第31話 ヴィオレッタの誤算
――負ける要素がない。
開店前の店内を見回しながら、私は改めてそう結論づけた。
一週間前、《銀帝》ジャレッドと食の大精霊を名乗る少女との間で交わされた、一日限りの売上勝負。
正確には、こちらから仕掛けた勝負ではあるけれど、後悔など微塵もしていない。
この一週間、ウッドベーカリーで何か新しい商品を試作しているらしいという噂は何度か耳に入ってきた。
夜遅くまで明かりが灯っていたとか、見慣れない匂いが漂っていたとか、食の大精霊が厨房へ出入りしているとか。
ただ、それだけだ。
食を司る大精霊がどれほど優れた料理を生み出そうと、一週間で商売まで身につくわけではない。
美味しいものを作ることと、それを売ることは別だ。
商売とは、奇抜な商品を一つ用意すれば勝てるほど単純なものではないのだから。
「さて」
私は店員たちの前へ立ち、軽く手を叩いた。
開店まで、まだ少し時間がある。
今日出勤している娘たちは八人。いつもより二人増やしてあり、いずれも接客に慣れた精鋭よ。
「今日は例の勝負の日よ。普段通りやれば問題ないけれど、念のため少しだけ気合いを入れてもらいます」
「はい!」
揃った返事に満足しながら、私は傍らに置いてあった大きな箱を開けた。
中に入っているのは、この日のために用意した特別仕様の制服だ。
「これに着替えてちょうだい」
娘たちの顔が一斉に固まった。
数秒の沈黙を挟み、最初に口を開いたのは古株の一人だった。
「……店長」
「何かしら?」
「これ、いつもの制服より布が減ってません?」
「少しだけね」
「少し……?」
白いブラウスは普段のものより胸元が大きく開き、スカートも明らかに丈が短い。
小さな前掛けと揃いの髪飾りを合わせれば、華やかさという意味では申し分ない仕上がりだ。
もっとも、働く本人たちからすれば別の感想もあるらしい。
「これで店先に出るんですか?」
「今日一日だけよ」
「いや、その一日が長いというか……」
「特別手当をつけます」
空気が変わった。
「いつもの倍で」
「着替えてきます!」
「私も!」
「早いわね」
つい先ほどまで難色を示していた娘たちが、制服を抱えて奥へ消えていく。
現金なものだけれど、それでいい。
相応の働きを求めるなら、相応の報酬を払う。
私は人をただ働きさせる趣味などない。
それに、今日のために用意したのは制服だけではなかった。
売れ筋の白パンと丸パンは普段の一・五倍。保存パンも多めに焼かせ、朝から切らさないよう仕込みを増やしてある。
昼前には追加分を焼き上げ、夕方まで棚を空にしない。
常連が来れば名前を呼び、依頼へ向かう冒険者には景気よく送り出し、戻ってきた者には労いの言葉を忘れない。
それが、この店の強みだ。
客が欲しいものは、パンだけではない。
自分を覚えていてくれる場所、話を聞いてくれる相手、今日も頑張ろうと思わせてくれる一言。
そんな形のないものにだって、人は金を払う。
私は、そのことを知っている。
そう思った瞬間、胸の奥に古い記憶が浮かび上がった。
私の母は、腕のいいパン職人だった。
少なくとも、子供の頃の私には世界一の職人に見えていた。
焼きたてのパンを前にした母はいつも楽しそうで、同じ小麦と水を使っているはずなのに、その手にかかれば驚くほど美味しいものが出来上がった。
けれど父が価値を見いだしたのは、母のパン職人としての腕ではなく、その美しい容姿だけだった。
私の父は、王都でも五本の指に入る大商家の当主である。
金と品物を動かし、いくつもの商会を傘下へ置き、王侯貴族とも商談の席を持つ男。
そして母は、そんな男の妾だった。
当然、その娘である私も本妻の子供たちとは扱いが違った。
衣食住に困ったことはない。
教育も受けさせてもらったし、金銭的な援助もあった。
それでも、本邸へ呼ばれるたびに思い知らされた。
私は家族ではない。
父にとっては、養っておく程度の価値しかない娘。
本妻の兄や姉たちからすれば、目障りな妾腹。
『パン職人の娘が、商売の話を聞いてどうするの?』
『お前の母親みたいに、小麦粉でもこねていれば?』
何度そんな言葉を聞いたか、もう覚えていない。
言い返しても意味はなかった。
何を言っても、私には実績がなかったから。
父に直接助けを求めたこともある。
けれど、返ってきたのは冷たい言葉だった。
『私はお前などに、興味はない』
父が目を向けるのは、利益を生み出す者か、自分の興味を惹く者だけだった。
だから決めた。
いつか、あの人が無視できないほど稼いでやる。
