第26話 ウッドベーカリー
「今度は僕が、きっちり回収するから」
借用書を片手にそう告げたジャレッドを前に、店先には何とも言えない沈黙が落ちた。
つい先ほどまで涙を浮かべて感謝していた少女は、頭を下げかけた姿勢のまま固まっている。
その隣では、こなたも慈愛に満ちた大精霊らしい微笑みを忘れ、ぽかんと口を開けていた。
最初に我に返ったのは、こなただった。
「ええっと……つまり今度は、ジャレッドさんがこの子の債権者になるってことですか?」
「そうだよ」
何を当たり前のことを、と言わんばかりにジャレッドが首を傾げる。
「金貨五十枚、きっちり回収するって……」
「借金だからね」
「いや、そうなんですけど!」
思わず声を大きくしかけ、こなたは慌てて口元を押さえる仕草をした。
周囲には、まだ野次馬たちの視線がある。
ジャレッドが少女を助けると決めた時、てっきり借金を肩代わりして終わらせるつもりなのだと思っていた。
ところが実際には、ヤゴチエ商会から債権を買い取っただけだった。
「……それじゃ、取り立てる人が変わっただけじゃないですか?」
「僕の方が良心的だと思うけど」
「自分で言います?」
「利子は取らないよ」
ジャレッドは指を一本立てた。
「店も差し押さえない。返済期限も決めなくていい」
続けて二本目の指を立てる。
「生活や店の経営が苦しいなら、返済は後回しでも構わない」
「…………」
こなたは何とも言えない顔になった。
「それって、ほとんど施してるのと同じじゃないですか?」
「違うよ」
ジャレッドはあっさり否定した。
「金貨五十枚は、ちゃんと返してもらう」
「でも、期限は決めないんですよね?」
「うん」
「払えなかったら?」
「払えるようになるまで待つ」
そう答えてから、ジャレッドは少女へ向き直った。
「僕は店を取り上げるつもりはない。でも、借りたお金を返さなくていいとも言わない」
「…………」
「君がこの店を立て直して、自分の力で返せるようになるまで待つ。それだけ」
少女はしばらく借用書を見つめていた。
やがて、強く頷く。
「……返します」
震えていた声に、今度は芯があった。
「すぐには無理かもしれません。でも、働いて、店を立て直して……必ず金貨五十枚をお返しします」
「うん」
ジャレッドは満足そうに口元を緩めた。
「頑張って」
「はい!」
少女が力強く頷く。
その様子を眺めながら、こなたはようやくジャレッドの考えが分かった気がした。
ただ金を渡して終わらせるのではない。
あえて借金を残すことで、少女自身が店を立て直し、前へ進む理由を持てるようにしたのかもしれない。
もっとも――。
「……ジャレッドさん、結構意地悪ですよね」
「そう?」
「良心を担保にしてません?」
「お金より取りっぱぐれにくいかもね」
「否定しないんですね……」
こなたは呆れながらも、つい頬を緩めた。
そして改めて少女へ向き直る。
「私も手伝いますから」
「え?」
「そもそも私が首を突っ込んだんです。借金取りを追い払って『はい、おしまい』じゃ、ジャレッドさんに言われた通り無責任ですからね」
胸元へ手を添え、今度は作りものではない柔らかな笑みを浮かべる。
「金貨五十枚、ちゃんと返せるようになるところまで一緒に頑張りましょう」
「精霊様……」
「だから、その呼び方は――」
違うと言いかけて、こなたは口をつぐんだ。
周囲ではまだ野次馬たちが様子を窺っている。
ここで「私は精霊じゃありません」と口走れば、門前から続けてきた努力が水の泡だ。
「……今は、それでいいです」
「はい!」
事情を知らない少女は、感極まった様子でもう一度深く頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございます。こんな店先で立ち話もなんですし、よかったら中へ入ってください。大したものは出せませんけど、お茶くらいなら……」
