第35話 最後の自由
クレバリス王国、王都。
大陸中央部でも有数の規模を誇る都の中心に、白亜の王城がそびえている。
歴代の王が政を執ってきた城内では、今日も官吏や侍従、騎士たちが忙しく行き交い、各地から届いた報告や命令が休みなく運ばれていた。
その長い回廊を、一人の女性が足早に進んでいる。
四十代半ばほど。黒髪にはところどころ銀糸が混じっているものの、立ち姿に老いは感じられない。
寸分の乱れもなく仕立てられた黒の執事服。細身の体格と切れ長の目元も相まって、遠目には端正な男性にも見えた。
王家に長く仕える筆頭侍従、クォリアである。
普段より歩調は速いが、足音も身のこなしも乱れない。
やがて東棟の奥へ辿り着くと、重厚な扉の前で足を止め、三度叩いた。
「入りなさい」
「失礼いたします」
扉の向こうには、王国中の仕事を一室へ押し込んだような光景が広がっていた。
机には決裁待ちの書類が積み上がり、棚にも報告書や陳情書が隙間なく詰め込まれている。
その中心で、一人の女性が猛烈な勢いで仕事を片づけていた。
二十代後半。
灰銀色の長い髪を後ろで束ね、細い銀縁眼鏡を掛けている。
クレバリス王国宰相にして王家の長女――アイビス・クレバリス。
「何の用?」
紙面から顔を上げることなく尋ねる。
「お仕事中、申し訳ございません。お耳へ入れていただきたい報告がございます」
「ねぇ、クォリア。今日だけで何回その台詞を聞いたと思う?」
アイビスは署名を終えた書類を脇へ送った。
「北では川の氾濫で橋が落ちて、南では馬鹿な貴族同士が領地境界で揉め事を起こし、業突張りの商会どもは税率を下げろとうるさい。今度は何?」
「今回は――ジャーレ様についてです」
ペン先が止まった。
アイビスがゆっくり顔を上げる。
「……あの子、また何かやったの?」
「実際の報告をお聞きいただいた上でご判断を」
「その返しをされる時点で嫌な予感しかしないんだけど」
深い溜息を吐き、背凭れへ身体を預ける。
「護衛を担当している者を控えさせておりますが……」
「いいわ、呼んで」
クォリアが指を鳴らすと、足元の影が水面のように揺らいだ。
そこから黒装束の男が音もなく姿を現し、床へ片膝をつく。
「宰相閣下にご報告申し上げます」
「形式はいいわ。順番に話して」
「はっ。ジャーレ様――現在、冒険者ジャレッドを名乗られている殿下ですが、《水晶宮》最奥部への依頼を無事達成されました」
「あの子なら余裕でしょうね。それで?」
「最奥部にて、魔法の幌馬車と、一体のレイスを発見されています」
「魔法の幌馬車とレイス?」
「外見は十代後半ほどの少女。自我を完全に保っており、生者への敵意も確認されておりません。ジャーレ様は危険性が低いと判断され、現在も行動を共にしています」
続いて男は、《水晶宮》を出てからの出来事を報告した。
魔法の幌馬車から、神獣と思しき巨大な白き獣の出現。
ウッドロードへ入る際、レイスの少女を「食を司る大精霊」と称したこと。
「……どうしてそうなったのよ」
「レイスの存在を怪しまれぬための方便かと」
「もう少し他にやり方があるでしょう」
さらに、借金取りに追い詰められたパン屋へ関わり、金貨五十枚で債権を買い取り、競合店との売上勝負にまで参加したことを聞くと、アイビスは額へ手を当てた。
「つまり、迷宮で拾ったレイスと神獣を連れて町へ入って、今度は借金まみれのパン屋を助けてるの?」
「概ね、その認識で間違いございません」
「何をしてるのよ、あの子は……」
長い息を吐く。
「昔からそうなのよね。一度首を突っ込んだら最後まで面倒を見るとか言い出して」
「お優しい方ですから」
「王になる人間が、道端の困り事を片っ端から拾ってどうするのよ」
呆れてはいるものの、本気で怒っているわけではなかった。
「まあ、それくらいならいいわ。王都へ戻ってから説教すれば済むもの」
「……恐れながら、まだ続きがございます」
アイビスの表情が固まる。