兄や姉たちが、妾腹だと笑えなくなるだけの店を作ってやる。
最初の一歩として選んだのが、このウッドロードだった。
王都ほど競争は激しくなく、それでいて冒険者と商人が絶えず行き交う。
最初に町へ来た時、私は何日も通りを眺めた。
誰が歩き、何時に店が混み、どんな人間が金を落とすのか。
そして気づいた。
この町には若い男性冒険者が多い。
命懸けの依頼へ向かう彼らが求めているのは、腹を満たすだけの食事ではない。
笑って送り出してくれる誰か。
無事に戻ったことを喜んでくれる誰か。
自分の武勇伝へ驚いてくれる誰か。
だったら、それを売ればいい。
母の仕事を見て育ったおかげで、パンについての知識はあった。だから最初の商売として、パン屋を選んだ。
母の腕がどれほど優れていても、それだけでは父に価値を認めさせることはできなかった。
だから私は、味だけで勝負するつもりはなかった。
パンがおいしいことなど、商売を始めるなら最低条件にすぎない。そこから先に、客がこの店を選ぶ理由を作らなければならない。
私はそうして、この店を繁盛させた。
ウッドベーカリーから客が流れてきたのも、その結果にすぎない。
あの店の父親は、腕のいい職人だった。
そこは認めている。
でも、客が何を求めているのかを見ることができなかった。
私は違う。
そうでなければならない。
今日も勝つ。
明日も勝つ。
その積み重ねの先で、いつか父に私の名前を言わせてみせる。
妾の娘ではなく、ヴィオレッタという一人の人間として。
「店長、着替えました!」
声に意識を引き戻される。
振り向けば、着替えを終えた娘たちが並んでいた。
「どうですか?」
「悪くないわ」
「視線がすごそうですけど……」
「ふふ、そのための制服よ」
「ですよねぇ」
私は口元を緩め、全員を見渡した。
「今日は忙しくなるわ。いつも以上に客の顔を見て、名前を呼んで、話を聞くこと。勝負だからといって余計なことをする必要はありません。私たちは、今まで通りのやり方で売ればいいの」
「はい!」
「相手が何を出してくるかは分からない。でも、一週間で作った商品一つに、私たちが積み重ねてきたものを崩せると思う?」
「思いません!」
威勢のいい返事が返る。
それで十分よ。
「それじゃあ、開けるわよ」
店の扉へ手をかける。
外には、いつものように客が待っているはずだった。
朝一番で保存パンを買って水晶宮へ向かう冒険者。
白パンを買って仕事へ向かう町の男。
わざわざ用もないのに娘たちと話すためだけに顔を出す常連。
扉を開ければ、いつもの喧騒が始まる。
そう思っていた。
「……え?」
私は手を止めた。
店の前にいたのは、たった数人。
いつもなら開店前から十数人、日によっては通りへ溢れるほど待っているというのに、今朝は妙に閑散としている。
店員たちも異変に気づいたらしい。
「……少なくないですか?」
「今日は依頼が少ない日、とか?」
私は返事をせず、通りを見渡した。
人がいないわけではない。
むしろ朝の中央通りは普段通りに賑わっている。
荷車を引く商人もいれば、武器を背負った冒険者も歩いている。
ただ、その誰もがこちらへ向かってこない。
「おはようございます!」
店員たちは戸惑いながらも接客を始めた。
待っていた客が店へ入り、私は自分に言い聞かせる。
たまたまだ。
今日だけ出足が遅い。それだけに違いない。
開店してしまえば、すぐいつもの人数まで増える。
ところが、朝の繁忙時間が過ぎても状況は変わらなかった。
普段なら棚の半分以上が空いている頃だというのに、今日はほとんど減っていない。
「……変ね」
思わず声が漏れる。
それなのに棚のパンはほとんど減っていない。
特別仕様の制服も、追加した店員も、用意した商品も、使う相手が来なければ意味がない。
その時、見覚えのある男が通りの向こうから歩いてきた。
「ちょっと!」
私は反射的に声をかけた。
中堅冒険者の男で、ほぼ毎朝この店へ立ち寄る常連だ。
こちらに気づいた彼は、なぜか気まずそうに足を止めた。
「お、おお、ヴィオレッタ。よう!」
「よう! じゃないわ。今日は寄っていかないの?」
「え?」
「これから依頼でしょう? いつものパン、焼けてるわよ」
「ああ……いや、今日はもう朝飯を食っちまってさ」
「食べた?」
「あぁ。悪いな。また今度来るよ!」
「あ、ちょっと――」
男は私と目を合わせないまま、逃げるように歩き去った。
胸の奥に、嫌なものが落ちる。
朝食を済ませた。
どこで?
