第33話 足りなかったもの
「……ヴィオレッタさん」
パルが名を呼ぶと、店先を埋めていた賑わいが、ほんの少しだけ遠ざかったように感じられた。
ウッドベーカリーの前に立つヴィオレッタは、普段と変わらない装いをしている。
艶やかに整えた髪も、仕立てのいい服も、隙なく施された化粧もいつも通り。
けれど、その顔に浮かんでいるものだけは、こなたが以前見た余裕に満ちた笑みとは違っていた。
ヴィオレッタは何も言わない。
店先にできた長い列と、次々と商品を受け取っていく客たちを一度見渡したあと、静かに三人へ視線を戻した。
沈黙が続く。
パルの肩へ自然と力が入った。
こなたも、彼女の傍らで僅かに身構える。
ジャレッドだけはいつもの眠たげな顔を崩していなかったが、揚げ網を動かしながらも、意識の一部をヴィオレッタへ向けているらしい。
何か言われる。
嫌味か。
それとも、勝負はまだ終わっていないと強がるのか。
こなたがそんなことを考えていると、ヴィオレッタは意を決したように小さく息を吸った。
「……一つ、いただけるかしら」
「え?」
パルが思わず聞き返す。
「その、よく売れている方」
ヴィオレッタが指したのは、コロッケパンだった。
こなたは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐにいつもの調子へ切り替えた。
「はい! お買い上げありがとうございます!」
明るい声を張り上げ、そのまま後ろへ振り返る。
「パルさん、コロッケパン一つです!」
「は、はい!」
「ジャレッドさん、コロッケ一個お願いします!」
「分かった」
慌ただしい調理場の流れへ、一件の注文として自然に組み込まれていく。
ジャレッドが揚げたてのコロッケを油から引き上げ、十分に油を切ってからパルへ渡す。
パルは改良を重ねた柔らかなパンへ切れ目を入れ、熱々のコロッケを挟むと、茶褐色のソースをかけて紙へ包んだ。
「お待たせしました」
差し出された商品を、ヴィオレッタが受け取る。
「半銀貨一枚です」
その値段を聞いた瞬間、ヴィオレッタの眉が僅かに動いた。
「半銀貨……白パンの二倍以上。随分と強気な値段ね」
やはりそこを見るのか、とこなたは妙なところで感心した。
ヴィオレッタは、手に取った瞬間から値段と商品の釣り合いを測っている。
パルは一瞬不安そうにしたものの、逃げずに答えた。
「材料も増えますし、注文を受けてから仕上げる手間もありますから。何度か計算して、この値段にしました」
「あなたが?」
「ジャレッドさんたちにも相談しましたけど、最後に決めたのは私です」
「……そう」
ヴィオレッタは半銀貨を渡すと、紙に包まれたコロッケパンへ目を落とした。
すぐには口へ運ばない。
横から眺め、角度を変え、パンの切れ目から覗く中身まで確かめていく。
柔らかな白パン。
そこへ挟まれた、見慣れない黄金色の料理。
さらに、その表面へかけられた褐色のソース。
「パンの中に、料理そのものを挟んだのね……」
小さな独り言だった。
ヴィオレッタはしばらく観察を続けたあと、ようやく口元へ運ぶ。
そして、一口。
さくり。
揚げたての衣が、軽やかな音を立てて崩れた。
「――!」
その瞬間、ヴィオレッタの瞳が大きく見開かれる。
最初に触れたのは、ふわりと柔らかなパンだった。
押し返すような硬さではなく、歯を入れればコロッケと一緒に素直に沈み込んでいく。
続いて衣が砕け、その内側から熱を含んだトテポの柔らかな食感が広がった。
素朴な甘みの中へ挽肉の旨味が混ざり、細かく刻まれた香味野菜が味へ奥行きを加える。
さらに、果実酢を使ったソースの酸味と甘み、香辛料の複雑な刺激が揚げ物の重さを引き締め、口の中で一つの味へまとまっていった。
パンだけでもない。
コロッケだけでもない。
組み合わせることで、初めて完成する一つの商品だった。
「…………」
ヴィオレッタは言葉を発さなかった。
二口目を食べる。
三口目。
さっきまで値段を測るように商品を眺めていた目が、今はただ味そのものを確かめるように細められている。
食べ進める速度は決して速くない。
けれど、途中で手が止まることもなかった。
やがて残りが最後の一口だけになる。
ヴィオレッタはそれを見つめ、ほんの僅かに名残惜しそうな表情を浮かべたあと、ゆっくりと口へ運んだ。
飲み込んでからも、すぐには目を開かなかった。
周囲の客たちまで、いつしか彼女の様子を窺っている。
パルは胸の前で両手を握り、こなたも知らず知らずのうちに息を詰めていた。
しばらくして、ヴィオレッタが目を開く。
「……高くないわね」
「え?」
「この手間と材料、それにこの味なら半銀貨は妥当よ。それどころか、この値段で二つ目を買う客がこれだけいるなら、商品として十分成立してる」
その言葉には、悔しさが混じっていた。
だが、無理に難癖をつける気配はない。