そこで少女は、はっとした顔になる。
「あっ、私……恩人の方々に名前も名乗ってませんでした」
慌てて前掛けを整え、姿勢を正した。
「私はパルといいます。この《ウッドベーカリー》の店主をしています」
「店主さんなんですか?」
こなたが驚いて聞き返す。
パルは十五、六歳ほどにしか見えない。
店を手伝う娘ならともかく、一軒のパン屋を切り盛りしているとは意外だった。
「はい。父が亡くなってからは、私が」
一瞬だけ寂しげな影が差したが、パルはすぐに笑顔を作った。
「どうぞ、中へ」
◇
白雪は三メートル近い巨体では店内へ入れないため、幌馬車と一緒に店先で待ってもらうことになった。
「すぐ戻ってきますからね」
「キュン」
こなたが声をかけると、白雪は理解したようにその場へ伏せ、大きな尾を身体へ巻きつけた。
その姿だけでも十分に人目を引いているのだが、今さらだった。
パルに案内され、ジャレッドとこなたは《ウッドベーカリー》へ入る。
店内は決して広くない。
磨き込まれた木製の床に、壁際へ並ぶ陳列棚。
今日は店を開けていなかったため、普段ならパンが並ぶ棚には何もなく、ひっそりと静まり返っていた。
それでも、長い年月をかけて染みついた小麦と薪の匂いが微かに残っている。
「ずっと使われてきたお店なんですね」
「はい。父の代よりもっと前からあるらしいんです」
店の奥には調理場が続いていた。
中央には大きな作業台。
傍らには粉をこねる木鉢や使い込まれた道具類が整然と並び、壁際には黒く煤けた石造りのパン窯が鎮座している。
どれも真新しさとは無縁だが、雑に扱われているものは一つもない。
作業台には細かな傷が刻まれ、木製の道具には繰り返し手入れされた跡が残っていた。
「立派な窯ですね」
「父がずっと使っていたものなんです。私が生まれるより前から、この店にあるみたいで」
パルが窯を見る時だけ、その顔に誇らしげな色が浮かんだ。
調理場を抜けた先には、生活用の小さな部屋があった。
簡素なテーブルと椅子が数脚。
壁際には食器棚、窓辺には小さな花瓶が飾られている。
質素ながら手入れは行き届いており、父娘がここで長く暮らしてきたことが伝わってきた。
「狭くてすみません」
「十分だよ」
ジャレッドが椅子へ腰を下ろす。
こなたは当然座れないため、その隣で床から少し浮いたまま待つことにした。
「今、お茶を淹れますね」
パルは茶葉を取り出し、慣れた手つきで湯を用意する。
二つのカップを並べかけたところで、こなたを見て動きが止まった。
「あ……精霊様は、お茶って……」
「お気持ちだけいただきます」
「す、すみません!」
「謝らなくて大丈夫ですよ」
むしろ当然のように自分の分まで用意しようとしてくれたことがおかしくて、こなたは苦笑した。
ほどなくして、ジャレッドの前へ湯気の立つカップが置かれる。
パルも向かい側へ腰を下ろした。
「それで……さっきの借金なんですけど」
自分から切り出したものの、どこから話すべきか迷っているらしい。
パルは両手でカップを包み、しばらく黙り込んだ。
やがて決心したように、ぽつぽつと語り始める。
「この店は、ずっと父と二人でやっていたんです」
「お父さんもパン職人だったんですね」
「はい。町じゃ結構有名だったんですよ。この辺りはパンを食べる人も多くて、クレバリス王国は小麦の産地も多いんです」
父親のことを話すうち、パルの顔がわずかに綻んだ。
「この町にもたくさん小麦が入ってくるので、白パンだって普通の人が毎日食べられるくらい安いんですよ。町の人が普段食べるのも、小麦のパンがほとんどです」
旅人や冒険者には、長く持ち歩けるライ麦や大麦を使った硬いパンもよく売れるらしい。
