第2話 水晶宮の奥で
クレバリス王国南西部。
広大なソロール大森林、そのさらに奥深く。
空を覆い隠すほど鬱蒼と茂った巨木の合間に、冒険者たちから《水晶宮》と呼ばれる迷宮が存在する。
内部の岩壁には大小様々な水晶が突き出し、そこから零れる淡い光が、薄暗い洞窟を幻想的な色彩で満たしていた。
だが、その美しい景観とは裏腹に、この迷宮は極めて危険な場所だった。
水晶の甲殻を鎧のように纏った魔蟲。
背から生えた刃状の結晶を射出する蜥蜴。
岩壁に溶け込み、獲物が近づくまで微動だにしないゴーレム。
ここに棲む魔物の多くは硬質な結晶で身を守っており、生半可な武器では傷一つつけられない。
当然、冒険者ギルドが定める攻略難度も高い。
それでも水晶宮を訪れる者が絶えない理由は、極めて単純だった。
――金になる。
魔物から得られる素材や迷宮内に自生する特殊な水晶は、武具や魔道具、錬金術の素材として需要が高く、良質なものなら目を疑うような値がつく。
危険を冒して深く潜るほど、大金を掴める可能性も高くなる。
命を懸けて一攫千金を狙う迷宮。
それが《水晶宮》だった。
そんな場所へ、最下層付近にのみ自生する希少な錬金素材の採取依頼を受け、一人の冒険者が足を踏み入れていた。
そして現在――迷宮の最奥。
巨大な空洞を揺さぶる咆哮が轟いた。
『グオオオオオオオオオッ!!』
空気が震え、天井から細かな結晶片が降り注ぐ。
咆哮の主は、この迷宮の守護者――《水晶竜》。
全長十メートルを優に超える巨躯。
全身を覆う半透明の水晶鱗は、鉄を断つ剣ですら容易には傷つけられず、並の攻撃魔法ならその輝く表面で弾き返してしまう。
冒険者ギルドが提示する討伐の目安は、A級冒険者を中心とした二十人以上の攻略隊。
あるいは――S級冒険者を含む精鋭部隊。
決して、一人で相対するような怪物ではない。
そのはずだった。
「…………」
水晶竜の真正面に、一人の男が立っていた。
灰銀色の髪に、息を呑むほど整った顔立ち。
やや垂れ気味の青い瞳は眠たげで、目の前に巨大な竜がいるというのに、緊張した様子はまるでない。
身につけているのは、動きやすさを重視した軽装の防具。
唯一、腰に佩いた長剣だけが、遠目にも並の品ではないことを窺わせていた。
男の名は――ジャレッド。
『グルルルル……!』
「…………」
水晶竜が低く唸り、鋭い爪で地面を削る。
それでもジャレッドは反応しない。
『グオオッ!!』
「…………」
苛立ったような咆哮を浴びせられてなお、竜をまともに見ようともしなかった。
その眠そうな視線は、どこか遠くを漂っている。
そして。
ぐぅぅぅぅぅぅぅ……。
張り詰めた空気に、あまりにも場違いな音が響いた。
「…………」
ジャレッドが腹へ手を当てる。
切なげに眉尻を下げ、ぽつりと呟いた。
「……おなか減った」
『グルルルルルルルル……!!』
水晶竜の喉奥から、先ほどとは明らかに質の違う唸りが漏れた。
怒っている。
間違いなく怒っている。
最奥を守る自分を前にして、この男はずっと上の空。
爪を振るってもかわされ、尾を薙ぎ払ってもかわされる。
その間も、眠たげな顔は一度として崩れない。
命を懸けて挑んでくる他の冒険者とは違い、まるで自分など眼中にないかのようだった。
『グオオオオオオオッ!!』
「……少し声を抑えてくれないかな?」
ジャレッドがようやく水晶竜へ顔を向けた。
しかし、その理由すら戦意とは程遠かった。
「お腹に響く」