ヴィオレッタは店先へ視線を巡らせた。
コロッケパンを食べる子供。
カツパンへ齧りつく冒険者。
嬉しそうに感想を言い合う町の人々。
その声を聞きつけ、別の商品へ手を伸ばす客までいる。
自分の店の午前売上と、目の前の行列、それに半銀貨という単価を頭の中で並べれば、夕方まで続けたところで覆せる差ではないことくらい分かる。
しばらくその光景を眺めたあと、ヴィオレッタは静かに目を伏せた。
「……夕方まで続ける必要はないわね」
小さく息を吐く。
「降参するわ。私の負けよ」
一瞬、誰も反応できなかった。
次の瞬間。
「おおおおっ!」
周囲から大きな歓声が上がった。
「ウッドベーカリーの勝ちだ!」
「やったな、パルちゃん!」
「大精霊様すげえ!」
「だから最初からこっちに賭けときゃよかったんだ!」
「賭けてたの!?」
こなたが思わず叫ぶ。
だが、そんなやり取りを聞いても、ヴィオレッタは振り返らなかった。
「約束の金貨五十枚は、後日きちんと持ってくるわ」
「あ……はい」
「逃げたりしないから安心なさい」
「そ、そんなこと思ってません!」
慌てて否定するパルへ、ヴィオレッタは僅かに口元を緩めた。
「そう」
それだけ言い残し、踵を返そうとする。
その背中は、勝負を持ちかけた時よりずっと小さく見えた。
「待ってください!」
パルの声が飛ぶ。
背を向けかけていたヴィオレッタが足を止め、ゆっくりと振り返った。
「……何?」
「あの……これからも、負けませんから」
「え?」
思いがけない言葉だったのか、ヴィオレッタの目が僅かに見開かれる。
パルは一度だけ唇を引き結ぶと、緊張を押し込めるように胸の前で手を握った。
「わたし、もっとお客様に満足してもらえるような美味しいパンを作ります。だから……その……これからも、ヴィオレッタさんと競っていきたいです」
ヴィオレッタはしばらく何も答えなかった。
やがて、その顔に浮かんだのは喜びでも苛立ちでもなく、少し困ったような笑みだった。
「そうね。でも、次にあなたと競う時は、今日までと同じやり方じゃないわ」
「どういうことですか?」
「今日の結果を見て、それでも同じやり方を続けるほど、私は馬鹿じゃないもの」
ヴィオレッタは中央通りの先へ目を向けた。
その向こうには、つい先ほどまで勝利を疑わずにいた自分の店がある。
「私は、自分が客のことを分かっているつもりだった」
その声には、もう先ほどまでの棘はなかった。
「パンがおいしいだけじゃ足りない。また来たいと思わせるところまで含めて商売だって、そう考えて接客に力を入れてきたわ」
「……それは、間違ってないと思います」
「ええ。私も、そこは今でも間違っていたとは思ってない」
ヴィオレッタは手元に残ったコロッケパンの包み紙へ目を落とした。
「ただ……いつからか、パンのことを以前ほど考えなくなっていた」
「…………」
「そこそこのものを並べておけばいい。あとは、他にはない接客をすれば客は来る。実際、それで売れていたから、疑いもしなかった」
ヴィオレッタは自嘲するように笑い、空になった包み紙を指先で軽く撫でる。
「今日これを食べて、思い知らされたわ。私、パン屋なのにパンを見るのをやめてたのね」
言い訳をするでもなく、これまで積み上げてきたものを否定するでもない。
ただ、自分が見落としていたものを認める。
しばらく伏せられていたヴィオレッタの瞳が、再びパルへ向けられた。
そこにあったのは、敗北に沈む弱々しさではなかった。
むしろ、勝負を持ちかけた時以上に鋭い光が戻っている。
「商品も、店も、一から見直すわ」
「ヴィオレッタさん……」
「勘違いしないで。負けたくらいで諦めるほど、私は物分かりのいい女じゃないわ」
ヴィオレッタは髪を払うと、いつものように胸を張った。
「今回の負けは高くついたけれど、授業料だと思えば安いものよ。次は同じ負け方なんてしない」
その口元に、勝ち気な笑みが戻る。
「覚悟しておきなさい、パル。次は負けないわ」
先ほどまで圧倒されていたパルだったが、その言葉を聞いて、やがて小さく笑った。
「……はい」
そして、今度ははっきりと顔を上げる。
「私も負けません!」
「ふふ、そのくらい言えなくちゃ困るわね」
ヴィオレッタは満足そうに笑うと、今度こそ踵を返した。
「次に会う時まで、その店を潰さないことね」
「ヴィオレッタさんこそ!」
思わず言い返してから、パル自身が驚いたように口を押さえる。
ヴィオレッタも僅かに目を丸くした。
だが、すぐに愉快そうな笑みを浮かべると、ヴィオレッタは今度こそ人混みの向こうへ歩いていった。
その背中を、パルはしばらく見送っていた。
「……行っちゃいましたね」
隣へ浮かんできたこなたが声をかける。
「はい」
「何だか、負けた人には見えませんでしたけど」
「私もそう思います」
パルは苦笑する。
「むしろ、前より怖くなった気がします……」
