第36話 旅の途中
ウッドロードを発って、六日目。
クレバリス王国の王都までは、順調に進めばあと一日ほどの距離まで来ていた。
西へ傾いた陽が、街道とその両側に広がる草原を赤く染めている。王都へ近づくにつれて道幅も広がり、荷馬車を連ねる商隊や旅人、冒険者たちの姿も目に見えて増えていた。
街道脇には一定の間隔で旅人用の野営地が設けられており、今夜ジャレッドたちが立ち寄った場所にも、すでに十数台の馬車や荷車が停まっていた。
薪を組む者、馬へ水を飲ませる者、保存食を取り出す者。
それぞれが日没前の準備に追われる中、巨大な白狐が牽く一台の幌馬車が入ってきた途端、あちらこちらから期待を含んだ視線が集まった。
「おい、来たぞ」
「あれだ。噂の神獣様」
「ってことは、今日もやるのか?」
「頼む、やってくれ。俺はあの飯が楽しみで仕方なかったんだ」
次々と聞こえてくる声に、こなたは御者台の脇へ浮かんだまま苦笑した。
「……完全に待ち構えられてますね」
「そうみたいだね」
ジャレッドは気にした様子もなく、白雪から牽引用の具を外していく。
自由になった白雪は野営地の端までのそのそと歩くと、ふかふかの尾を身体へ巻きつけるように丸くなった。
ただし、金色の目だけは幌馬車から離れない。
「白雪も待ってるみたいですね」
「晩ご飯?」
「間違いなく」
こなたが断言すると、白雪の耳がぴくりと動いた。
ウッドロードを出てからの五日間、ジャレッドたちは夜営するたび、幌馬車を店へ変えて旅人たちへ料理を売っていた。
きっかけは一日目。
ジャレッドが自分と白雪の夕食を作っていたところ、その匂いに釣られた旅人から「金を払うから同じものを食べさせてくれ」と頼まれたのである。
試しに店を開けば、予想以上に売れた。
翌日には知り合いを連れてくる者が現れ、その次の日には「食の大精霊が街道で料理を振る舞っている」という妙な噂まで広がった。
今ではとうとう、彼らの移動に合わせて次の野営地まで付いてくる者までいる。
「精霊様! 本日は何を作られるので?」
弾んだ声に振り向けば、立派な箱馬車から恰幅のいい中年男性が降りてきた。
仕立てのよい外套に磨き込まれた革靴。腰回りの小物まで上等で、そこらの行商人とは明らかに身なりが違う。
ウッドロードを出て二日目の夜に料理を買って以来、毎晩のように同じ野営地へ現れる商人だった。
「まだ作ってませんよ」
「もちろん承知しておりますとも。本日も店を出されるのでしょう?」
「ええ、そのつもりですけど……」
答えながら、こなたは男の後ろへ目を向ける。
昨日もいた三人組の冒険者に、一昨日から顔を見る若夫婦。王都へ野菜を運ぶという若い行商人まで、こちらが止まった途端、当たり前のように近くへ場所を取っていた。
「……皆さん、本当にたまたま王都へ向かってるんですよね?」
「もちろんですとも。目的地が同じだけの、まったくの偶然です」
「昨日も同じこと聞きましたよ?」
「そうでしたかな?」
「その前の日もです」
「旅とは、不思議な縁が重なるものですなぁ」
「絶対に夕飯目当てですよね?」
問い詰めても商人は楽しそうに笑うだけで、近くの冒険者たちまで揃って目を逸らした。
「まあ、買ってくれるのはありがたいことなんですけどね」
こなたが諦めたところで、幌馬車の側面が大きく開いた。
店仕様へ姿を変え、調理器具や作業台が露わになると、初めて見る旅人たちから感嘆の声が漏れる。
「本当に馬車が店になるのか」
「さすが大精霊様の御車だ」
「いや、私は――」
反射的に訂正しかけ、こなたは途中で口を閉じた。
今さら「大精霊ではなく日本人の幽霊です」と説明したところで、信じてもらえる気もしない。
「こなた。今日は予定通り?」