水晶竜の額に埋め込まれた巨大な結晶が、眩い光を放ち始めた。
大きく開かれた顎。
その口腔の奥に複雑な魔法陣が浮かび上がり、周囲の魔力が凄まじい勢いで吸い寄せられていく。
さすがのジャレッドも、その異変には視線を止めた。
「……それ、痛そうだね」
次の瞬間。
閃光が爆ぜた。
幾千もの水晶片が、一斉に射出される。
一枚一枚が槍の穂先のように鋭く、鉄板さえ容易に貫く凶器。
逃げ場を奪う結晶の暴雨となって、ジャレッドへ殺到した。
正面から受ければ、原形すら残らない。
だが。
ジャレッドは慌てることなく、腰の長剣へ手を添えた。
「――リミットリリース」
低く呟く。
直後、淡い光の筋が彼の全身に浮かび上がった。
首筋から肩へ。
腕から指先へ。
胸から腰、そして脚へ。
まるで光が血流となって、身体中を駆け巡っているかのようだった。
ジャレッドが地面を踏み抜く。
轟音。
床が砕け、その姿が消えた。
『――!?』
正確には、消えたわけではない。
水晶竜の目でさえ捉えきれないほど、速かっただけだ。
ジャレッドは真正面から結晶のブレスへ飛び込んでいた。
一閃。
迫る水晶片が砕ける。
二閃。
さらに数枚。
そこから先は、もはや一本一本の剣筋を目で追うことすらできなかった。
無数の剣閃が白い軌跡となって空間を走り、殺到する結晶を片端から粉砕していく。
弾けた水晶が虹色の光を撒き散らす。
その煌めきの中を、ジャレッドは一歩も止まらず駆け抜けた。
『グ……?』
水晶竜が気づいた時には、すでに遅かった。
目の前。
ほんの数歩の距離に、ジャレッドがいる。
地を蹴り、巨体の首元まで跳び上がったジャレッドは、その勢いのまま長剣を振り抜いた。
一閃。
あまりに鋭く、斬撃の音さえ一拍遅れて響いた。
『…………』
ジャレッドは何事もなかったように着地すると、剣を軽く振って刃についた結晶片を払った。
その背後。
水晶竜の頭部が、僅かに傾く。
ずるり。
巨大な首から頭部が滑り落ちた。
地面を揺らす轟音。
続いて首を失った巨体が崩れ落ち、空洞全体に衝撃が走る。
やがて身体のあちこちへ亀裂が広がり始めた。
ぱきり。
ぱき、ぱき。
次の瞬間、水晶竜の巨体が無数の光の粒子へ変わり、空中へ溶けるように消えていった。
ジャレッドは静かに長剣を鞘へ収めた。
チン、と納刀音が鳴った直後。
ぐぅぅぅぅぅ……。
「…………」
ジャレッドは再び腹へ手を当てた。
先ほどまで水晶竜がいた場所には、凝縮された魔力を宿す一輪の結晶――虹色に輝く《水晶華》が残されている。
依頼品としてなら、相当な価値がある。
だが、今のジャレッドが求めているものとは、あまりにも方向性が違った。
「……はぁ」
水晶華を拾い上げ、くるりと回して眺める。
「花は食べられないよね」
当然である。
ジャレッドは水晶華をマジックバッグへ放り込み、そのまま硬い床へ仰向けになった。
頭上には、幻想的な光を放つ水晶の天井。
戦闘直後とは思えないほど気の抜けた顔で、それをぼんやり眺める。
「……やっぱり町まで補給しに行くべきだったなぁ」
そう呟いてから、数日前の出来事を思い返した。
◇
水晶宮へ向かう途中。
ソロール大森林の中で、ジャレッドは偶然、小さな集落を見つけた。
そこに暮らしていたのは《コッポル族》。
この地方でも滅多に人前へ姿を現さない、小柄な犬型の獣人たちである。
成人しても人間の子供ほどの背丈。
全身を覆う柔らかな毛。
大きく垂れた耳。
丸く澄んだ瞳。
そして、ふさふさと揺れる尻尾。
『わふ?』