「次は、接客だけじゃなくて、ものすごいパン作ってきそうですよね」
「や、やめてください! せっかく勝ったばかりなのに!」
青ざめるパルを見て、こなたが楽しそうに笑った。
その横では、先ほどから会話へほとんど加わらず、揚げ物を作り続けていたジャレッドが、新しいコロッケを油から引き上げていた。
「でも、よかったね」
「え?」
「ヴィオレッタから金貨五十枚を受け取れば、僕への借金も全部返せる」
「…………」
パルが固まった。
こなたも一瞬きょとんとしたあと、何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。
「そうでした!」
「忘れてたの?」
ジャレッドが不思議そうに首を傾げる。
「わ、忘れてたわけじゃありません! 勝負のことで頭がいっぱいだっただけで……!」
「それを忘れてたって言うんじゃないですか?」
「精霊様まで!」
パルが抗議の声を上げる。
しかし、その勢いは長く続かなかった。
ふと、店の方へ視線を向ける。
年季の入った看板。
何度も磨かれてきたカウンター。
父親が使っていた大きな石窯。
古びていて、決して立派とは言えない。
それでも、生まれた時からずっとそこにあった景色だった。
「……そっか」
パルの口から、小さな声が零れた。
「私……借金、全部返せるんですね」
父が残した金貨五十枚の借金。
ジャレッドは返済期限も定めず、店を取り上げるつもりもないと言ってくれた。
それでも、借りたものを返せていないという事実はずっと胸に残っていた。
それが、ようやくなくなる。
「ヴィオレッタから五十枚受け取ったら、そのまま僕に返してくれればいい。それで貸し借りは終わり」
「本当に……それだけでいいんですか?」
「最初から金貨五十枚しか貸してないよ」
「そうですけど……」
この一週間、店を立て直すために散々力を貸してもらったというのに、ジャレッドは最初に引き受けた金額以上を求めようとはしなかった。
「ありがとうございます」
パルは深く頭を下げた。
「ジャレッドさんも、精霊様も。本当に……ありがとうございました」
「私はほとんど口しか動かしてないですけどね」
苦笑するこなたに、パルは首を横に振る。
「その言葉が一番大事だったんですよ」
「そうですかね?」
「そうです!」
「精霊様がコロッケパンやカツパンを教えてくれなかったら、こんなふうにはなってませんから」
その言葉を聞き、こなたは照れくさそうに頬を掻こうとして、半透明の指が頬をすり抜ける。
「でも、作ったのはパルさんとジャレッドさんですからね」
「僕は揚げただけ」
「ジャレッドさんは揚げすぎです」
「たくさん売れたから仕方ないよ」
「味見も含めて言ってるんです!」
二人のやり取りにパルが思わず笑い声を上げる。
店先では今も客が途切れていない。
「パルちゃん、コロッケパンもう一個!」
「俺、カツパン追加!」
「こっち三つ頼む!」
次々と注文が飛んでくる。
「あっ!」
パルが慌てて振り返る。
「すみません、すぐ作ります!」
駆け戻ろうとして、ふと足を止めると、もう一度店の方へ視線を向けた。
「……父さん」
小さく呟く。
父親が残した店。
ずっと、それを守らなければならないと思っていた。
父が焼いていたパンを残して、父が築いたものを壊さないような店でいなければならないと。
けれど、父はもういない。
これからパンを焼くのは自分だ。
何を売るか決めるのも、どんな店にしていくのか考えるのも、自分なのだ。
父が作った店を守るだけではなく、その続きを自分の手で作っていく。
「パルさん?」
こなたに呼ばれ、パルは振り返った。
「どうしました?」
「いえ……」
少し考えてから、笑う。
「これから、もっといい店にしたいなって思って」
「パルさんなら、大丈夫ですよ。私が保証します!」
「僕も、保証する」
こなたとジャレッドの言葉に、パルは一瞬だけ目を瞬かせた。
店先には、新しく作ったコロッケパンやカツパンを求める客が並んでいる。
父の頃にはなかった商品。
これから自分が作っていく、新しいウッドベーカリーに想いを馳せ、弾けるような笑顔でパルは胸を張った。
「はい! わたし頑張ります!」
こなたの顔に、嬉しそうな笑みが広がる。
「じゃあ店主さん」
隣から、ジャレッドが声をかけた。
「コロッケパン一個味見していい?」
「ええっ!? また味見するんですか!」
「味が落ちてないか確認しないと」
「ジャレッドさん、何個味見したと思ってるんですか!」
「数えてない」
「太りますよ!」
「大丈夫、僕色んな耐性持ちだから……」
「太らない耐性持ちってなんですか!?」
銀帝と精霊のやり取りに、店先は再び笑い声に包まれた。
父から受け継いだ古いパン屋に、今日からまた新しい日々が積み重なっていく。
その始まりを祝うように、ウッドベーカリーの前にできた長い列は、いつまでも途切れなかった。