「はい。シチューにしましょう。昼間のモーギュウのお肉もありますし」
「分かった」
昼過ぎ、街道近くへ現れた牛型の魔物――モーギュウ。
普通の牛より一回り大きく、太い角を持つ魔物だったが、ジャレッドの前では食材になるまで大した時間を要しなかった。
ジャレッドはその肉を大きめに切り分け、幌馬車から取り出した玉葱、人参、ジャガイモとともに炒めていく。
そこへ乳、生クリーム、出汁を加え、最後に小麦粉とバターを練ったブルーマニエでとろみをつけると、ほどなくして濃厚な香りが野営地へ広がった。
「……来た」
誰かが呟いた。
干し肉を炙っていた男は手を止め、硬いパンを齧ろうとしていた冒険者も口元まで運んだそれをそっと下ろす。
「あれが食の大精霊様の料理か……」
「昨日食ったけど、本当にすごいぞ」
「《銀帝》が料理してんのも何度見ても慣れねぇな」
「噂じゃ、大精霊様の従者になったらしいぞ」
「誰が従者ですか!」
思わずこなたの声が飛び、周囲が静まり返った。
「あっ……ええと、銀帝様とは、その……対等な旅の仲間ですので」
「おお……!」
「大精霊様と対等に旅をする《銀帝》……」
「やっぱり只者じゃねぇ」
「なんでそっちに話が大きくなるんですか!?」
訂正するたび、なぜか評判だけが立派になっていく。
ジャレッドはそんなこなたを横目にしながら、平然と鍋をかき混ぜていた。
「こなた、もういい?」
木匙に少量のシチューを掬っている。
「味見ですね。お願いします」
ジャレッドが一口含むと、眠たげだった青い瞳が少しだけ開いた。
「……あぁ、すごくいい」
「本当ですか?」
「肉も野菜も柔らかいし、乳の味に肉と野菜の旨味が出てる。濃厚なのに重くないし……これ、ずっと食べられる」
普段は必要なことしか話さないのに、料理の感想になると急に饒舌になる。
もう見慣れた光景だったが、こなたはつい頬を緩めた。
「それなら完成ですね」
「パンも合うと思う。出していい?」
「もちろんです」
今回添えるのは、少し前に幌馬車で新しく扱えるようになった白い食パンだった。
厚めに切った生地をジャレッドが指で押すと、ふわりと沈んですぐに戻る。
「パルのパンも美味しかったけど、幌馬車のパンも好きだな、僕」
「私の世界ではよく食べてました。シチューにつけると、もっと美味しいですよ」
その言葉を聞いた頃には、白雪もすでに店の前まで移動していた。
「ちゃんと白雪の分もありますからね」
「きゅうっ!」
ほどなくして、一人と一匹分の夕食が用意される。
深皿には大きく切られた肉や野菜がごろごろと沈み、その横には厚切りの食パン。白雪には、少し冷ましたものを別皿へ取り分けてある。
「いただきます」
ジャレッドが匙を入れ、白雪も同時に顔を皿へ近づけた。
「……!」
「きゅうぅぅ……!」
幸せそうな反応まで見事に重なる。
ジャレッドはさらに一匙食べたあと、今度は食パンをシチューへ浸した。
白い生地がとろりとしたスープを吸い、そのまま口へ運んだところで動きが止まる。
「どうです?」
「……これは駄目だね」
「え?」
「止まらなくなる」
「そっちですか」
すでに次の一切れを浸している。
白雪も皿へ顔を突っ込む勢いで食べ続け、その様子を周囲の旅人たちがじっと見つめていた。
あちらこちらから、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
こなたはそんな彼らを見回し、わざと少し間を置いた。
「それでは皆さん、お待たせしました! 具だくさんのホワイトシチューと食パンのセット、銀貨一枚です!」
宣言と同時に、人々が一斉に立ち上がった。
「三人前!」
「こっち二つ!」
「俺が先だぞ!」
「昨日から食ってる俺たちが先だろ!」
