第20話 森の宴
揚げ油が弾ける音に驚き、白雪の腹の下や尾の陰へ散ってしまったコッポルたちを落ち着かせるまでには、少しばかり時間がかかった。
「大丈夫ですよ! あれは油の音ですから!」
店先から身を乗り出したこなたが必死に呼びかけても、言葉そのものは通じない。
けれど、隣にいるジャレッドが平然と鍋の前に立っていることや、白雪が何事もなかったように伏せている姿を見て、ようやく危険ではないと理解したらしい。
大きな耳が、白雪の毛の隙間から一つ。
続いて二つ。
やがて恐る恐る顔を覗かせたコッポルたちは、油鍋の様子を確かめながら少しずつ元の場所へ戻ってきた。
ただし、先ほどまでのようにカウンターへ身を乗り出す勇気まではないようで、今度は少し離れた位置から調理場を見守っている。
「すっかり警戒されちゃいましたね」
「でも、帰らないね」
「匂いが気になるんでしょうね」
こなたの言葉を裏づけるように、一匹の鼻が忙しなく動いた。
鍋の中では、ブラストバードの肉を包んだ衣が、細かな泡に囲まれながら徐々に色づいていく。
最初は白かった表面が薄い狐色へ変わり始めたところで、ジャレッドが網じゃくしを差し入れ、肉を一つずつ引き上げた。
「これで完成?」
「まだですよ。一度休ませます」
「まだなんだ……」
わずかに肩を落としたジャレッドを見て、こなたが吹き出す。
「あと少しです。ここまで待ったんですから、最後までちゃんと美味しくしましょう」
油を切った肉をしばらく置き、その間に鍋の温度を上げていく。
休ませている肉からだけでも、香辛料と肉の香りが十分に漂っていた。
コッポルたちは警戒して距離を取っているにもかかわらず、身体だけは少しずつ鍋の方へ前進している。
一匹が進む。
隣もつられて進む。
気づけば、また全員がカウンターの近くまで戻っていた。
「食欲って強いですねぇ」
「生き物にとって大事なものだからね」
「ジャレッドさんが言うと説得力ありますね」
「……ん? 僕、褒められてる?」
ジャレッドの問いを華麗にスルーし、再び油の状態を確かめたこなたが、今度こそ頷いた。
「よし。二回目いきましょう!」
高温になった油へ、休ませていた肉を戻していく。
一度目より激しい音が立ち上がったものの、さすがに二度目ともなればコッポルたちも飛び上がらなかった。
それでも耳だけはびくりと震えていたが、今度は逃げるよりも鍋を見届けることを選んだらしい。
表面の衣は見る見るうちに濃い黄金色へ変わり、細かな凹凸が浮き上がっていく。
やがて、ジャレッドが一つを持ち上げると、衣の表面を流れた油が鍋へ戻り、小気味よい音を残した。
その様子を見ていたコッポルたちは、大皿へ積み上げられていく肉を前に、見惚れたようにじっと座り込んでいる。
もっとも、尻尾だけは隠しきれない。
地面を掃除するかのように、六本揃って左右へ忙しく動いていた。
最後の一つを揚げ終え、油を切る。
大皿には、山のようなフライドチキンが出来上がっていた。
ごつごつとした厚めの衣は、焚き火と店の灯りを受けて濃い黄金色に輝き、重なり合った隙間から湯気が立ち昇っている。
油の香ばしさ。
肉の匂い。
そこへ、胡椒やオールスパイス、ガーリックの風味が混じり、辺り一帯に食欲を刺激する香りが広がっていった。
「……うわぁ、おいしそう」
ジャレッドが呟いた。
視線は大皿から離れない。
口元には、ごく僅かではあるが光るものまで見える。
「ジャレッドさん」
「なに?」
「涎、イケメンが台無しですよ?」
指摘されて、ジャレッドが無言で口元を拭った。
「忘れて」
「無理です」
コッポルたちも似たようなものだった。
目を大きく見開き、全員が揃って大皿へ熱い視線を送っている。先ほど油の音に怯えていたことなど、とうに忘れてしまったようだ。