ウッドベーカリーも、そうした日常のパンを扱う昔ながらの店だった。
毎朝焼き上げる白パンや、ほどよく塩を利かせた丸パン。旅に向く硬めの保存パン。
並ぶ品に派手さはない。
しかし父親は発酵や火加減の見極めに長け、同じ材料でも他店とは出来が違うと評判だった。
昔から、その味を目当てに通う常連が多かったという。
「それだけ評判のお店だったのに、どうして借金をすることになったんですか?」
こなたの問いに、パルの顔から笑みが消えた。
「半年前くらいに、新しいパン屋ができたんです」
「新しいパン屋?」
「はい。中央通りの方に」
パルはカップへ目を落とす。
「最初は父も気にしてなかったんです。向こうのパンを食べたこともありますけど、特別珍しいものを売っているわけじゃありませんでした。白パンも丸パンも、うちとそんなに変わらなくて……」
それなのに、客は少しずつ新しい店へ流れていった。
とりわけ目立ったのが、冒険者たちだったという。
「向こうのお店、店員さんがみんな若い女の人なんです」
「……ああ、そういうことですか」
何かを察したこなたとは対照的に、ジャレッドは首を傾げる。
「それが関係あるの?」
「ありますよ、多分」
こなたが即答すると、パルも困ったような笑みを見せた。
「すごく明るいお店なんです。冒険者さんが来ると名前を呼んで迎えてくれたり、『今日はどこへ行くんですか?』って話を聞いてくれたり、依頼へ向かう人には『頑張ってください』って見送ってくれたり……」
「パン屋だよね?」
「パン屋さんです」
「酒場みたい」
「私も最初はそう思いました」
しかし、それが冒険者たちには受けた。
水晶宮へ向かう前には笑顔で送り出し、無事に戻れば冒険の話を聞いてくれる。
中にはパンを買うこと以上に、顔馴染みの店員とのやり取りを楽しみに通う者まで現れたらしい。
「最初に減ったのは、冒険者のお客さんでした」
パルの声が沈む。
「でも父は……自分のパンが古いから負けたんだって思ったんです」
昔ながらの白パンや丸パンでは、もう客を呼べない。
誰も見たことのない新しいパンを作らなければならない。
そう思い込んだ父親は、次々と新商品を試すようになったという。
「木の実や香辛料を混ぜてみたり、森で採れる食べられる草を練り込んでみたり……今まで使ったことのない材料をたくさん仕入れるようになりました」
初めのうちは、常連たちも珍しがって買ってくれた。
けれど父親は、さらに新しいものを求めて試作を重ねた。
従来のパンを焼く数を減らし、代わりに実験的な品を並べるようになると、変わらない味を求めていた町の住人まで足が遠のいていった。
「昔から来てくれてたお客さんに、『前の白パンはないのか』って何度も聞かれました。でも父は、新しい物を作らなきゃ店は潰れるって……」
冒険者を取り戻そうと始めた新商品作りが、残っていた客まで遠ざけてしまった。
売上が落ちるほど、父親は焦った。
「それまでは毎朝決まった量を焼いて、売り切れたら店を閉めるようなやり方だったんです。でも、客が減ってからは試作も仕込みもどんどん増えて……」
昼は店に立ち、閉店後は翌日の生地を仕込む。
その合間にも新しい材料や配合を試す。
以前なら日暮れには終わっていた仕事が、いつしか夜遅くまで続くようになった。
「珍しい食材も色々仕入れましたし、店も少し直そうとして……そのためにお金まで借りてしまって。だから余計に、休めなくなったんだと思います」
借金を返すには、売らなければならない。
売るためには、今までとは違うパンを完成させなければならない。
結果が出なければ、さらに新しい材料や配合を試す。
焦りに追われるように、父親は朝暗いうちから窯へ火を入れ、夜になっても調理場から離れなくなったという。