「常連だからって優先しませんよ! ちゃんと並んでください!」
この五日間で役割分担もすっかり形になっていた。
こなたが注文を取り、ジャレッドが料理を用意する。代金は客自身に箱へ入れてもらい、必要な時だけジャレッドが確認する。
その箱はいつの間にか「大精霊様への供物箱」と呼ばれるようになっていた。
「普通のお代ですからね!」
「精霊様、二人前!」
「はい、ただいま!」
料理を受け取った者から、次々に歓声が上がった。
「肉がでかい!」
「なのに柔らけぇ!」
「パンを浸して食ってみろ!」
「おお……これ反則だろ!」
初めて食べる者は驚き、常連になった者たちは得意げに今まで食べた料理まで語り始める。
ほとんどは、たまたま同じ街道を進んでいるだけの者たちだ。
明日には別々の道へ進み、二度と会わない者もいるかもしれない。
それでも一つの料理を囲むうちに、知らない者同士が笑い合い、旅の話を交わしている。
その光景を眺めるこなたの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
幌馬車で世界を旅して、そこで出会った人たちに料理を食べてもらう。
もう自分の手で包丁を握ることも、料理を差し出すこともできない。
それでも形を変えながら、自分の夢は今も旅を続けている。
「精霊様」
声をかけられ振り向くと、例の商人が空の皿を持って立っていた。
「おかわりですか?」
「ぜひお願いしたいところですが、その前に一つだけ。こうして毎晩楽しみにしていた料理も、そろそろ食べ納めかと思いましてな」
「食べ納め?」
「明日には王都へ着くでしょう?」
「ああ……そういうことですか。私たちは、しばらく王都にいるつもりですよ」
「ほう、それは朗報ですな」
「昔の友達の手掛かりを探したいので。図書館とかギルドとか、色々調べてみようと思ってます」
「では、王都でも商売を?」
「毎日は難しいですけど、時間があれば露店を出したいですね」
そう答えた瞬間、商人がジャレッドへ目を向けた。
ほんの一瞬。
視線が合うと、男はごく自然な仕草でわずかに頭を下げた。
商談相手へ向ける礼儀より、もう少し深い敬意がそこにはあった。
(……まただ)
こなたはジャレッドの横顔を見つめる。
《銀帝》だから。
S級冒険者だから。
そう考えれば説明できなくもない。
けれど、どうにもそれだけではない気がした。
「商売柄、私は各地に人の繋がりがあります。以前伺ったご友人の件も、何か耳に入りましたらお知らせしましょう」
「本当ですか?」
「黒い髪をした異国人らしき三人……でしたかな」
「はい! 要と、大河と、夕です。昔の記録でも噂でも、何か分かったら……」
「承知しました。私の方でも当たってみましょう」
「ありがとうございます!」
「では――」
商人は空の皿を差し出した。
「その代わりと言っては何ですが、おかわりを一杯」
「結局それが本命ですよね?」
「ぬはは、何のことでしょうな」
追加の銀貨を置き、商人は上機嫌で二杯目を受け取っていった。
やがて陽は完全に沈み、野営地も静けさを取り戻した。
焚火は一つ、また一つと小さくなり、白雪も幌馬車の近くで長い尾へ顔を埋めて眠っている。
こなたとジャレッドは、少し離れた草地に並んで夜空を眺めていた。
頭上には満天の星。
日本で見上げていた夜空よりも遥かに多くの光が、草原いっぱいに広がっている。
「明日には王都ですね」
「うん」
「何か見つかるといいなぁ」
「友達のこと?」
「はい」
三人が今も生きている可能性は、ほとんどない。
それでも、この世界で何をしたのか。
どこへ行き、どんな人生を過ごしたのか。
せめて、その足跡だけでも知りたい。
「王都には国営の大図書館があるよ」
「大図書館?」
