手が、少年の頭へ伸びた。
『でもな、できることと、やりたいことは別だ』
『……やりたいこと』
『責任があるからって、自分の望みまでなくなるわけじゃない。いつか本当にやりたいと思えるものが見つかったら、責任を理由に諦めるな。その時くらいは自分で選べ。俺みたいに後悔する前にな』
それが、先生から最後に教わったことだった。
「そのあと、しばらくして先生は亡くなってしまったんだ」
夜風が二人の間を通り過ぎる。
こなたはジャレッドの横顔を見つめていた。
「先生が亡くなったあとも、夢はずっと心に残ってたんですね」
「うん。ただ、その頃はまだ、それが僕自身の夢だとは思ってなかった」
「そうなんですか?」
「あの頃の僕は、まだ先生の夢を自分が引き継げばいいと思ってた。でも、それじゃ先生に怒られるからね」
年月が流れた。
王子として学び、研鑽を続け、やがて父王が病に倒れた。
父が亡くなれば、自分が王となる。
それは幼い頃から決まっていたことで、ジャーレ自身も拒むつもりはなかった。
「ただ、即位の準備が始まった時に、ふと思ったんだ」
このまま王になれば、自分の行動一つ一つが、自分だけの問題ではなくなる。
そしてきっと、胸の奥に残っていた「世界を見てみたい」という気持ちにも蓋をして、そのまま生きていくことになる。
「それで先生の言葉を思い出した。責任を理由に、自分の望みまで諦めるなって」
「そこで初めて、自分が何をしたいのか分かったんですね」
「うん」
ジャレッドは遠くの夜空へ目を向ける。
「先生があんなに楽しそうに語ってた世界を、本当に僕自身も見てみたいと思うようになってたんだ」
知らない土地を歩き、自分で次の行き先を決める。
依頼を受けて魔物と戦い、見たことのない町を訪れ、その土地の人々と出会う。
それは先生から借りた夢ではなく、気づかないうちに自分の中にも芽生えていた望みだった。
「だから家族に頼んだ。王になる前に、少しだけ自分の好きに生きる時間が欲しいって」
「よく許してもらえましたね……」
「かなり揉めたよ。でも、最後は認めてくれた」
「期限付きで?」
「そう。5年だけって約束でね」
「その期限、もう近いんですよね?」
「近いよ。でも、まだ少し残ってる」
ジャレッドは隠すことなく答えた。
「王都で今回の依頼を報告したら、残った時間はこなたとの旅に使おうと思ってる」
「でも……」
こなたは眉を寄せた。
「私の友達の足跡を探して世界中を回るってなったら、残ってる時間だけじゃ足りないかもしれないじゃないですか」
「それはそうかもしれないね」
「だったら、やっぱり私と旅してる場合じゃないんじゃ……」
「どうして?」
「だって、帰る約束があるんでしょう? しかも王様になるんですよ。私の都合で、その約束を破らせるわけにはいかないですよ……」
先ほどまで以上に、その言葉が重く感じられた。
自分の未練のために、一国の未来を担う人間を連れ回すつもりはない。
どれだけ一緒に旅を続けたくても、そこまで求めることはできなかった。
しかしジャレッドは、困ったように少しだけ眉を下げた。
「こなたは勘違いしてるよ」
「え?」
「僕は約束を破るつもりはないし、こなたに頼まれたから仕方なく付き合ってるわけでもない」
青い瞳が、真正面からこなたを見る。
「期限までは僕の自由だって、家族ともそういう約束をしてる。だから、その時間を何に使うかは僕が決めるよ」
「ジャレッドさん……」
「最初は先生の話に憧れて冒険者になった。でも実際に旅をしてみたら、自分が本当にこの生活を好きだったって分かった」
知らない場所へ行くこと。
初めて見るものに出会うこと。
そこで誰かと関わり、自分では想像もしなかった出来事に巻き込まれること。
「それに今は、こなたの友達がこの世界で何をしたのか、僕も知りたいと思ってる」
「……私の友達のことを?」
「うん。この幌馬車でまだ行ったことのない場所へ行って、見たことのない食材で、こなたに料理を教えてもらって食べるのも楽しいしね」
「そこ、重要なんですね」
「かなり」
即答だった。
こなたは思わず小さく笑ってしまう。
ジャレッドもわずかに口元を緩めた。
「きっかけは小さなお礼からだったけど、今は違う」
ジャレッドは穏やかな声音のまま続けた。
「僕は、自分でこの旅を選んでるんだよ」
その一言を聞いて、こなたは返す言葉を失った。
胸の奥にあった申し訳なさが、すべて消えたわけではない。
いずれ、この旅には終わりが来る。
ジャレッドには帰らなければならない場所があり、果たさなければならない責任もある。
それでも、今この瞬間まで誰かに強制されているわけではない。
限られた時間の使い道として、自分との旅を彼自身が選んでくれている。
そのことが、こなたにはどうしようもなく嬉しかった。
「……それなら」
「うん?」
「もう少しだけ、私と一緒に旅をしてくれませんか?」
ジャレッドは答えるまで、ほんの少しだけ間を置いた。
その顔に浮かんだのは、いつもの淡い微笑みだった。
「そのつもりだよ」
夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。
明日には王都へ着く。
そこに何が待っているのか、こなたはまだ知らない。
そしてジャレッドもまた、自分に残された自由を最後まで使うつもりでいるその王都で、家族がすでに別の答えを用意して待ち構えていることなど知る由もなかった。