白雪にも、同じものを食べられるよう別の皿が用意してある。
巨大な白狐は行儀よく伏せたまま待っていたが、鼻先だけは何度も皿の方へ向いていた。
全員の準備が整ったところで、こなたが皆を見回す。
自分は食べることも、料理を手渡すこともできない。
それでも。
自分が教えた料理を、これだけ多くの者が待っている。
その事実が、胸の奥をくすぐるように嬉しかった。
こなたは満面の笑みを浮かべた。
「それじゃあ――召し上がれ!」
その一言を合図に、待ちかねていた全員が動いた。
ジャレッドとコッポルたちが一斉に大皿へ手を伸ばし、白雪も自分用の皿へ顔を寄せる。
そして。
――ザクッ。
最初に響いたのは、硬質で心地よい衣の音だった。
噛み砕かれた表面の内側から、熱々の肉汁が溢れ出す。
「――っ」
ジャレッドの動きが止まる。
ブラストバードの淡白だった肉は、下味と油をまとったことでまるで別物になっていた。
香ばしい衣からまず胡椒やスパイスの香りが立ち、その直後に柔らかな肉と脂の旨味が舌へ広がる。衣は厚すぎず、それでいて噛めばはっきりとした歯応えを残し、中の肉は水分を失わず瑞々しい。
少量の砂糖を揉み込んだ効果もあって、胸肉ですらぱさつきをほとんど感じさせなかった。
コッポルたちも同じだった。
ひと口齧ったまま、誰も動かない。
数秒の沈黙。
そして。
「わおおおおおおん!」
「わふぉぉぉぉぉん!」
「ばっふぉぉぉぉん!」
六匹の歓喜が、夜空へ一斉に放たれた。
つられるように白雪も顔を上げる。
「キュキュ~~~~~ン!」
澄んだ遠吠えが、木々の隙間を抜けて森の奥まで響いていく。
さらに。
「あおぉぉぉぉん!」
「……いや、最後の声、誰ですか!?」
「僕」
真顔で答えたジャレッドへ、こなたが勢いよく振り返る。
「分かってましたよ! なんでジャレッドさんまで吠えたんですか!?」
「う~ん、流れで?」
「流されすぎでしょ!?」
言われても、ジャレッドは気にした様子もなく二口目へ進んだ。
ザクリと衣を噛み砕くと、今度はゆっくり味わうように咀嚼する。
「衣だけでも美味しいね。胡椒の刺激が最初に来るけど強すぎなくて、そのあと別の香辛料の匂いが残る。ブラストバードはそのまま焼くと少し淡白だけど、これなら全然物足りなくない」
「おお、今日は食レポが本格的ですね」
「それに、中がすごく柔らかい。外の衣はこんなにザクッとしてるのに、噛んだ瞬間、中から肉汁が溢れてくる。この食感の差も面白いね」
「二度揚げした甲斐がありましたね」
「うん。これなら毎日でも食べられる」
「それはおデブさんになりますよ?」
「それも本望」
本人は本気なのだろう。
ジャレッドはもう次の一本へ手を伸ばしていた。
コッポルたちに至っては、感想を口にする余裕すらない。
両手でフライドチキンを抱え、夢中になって齧りついている。口の周りを油で光らせながら、一つ食べ終わるたびに身体を揺らし、とうとうその場で踊り始める者まで現れた。
ひょこりひょこひょこ。
くるくるくるり。
尻尾を振り、両腕を上げ、何とも形容しがたい踊りを始める。
「なんですか、あの踊り」
「美味しい時の踊りじゃない?」
「そんな文化あるんです?」
「今できたのかも」
こなたは余りの愛らしさに頬を緩めた。
料理を作る手もないし、皿を運ぶこともできない。
香りは分かっても、味を確かめることさえ叶わない。
けれど、自分が知っていた料理を食べて、誰かがこんなにも嬉しそうに笑っている。
その光景を眺めているうちに、胸の奥にずっと残っていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
(……こういうの、やりたかったんだよね)
料理を売りながら世界を旅する。
かつて夢見た形とは少し違う。
それでも。