「この国に残ってる記録ならかなり集まってる。昔の冒険者や有名人について書かれたものもあるはず」
「じゃあ、もし三人が何かしてたら……」
「記録が残ってる可能性はある」
こなたの顔が明るくなる。
「着いたら行ってみたいです!」
「分かった」
「ギルドにも聞いて、商人さんにも頼んで……もし王都で何も見つからなかったら、その次はどうしましょうか」
「手掛かり次第かな。何もなければ次の国へ行けばいい。大きな町を順番に回っていけば、どこかに何か残ってるかもしれない」
「……そっか」
こなたは微笑んだ。
王都で見つからなくても終わりではない。
次へ行けばいい。
ジャレッドは、それが当然の未来であるかのように話している。
けれど、その言葉を聞いているうちに、こなたの胸へ別の思いが浮かんできた。
先ほどの商人の仕草。
これまで出会った者たちが、時折ジャレッドへ向けていた妙な敬意。
大金を扱うことに慣れ、食事の所作も綺麗で、家名や責任という言葉を当たり前のように口にする。
戦いとは関係のないところにまで、幼い頃から身につけた教養や作法が染みついている。
本人も隠しているわけではない。
ただ、自分から語ろうともしなかった。
だから、こなたもこれまで深く踏み込まずにいた。
「ジャレッドさん」
「なに?」
「前から、ちょっと気になってたんですけど」
言葉を選ぶこなたへ、ジャレッドが顔を向ける。
「ジャレッドさんって……かなりいいところの人ですよね?」
「いいところ?」
「家です。家柄とか、そういう意味で」
「ああ」
あっさりとした反応だった。
そこで少し迷ったものの、こなたは続けた。
「今日の商人さんも、ジャレッドさんを見る時だけ態度が違いました」
ジャレッドは何も答えなかった。
誤魔化すことも、話題を変えることもせず、ただ静かに夜空へ目を戻す。
その横顔を見ながら、こなたの胸に、先ほどから引っかかっていたものが少しずつ形を持ち始めた。
ジャレッドが冒険者でいられる時間には期限があり、その期限が来れば引退し、家へ戻る約束をしている。
それは、水晶宮で出会った頃から本人の口で聞いていた。
なのに――。
『もし王都で何もなければ、次の国へ行けばいい』
ジャレッドは先ほど、何でもないことのようにそう言った。
次の国へ。
そこでも見つからなければ、さらにその先へ。
まるで、これからもこなたと一緒に旅を続けることが決まっているかのように。
それは嬉しい。
嬉しいはずなのに、素直に喜んでしまっていいのか分からなかった。
期限が来れば家へ戻らなければならない人が、なぜその先の旅まで当然のように考えているのだろう。
それに今日の商人が見せた態度や、これまで何度となく感じてきたジャレッドの育ちの良さを思えば、その「家へ戻る」という約束も、こなたが想像していたほど簡単なものではないのかもしれない。
「……ジャレッドさん」
「うん?」
「前に言ってましたよね」
こなたは、今度こそ彼から目を逸らさなかった。
「冒険者でいられるのには期限があって、それが来たら引退して、家に戻る約束をしてるって」
「うん。言ったね」
「その期限って……もう近いんですよね?」
「近いよ」
やはり、そうなのだ。
それなのにジャレッドは、王都の先にある旅を語った。
こなたと同じように、その続きを思い描いてくれていた。
胸の奥が温かくなる一方で、それ以上に申し訳なさが込み上げてくる。
自分の未練に、この人の約束まで巻き込んでしまっているのではないか。
こなたはしばらく迷った末、静かに問いかけた。
「だったら――」
草原を渡る夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「本当に、私と世界を旅していいんですか?」