「その言い方、本当に嫌い」
「申し訳ございません」
男は慎重に続けた。
「今回の護衛は、私を含め三名で行っております。そのうち一名は、影を媒介にして対象の近くへ潜伏する術を得意としております。そのため、ジャーレ様とレイスの会話を何度か聞き取る機会がございました」
「ジャーレに気づかれず?」
「こちらの存在そのものを警戒されている可能性はございます。ただ、少なくとも潜伏位置を特定された形跡はありません」
アイビスはクォリアへ視線を向ける。
「あの子にそこまで悟らせないって、あなたのところの人間も大概ね」
「私の秘蔵っ子たちですので」
クォリアは涼やかに微笑んだ。
「誇らしそうに言わないで」
男は報告を続ける。
「ジャーレ様は、そのレイスの願いを叶えるため、王都で今回の依頼を報告した後、再び旅へ出るおつもりのようです」
「…………」
「レイスには、生前この世界へ共に渡った三人の仲間がいるとのこと。ただし本人は、長い年月を迷宮で過ごしているため、今も生きているとは考えておりません」
「じゃあ、何を探すの?」
「三人がこの世界に残した足跡を」
アイビスの表情から、それまでの呆れが消えた。
「それにジャーレが付き合うと?」
「はい。情報を求めるなら、世界を巡る可能性もある、と」
室内に沈黙が落ちる。
しばらくして、アイビスが低い声で確認した。
「あの子は《水晶宮》の依頼を終えたから、一度王都へ戻るのよね?」
「はい。冒険者ギルドへ完了報告をする予定です」
「その後で、また出ていく?」
「ご本人は、そのおつもりかと」
次の瞬間、アイビスが勢いよく立ち上がった。
「ふざけないでよ!」
積まれていた書類が揺れる。
「父上が亡くなった時、本来ならあの子はすぐ王位を継ぐはずだったのよ!」
クレバリス王国は男系継承を国法としている。
数年前、先王が病により崩御した時、王位を継ぐ資格を持つ男子は一人しかいなかった。
末子にして唯一の王子。
ジャーレ・クレバリス。
現在、《銀帝》ジャレッドとして知られるS級冒険者その人である。
ジャーレには上に三人の姉がおり、いずれもずば抜けて優秀だった。
長女アイビスは国政の一切を取り仕切る宰相。
次女ユーステルは圧倒的な武で王国騎士団を統べる将軍。
三女メイガスは、若くして魔法の深淵を極めたと称される筆頭宮廷魔術師。
だが、彼女たちに王位継承権はない。
父王の死後、本来ならジャーレが即位するはずだった。
しかし、彼は王になる前に一つだけ願った。
『一度だけ、自分の望むように生きてみたい』
幼い頃から憧れていた冒険者となり、王子でも次期国王でもない一人の人間として世界を歩いてみたい。
家族は何度も話し合い、最後には期限付きで認めた。
五年間だけ。
その期間が終われば王都へ戻り、正式に王位を継ぐ。
それまで母が国王代理を務める。
それが家族とジャーレの約束だった。
「母上が何年も国王代理なんて重責を背負ってるのも、私たちがあの子を好きにさせてきたのも、期限が決まってたからでしょう!」
「現時点では、まだ世界中を巡ると決まったわけでは――」
「一国だけでもどれだけ時間がかかると思ってるの!」
アイビスは机を叩いた。
「もう即位に向けた準備は始まってるのよ! 貴族への通達、各国への使者、来賓の調整、儀典、警備……本人だけが『もう少し旅してきます』で済む段階じゃないでしょう!」
怒りはまだ収まらない。
「母上も、ユーステルも、メイガスも待ってる。私だってそう!」
書類の山を指差す。
「父上が亡くなってから何年、この椅子に座ってると思ってるのよ!」
「アイビス様」
「何!」
「宰相である以上、ジャーレ様が即位されても仕事量は劇的には変わらないかと」
「今よりは減るわよ!」
「それは否定いたしません」
「それに私だって、もう二十代後半なのよ!」
黒装束の男がそっと顔を伏せる。
「縁談が来ても会う暇すらない! 私の婚期がどれだけ後ろへずれたと思ってるのよ、あの馬鹿弟は!」