知らない土地で、知らない誰かと同じ料理を囲んで笑う。
きっと、あの日思い描いていた夢の中にも、こんな風景があったはずだ。
そう思った、その時だった。
遠くの森から。
「わおおおおん!」
別の遠吠えが返ってきた。
「……ん?」
こなたが顔を上げる。
続けて、右手の森からも。
さらに左からも。
「わふぉぉぉぉん!」
「ばっふぉぉぉん!」
あちらこちらから聞こえてくる。
「ジャレッドさん」
「うん」
「なんか嫌な予感がします」
「僕も」
茂みが揺れた。
がさり。
最初に現れたのは、一匹のコッポルだった。
次に二匹。
その後ろから三匹、四匹と続き、あっという間に十匹を超える。
「……増えてません?」
「増えてるね」
「まだ来てますよ!?」
小さな子供までいる。
親らしき個体に手を引かれ、鼻を動かしながら続々と野営地へ集まってくる。
どうやら先ほどの遠吠えを聞きつけたらしい。
そして、到着したコッポルたちが大皿のフライドチキンを見つけ目を輝かせた。
「あ」
「わふぅぅぅっ!」
次の瞬間、野営地が一気に騒がしくなった。
「足りないですね、これ」
「足りないね」
ジャレッドとこなたは顔を見合わせる。
一拍置いて、こなたが袖を捲るような仕草をした。
「仕方ありません。第二陣いきましょう!」
「分かった」
幸い、ブラストバードの肉は三羽分ある。
まだ残りは十分にあった。
ジャレッドが再び包丁を手に取り、こなたの指示で肉を切り分けていく。
砂糖を揉み込み、下味を馴染ませ、衣をまとわせる。
一度経験しているだけあって、今度は動きも早い。
その間にも、先に食べ終えたコッポルたちは焚き火の周囲へ集まり、先ほどの奇妙な踊りを続けていた。
新しく来た者も、フライドチキンを受け取った途端に輪へ加わる。
白雪まで楽しそうに尾を振り、その周囲を子供たちが走り回る。
いつしか野営地は、ちょっとした宴会のようになっていた。
焚き火が弾け、笑い声が重なる。
森の奥では虫たちが鳴き、その上をコッポルたちの声が賑やかに飛び交っていく。
「なんだか、すごいことになりましたね」
「嫌?」
「まさか」
振り返った顔には、自然な笑みが浮かんでいた。
「こういうの、大好きです」
ジャレッドも、焚き火の周りではしゃぐコッポルたちを見る。
「僕も嫌いじゃないよ」
「でも、ジャレッドさんは料理よりコッポルの方見てません?」
「両方大事だから」
「白雪もですよね」
「もちろん」
「欲張りですねぇ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その時だった。
「キャイン――!」
それまでの賑わいを引き裂くような悲鳴が、暗闇の向こうから響いた。
焚き火の周りで踊っていたコッポルたちが、一斉に動きを止める。
白雪も頭を上げ、耳を前へ向けた。
ジャレッドの顔から、それまでの柔らかな空気が消えた。
「今の声……」
こなたが森の奥へ目を向ける。
木々の間から、何かが近づいてくる。
最初に見えたのは、人影だった。
一人。
二人。
さらにその後ろからも続き、全部で六人ほどが暗闇の中から姿を現した。
革鎧に剣。
弓を背負った者もいる。
格好だけを見れば、冒険者にも見える。
だが。
先頭の男が抱えているものを目にした瞬間、こなたの表情が強張った。
「わ、わふぅ……!」
一匹のコッポルだった。
男の太い腕で首元を押さえ込まれ、喉元には短剣が突きつけられている。
周囲のコッポルたちが低い声を上げる。
それを聞いた男は、怯えるどころか楽しそうに口元を歪めた。
「動くなよ。こいつがどうなってもいいなら別だがな」
男の目が、焚き火の周りに集まったコッポルたちを、値踏みするようにゆっくりとなぞっていく。
やがて、その口元がさらに大きく吊り上がった。
「へえ……こいつは大漁じゃねぇか」