「…………」
木の陰から顔を出した一匹のコッポルが、小首を傾げる。
『わふ』
「…………」
ジャレッドの眠そうな青い瞳が、僅かに見開かれた。
「……可愛い」
そこから先は早かった。
気づけばジャレッドは、マジックバッグから迷宮攻略用の携帯食料を取り出していた。
餌付けして仲良くなろうという魂胆である。
『わふっ!』
「これも食べる?」
『わふわふ!』
「……じゃあ、これも」
一匹へ与える。
すると二匹目がやってくる。
『わふ!』
三匹目。
『わふわふ!』
四匹目。
『わぅ!』
「…………」
気づけば、ジャレッドの周囲にはコッポルたちが群がっていた。
期待に満ちた丸い瞳が、一斉にこちらを見上げている。
ジャレッドはマジックバッグの中を確認した。
迷宮攻略のために準備した、大量の携帯食料。
次に、こちらを見上げるコッポルたち。
「…………」
一瞬だけ考える。
そして。
「……もふもふ触っていい?」
『わふぅっ!!』
契約は成った。
その後、ジャレッドが幸福そうな顔で大量のコッポルたちに埋もれたことは言うまでもない。
◇
――現在。
「……あの子たちに与え過ぎたけど」
水晶の天井を眺めたまま、ジャレッドは静かに呟いた。
「後悔はしてない」
ぐぅぅぅぅ。
「……でも、おなか減ったなぁ」
食料と引き換えに得たもふもふには、一片の悔いもない。
ただし、空腹は別問題だった。
ジャレッドはしばらく床に転がったまま、動こうとしなかった。
やがて。
「……ん?」
頬を、何か柔らかなものが掠めた。
反射的に指で摘まみ取る。
掌を開いたジャレッドは、そこに乗ったものを見て瞬きをした。
「……花びら?」
赤みがかった、小さな野花の花弁だった。
「風に乗ってきたのかな?」
そこで、ジャレッドは身体を起こした。
考えてみればおかしい。
ここは迷宮の最奥。
守護者の間は行き止まりで、地上へ通じる大きな通路もない。
まして、地上から花びらを運んでくるような風が流れ込むはずもなかった。
「…………」
ジャレッドは目を閉じる。
意識を集中させると、ごく微かな空気の流れを感じ取れた。
立ち上がり、風を辿る。
砕けた大きな水晶の陰まで来たところで、足を止めた。
「……あそこか」
岩壁の一部に、人一人が辛うじて身体を滑り込ませられそうな細い亀裂が走っていた。
先ほどまでは巨大な水晶の裏に隠され、存在そのものに気づけなかったのだろう。
ジャレッドは亀裂の奥を覗き込む。
暗い。
どこまで続いているのかも分からない。
「隠し部屋かな?」
迷宮では、こうした未発見の空間が見つかることも珍しくない。
手つかずの宝箱。
古代文明の遺物。
高値で売れる特殊素材。
そんなものが眠っている可能性もある。
「…………」
ジャレッドの脳裏に浮かんだのは、なぜか豪華な料理だった。
「食べ物……あるかな」
期待する方向だけは、最後までぶれなかった。
身体を横向きにし、狭い亀裂へ滑り込む。
「……狭い」
岩肌に肩や防具を擦りながら、ゆっくり奥へ進んでいく。
数歩。
さらに十数歩。
やがて、暗闇の向こうに淡い光が滲んだ。
「……出口?」
少しだけ歩みが速くなる。
最後の岩を抜けた瞬間――
「…………」
ジャレッドはその場で立ち止まった。
亀裂の先には、想像していたよりも遥かに広い空間が隠されていた。
先ほどまでいた水晶宮の最奥とは、明らかに空気が違う。
半球状に広がった岩壁。
高い天井には虹色の鉱石が点々と埋まり、柔らかな光を降らせている。