ちらりと店内へ目を向ける。
普段なら午前だけでかなりの数が捌けているはずなのに、今日の売上はいつもの半分にも届いていない。
昼前に焼き上がる追加分も、このままでは余る。
「まさか……そんなわけ」
一週間前の光景が頭をよぎった。
食の大精霊と名乗る半透明の少女と《銀帝》。
『こっちには食の大精霊様がいるから』
あの時は、随分と大きく出たものだと思った。
一週間しかない。
商品を一つ作ったところで、客の習慣まで簡単に変えられるはずがない。
そう考えていた。
なのに。
「店長?」
「昼前の追加分、減らして。あとは店をお願い」
「え?」
「少し出るわ!」
返事を待たず、私は通りへ飛び出した。
目的地は考えるまでもない。
ウッドベーカリー。
歩いている余裕などなかった。
普段なら人前で走るような真似はしない私が、裾を持ち上げて中央通りを駆けていく。
途中で何人もの冒険者とすれ違った。
その中には、うちの常連もいた。
しかも、何人かは紙に包まれた何かを手にしている。
嫌な予感が、確信へ近づいていく。
そんなはずはない。
私はあの店を知っている。
数か月も客足が遠のき、借金取りに店を差し押さえられかけていた店だ。
たった一週間で、何ができると言うの? 私が半年かけて作った客の流れを変えられるはずがない。
それでも、ウッドベーカリーへ近づくほど、騒がしさが大きくなっていった。
何かを買い求める声。
そして、鼻腔をくすぐるなにやら香ばしい匂い。
「……何よ、これ」
角を曲がったところで、足が止まった。
最初に目へ飛び込んできたのは、人だかりだった。
一人や二人ではない。
ウッドベーカリーの前から通りへ伸びるように、何十人もの客が列を作っている。
冒険者だけじゃなく、町の職人、商人、買い物途中らしい女性、子供を連れた親まで混じっている。
昨日まで閑散としていたはずの古いパン屋が、今は中央通りのうちより賑わっているようにさえ見えた。
「……どうして」
店の前には、幌馬車が置かれている。
側面が大きく開かれ、臨時の厨房として使われているらしい。
中では《銀帝》ジャレッドが、次々と鉄鍋から黄金色の何かを引き上げていた。
「ジャレッドさん! 次お願いします!」
「うん」
「こっちはパン用意できてます!」
店先ではパルが慌ただしく商品を仕上げ、次から次へと客へ渡している。
そして、その頭上。
「揚げたてですよー! まだまだありますから、列を詰めてくださーい!」
食の大精霊が、満面の笑顔で声を張り上げていた。
「大精霊様、こっち二つ!」
「はい! パルさん、二つ追加です!」
「私、さっきのもう一個欲しい!」
「ありがとうございます!」
客の声が途切れず、商品が凄い勢いで売れている。
何より――客が楽しそうだった。
その光景を目の前にして、私はようやく理解した。
今朝、うちの前に客がいなかった理由を。
「……嘘」
膝から力が抜けた。
自分でも信じられないほどあっさりと身体が沈み、私はその場に崩れ落ちた。
視線の先では、ウッドベーカリーの前に作られた長い列が、さらに伸び続けていた。