「直接お伝えしてはいかがでしょう」
「どうせ真顔で『ごめん』って言うだけよ!」
「おそらく」
「それが余計に腹立つの!」
しばらくして、ようやくアイビスは椅子へ座り直した。
眼鏡の位置を整える頃には、表情にも宰相としての冷静さが戻っている。
「……でも、一つだけ都合がいいことがあるわね」
「と、おっしゃいますと?」
「ジャーレは王都へ帰ってくるんでしょう?」
「はい」
アイビスの口元が、ゆっくり持ち上がった。
「だったら、迎えに行く必要なんてないじゃない」
クォリアの目に警戒が浮かぶ。
「……何をお考えで?」
「自分から帰ってくるんだもの」
アイビスは机へ肘をつき、指を組んだ。
「王都へ入ったら、そのまま城へ連れてきて。今度こそ外には出さない」
クォリアでさえ、すぐには返事をしなかった。
「ジャーレ様は、一人で軍勢に匹敵するお方です。城門を閉ざした程度では止められませんが?」
「知ってるわ」
「騎士団をどれだけ配置しても意味はないかと」
「だから騎士団なんて使わないわ」
アイビスは平然と答える。
「ユーステルへ、ここに来るよう連絡して」
「……将軍閣下を?」
「軍はいらない。本人だけで十分でしょう」
「確かに十分ではございますが……」
「念のためメイガスにも話を通して」
クォリアの眉間に皺が寄った。
「それは些か過剰では?」
「あの子相手に半端な包囲なんて意味がないもの。やるなら徹底的にやるわ」
クォリアはしばらく黙ったあと、困ったように告げた。
「お二人とジャーレ様が本気でやり合えば、戦争になりますよ」
「家族会議よ」
「周囲から見れば戦争です」
「責任は私が取るわ」
「宰相としてでしょうか?」
「姉としてもよ」
その声だけは静かだった。
「私だって、あの子から自由を奪いたいわけじゃない。冒険者になりたいって言った時も、本当は行かせたくなかった。でも、あれが初めての本気の我儘だったから認めたの」
アイビスはペンを手に取り、止まっていた仕事を再開する。
「あの子には、十分な自由を与えたわ」
一枚の書類へ署名する。
「でも、これ以上の我儘は許しません。今度はあの子が約束を守る番」
次の紙面へ視線を移した。
「ユーステルとメイガスには私からも話す。あなたはジャーレが王都へ入る日時を正確に掴んで」
「かしこまりました」
「それまでは何もしなくていい。警戒されて予定を変えられたら面倒だから」
「では、これまで通り護衛を継続いたします」
クォリアが退出しようとしたところで、アイビスが呼び止めた。
「ああ、それから」
「はい」
「そのレイスも、一緒に王都へ来るのよね?」
「その可能性が高いかと」
少し考えた後、アイビスは告げた。
「その子には手を出さないで」
「よろしいので?」
「ジャーレが自分で決めて一緒にいる相手なんでしょう? なら、私たちの都合に巻き込む理由はないわ」
「承知いたしました」
「ただし、ジャーレを連れて逃げようとするなら話は別」
「その場合は?」
「ユーステルとメイガスに任せる」
「……やはり戦争になりそうですね」
「だから家族会議だって言ってるでしょう」
クォリアは苦笑し、今度こそ部屋を後にした。
黒装束の男も影へ溶けるように姿を消す。
静けさの戻った執務室で、アイビスは積み上がった書類を見つめた。
父が亡くなってから、クレバリスの王座は空いたままだ。
母は国王代理として国を支え、自分たち姉妹もそれぞれの場所で、弟が戻る日を待ってきた。
「……まったく」
新しい書類を引き寄せ、小さく息を吐く。
「手の掛かる弟なんだから」
一瞬だけ、その口元に姉らしい笑みが浮かんだ。
しかし、すぐに消える。
「逃がさないわよ、ジャーレ」
再びペン先が紙面を走る。
五年間だけ許された最後の自由が、終わりへ近づいている。
そのことを、当の本人だけがまだ知らない。
「絶対に、あなたをクレバリスの王座に座らせるわ」