湿った迷宮特有の重苦しさも薄く、まるでそこだけ外界から切り離された別の場所のようだった。
そして、その中央。
一台の幌馬車が置かれている。
「……馬車?」
ジャレッドが首を傾げた。
真っ先に感じたのは、驚きよりも違和感だった。
今しがた通ってきた亀裂は、大人一人が身体を横にしてようやく進める程度の幅しかない。
他に入口らしきものも見当たらない。
どう考えても、馬車がここまで運び込まれる経路がない。
「…………」
ジャレッドは幌馬車へ近づこうとして――ふと足を止めた。
車体の傍ら。
そこだけ、地面が見えない。
色とりどりの花が、一面に敷き詰められていた。
赤。
青。
黄色。
白。
どれも迷宮の中で育つような植物には見えない。
外の森や草原に咲いていそうな、小さな野花ばかりだった。
そして、その中心に一人の人間が横たわっている。
「…………」
一瞬、眠っているように見えた。
けれど、近づくほど、その考えが間違いだと分かる。
人ではない。
少なくとも、もう生きてはいない。
そこに横たわっていたのは――白骨化した遺体だった。
長い年月を経たのだろう。
身につけていたはずの衣服はほとんど朽ち、かろうじて布の名残が残っている程度。
それでも、不思議と惨めな印象は受けなかった。
乱雑に打ち捨てられた死体ではない。
まるで眠りにつかせるように、丁寧に横たえられている。
その周囲には無数の花。
中には、つい最近摘まれたように瑞々しいものまで混じっていた。
誰かが今もここへ花を手向け続けている。
そんな錯覚すら覚える光景だった。
「…………」
ジャレッドは白骨の傍らまで歩み寄ると、ゆっくり膝を折った。
骨の状態。
残された布。
周囲の様子。
しばらく観察してから、小さく呟く。
「……ずいぶん昔に死んでる」
「はい」
「……どうして、こんな所に白骨遺体が」
「へへ、ずっとここに閉じ込められてましたから」
「…………」
ジャレッドの動きが止まった。
返事があった。
しかも、妙に明るい声で。
考えてみれば、先ほどの「はい」の時点ですでにおかしかった。
この部屋に入ってから、生きた人間の気配など一度も感じていない。
それなのに、声は背後から聞こえている。
「…………」
ジャレッドは立ち上がることもなく、ゆっくり首だけを後ろへ向けた。
そこに――一人の少女が立っていた。
見覚えのない服装。
紺色の上着。
膝上までしかない短いスカート。
肩ほどまで伸びた黒髪。
顔立ちは幼さを僅かに残しており、十七、八歳ほどに見える。
少女は、ごく普通の人間と変わらない笑顔を浮かべていた。
ただ一点。
その身体が、向こう側の景色が見えるほど薄く透けていることを除けば。
「…………」
少女がにこりと笑い、軽く頭を下げる。
「初めまして」
ジャレッドは少女を見る。
次に、花の中へ横たわる白骨遺体へ視線を移す。
そして、もう一度少女へ戻す。
「……レイス?」
「レイス?」
少女は一瞬だけ首を傾げた。
それから自分の透けた身体を見下ろし、納得したように頷く。
「ああ、はい。幽霊です」
「……そう」
「…………」
「…………」
ジャレッドはそれ以上、何も言わなかった。
驚いて悲鳴を上げるでもない。
剣を抜くでもない。
ただ「幽霊なんだ」と理解しただけの顔をしている。
少女の笑顔が、引きつっていった。
「……もうちょっと驚いてくれてもよくないですか!?」
長いあいだ静けさに沈んでいた隠し部屋へ、幽霊となったこなたの声が盛大に響き渡った。