「私も何度も休んでって言ったんです。でも父は、『もう少しで客が戻るから』って……」
そこで、パルの声が途切れた。
「ある朝、いつもの時間になっても窯に火が入ってなくて……見に行ったら、父が調理場で倒れていました」
カップを包む指先に力が入る。
「父は……そのまま」
その先を口にすることはできなかった。
しばらく俯いていたパルは、やがて小さく息を吸い、顔を上げた。
「だから今は、私がこの店を継いでいます。借金も父が残したものですし……この店までなくしたら、お父さんがずっと守ってきたものが全部なくなっちゃうから」
「パルさん……」
「私も、父が間違っていたとは思えないんです」
沈んでいた声に、違う熱が宿る。
「今までと同じパンを作っているだけじゃ、お客さんは戻ってきてくれないって。お父さんは最後まで、新しいパンさえ完成すれば店を立て直せるって信じていました」
パルは胸の前で手を握り締めた。
「だから私が作りたいんです。お父さんが最後まで見つけられなかった、新しいパンを」
「なるほど……」
こなたは頷きながらも、胸の奥に引っ掛かるものを感じていた。
話を聞く限り、最初に冒険者たちが離れた理由は、パンそのものではなさそうだった。
新しい店は、パンを買うだけではない楽しみを提供している。
冒険者たちが喜ぶ接客を徹底し、居心地のいい場所を作ったこと。
おそらく、その差が大きいのだろう。
一方、父親は原因をパンにあると思い込み、変わらない味を求めていた昔からの客まで遠ざけてしまった。
ただし、今のウッドベーカリーのパンを確かめていない以上、商品そのものに問題がないと決めつけることもできない。
「ちょうど良かったです!」
そんなこなたの思考を遮るように、パルが勢いよく立ち上がった。
「今朝、新しいパンを焼いたんですよ!」
「新しいパン?」
「はい! 父が残してくれた試作のメモを参考にして、私なりに改良したんです。今まで誰も作ったことがないと思います!」
急に元気を取り戻したパルは調理場へ駆けていき、しばらくして一枚の皿を大切そうに抱えて戻ってきた。
「これです!」
誇らしげな声とともに、皿がテーブルの中央へ置かれる。
「…………」
「…………」
ジャレッドとこなたが、揃って言葉を失った。
皿の上に載っていたのは、形だけ見れば少し大きめの丸パンだった。
焼き上がりも悪くなく、表面にはほどよく焼き色がついている。
問題は、その焼き色の下からでも隠しきれない中身だった。
緑である。
うっすら色づいている程度ではない。
表面の裂け目から覗く生地まで、どこを見ても見事な深緑色をしていた。
さらに漂ってくる匂いも、小麦の香ばしさより先に、鼻の奥へ突き刺さるような強烈な薬草臭が主張している。
「これは……」
こなたの口元が僅かに引きつった。
ジャレッドも眠たげな表情こそ崩していないが、青い瞳だけがいつもよりわずかに見開かれている。
そんな二人の反応を、パルは期待に満ちた顔で見つめていた。
「森で採れる薬草をたっぷり練り込んだ、新作の《健康薬草パン》です!」
「たっぷり……」
こなたが思わず復唱する。
「はい! 身体にもいいですし、普通のパンには絶対ない味になってます!」
それは間違いないだろう。
別の意味で。
パルはジャレッドの前へ皿を押し出し、満面の笑みを浮かべた。
「今朝焼いたばかりなんです。ぜひ食べてみてください!」
「…………」
ジャレッドは緑色のパンを見た。
次に、期待に目を輝かせるパルを見る。
最後に、助けを求めるようにこなたへ顔を向けた。
しかし、食べることのできないこなたにできるのは、慈愛に満ちた大精霊らしい笑顔で見守ることだけだった。
ただし、その笑顔はほんの少し引きつっていた。




