第1話 プロローグ
「――起きよ」
誰かの呼ぶ声がした。
耳に心地よい声に誘われ、まどろんでいた意識がゆっくりと浮上していく。
「……ん……」
「いつまで寝ておる。そろそろ目を覚まさんか」
「……あと五分……すやぁ」
「随分と図太い娘じゃな」
呆れたような声に促され、柊こなたは重たい瞼を開いた。
「んん……?」
ぼやけていた視界が、徐々に鮮明になっていく。
最初に目に飛び込んできたのは、白だった。
壁もない。天井もない。
足元に地面らしきものはあるものの、その境界すら曖昧で、どこまでも真っ白な空間が続いている。
「……え?」
こなたは戸惑いながら身体を起こした。
身につけているのは学校の制服。肩には見慣れた通学鞄が掛かっている。身体に妙な倦怠感はあるものの、怪我をした様子はない。
けれど、先ほどまで歩いていた学校帰りの道とは、どう考えても違っていた。
「……どこ、ここ?」
周囲を見回したこなたは、さらに目を丸くした。
白い空間には、無数のガラス片が浮かんでいた。
手のひらほどの小さなものから、人ひとりを丸ごと映せそうな巨大なものまで、大きさは様々だ。
そして、その一枚一枚には見知らぬ景色が映し出されている。
巨大な城壁に囲まれた街。
雲より高くそびえる山。
青空に浮かぶ無数の島々。
赤茶けた砂漠を悠然と進む巨大な獣。
そして――夜空を横切る、翼を持った巨大な蜥蜴。
「ドラゴン……?」
思わず呟きながら、こなたは近くのガラス片へ顔を寄せた。
映画でもゲーム画面でもない。
その向こうでは、巨大な生き物が翼を羽ばたかせ、雲の中へ消えていく。
「すっご……」
状況が分からない不安よりも、好奇心の方が勝っていた。
さらに顔を近づけた、その時だった。
「感心しておる場合ではないぞ」
「ひゃあっ!?」
突然背後から声をかけられ、こなたは肩を跳ね上げて飛び退いた。
慌てて振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
いや。
女性――と呼んでいいのか、一瞬迷うような姿だった。
白と赤を基調とした巫女装束。腰まで伸びた美しい銀髪に、細く切れ長の瞳。
けれど、その顔は人間ではなく、狐そのものだった。
さらに背後では、何本もの銀色の尾がゆったりと揺れている。
「…………コスプレ?」
「違う。これはホンモノじゃ」
「ではケモ巫女さん?」
「……お主、思ったより余裕があるのう」
「いや、余裕はないですけど……」
こなたは半信半疑のまま、自分の頬をつねってみた。
「痛いです」
「夢ではないからの」
「ですよねぇ……」
狐の女性は、呆れたように眉間を押さえた。
「まずは落ち着け。わらわは、お主らに危害を加えるつもりはない」
「……お主ら?」
その一言を聞いた瞬間、こなたの表情が変わった。
「そうだ! みんなは!?」
途切れていた記憶が、一気に蘇る。
学校からの帰り道。
幼い頃からずっと一緒だった三人の幼馴染と、いつものようにくだらない話をしながら歩いていた。
何度も通った、見慣れたはずの道。
そこに突然、見覚えのない古びた石造りの鳥居が立っていた。
『こんなのあったっけ?』
『向こうに社みたいなのあるよ』
『ちょっと見てみようぜ』
好奇心に負けた四人は、そのまま鳥居をくぐった。
その瞬間、身体がふわりと浮き上がり、次いで天地が反転したような激しい眩暈に呑み込まれた。
そこから先の記憶がない。
「みんなは!?」
今度は本気で焦った声を上げながら、こなたは狐の女性へ詰め寄った。
「安心せい。三人とも無事じゃ」
「ほ、ほんとですか?」
「ああ。ただ、お主だけこの狭間へ流れ着くのが遅かった」
「……遅かった?」
「同じ門をくぐったからといって、全員が同時に辿り着くとは限らぬのでな」
「じゃあ、三人は?」
「すでに送り出した」
「さ、先に行っちゃったんですか?」
思わず声が強くなる。
そんなこなたを責めるでもなく、狐の女性は静かに答えた。
「この狭間は、人の身で長く留まれる場所ではないのでな」
「…………」
「三人とも、お主を待つと言い張っておったよ。じゃが、お主も必ず同じ場所へ送ると約束して、先に行かせた」
「……そっか」
張り詰めていた肩から、力が抜けた。
三人は自分を置いていったわけではない。
待とうとしてくれていた。
それが分かっただけで、胸の奥にあった不安が少し和らいだ。
「それなら、よかったぁ……」
こなたは大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。
「それで、ここって何なんですか?」
狐の女性が周囲へ視線を巡らせる。
「ここは、異なる世界を繋ぐ狭間。わらわは、この場所の案内役と思えばよい」
「じゃあ、私たちを元の世界に戻してくれるんですか?」
「もちろん――と言いたいが、すぐには無理じゃ」
「え?」
「お主らが潜った門は、もう閉じておるのでな」
「えええええっ!?」
こなたの絶叫が、白い空間に響き渡った。
「じゃ、じゃあどうするんですか!?」
「帰る方法ならある。そう慌てるでない」
狐の女性が指先を上げる。
すると、一枚の巨大なガラス片が滑るようにこなたの前へ移動し、その表面に広大な大陸が映し出された。
「この地の名は、アルテリア」
「異世界……」
「お主らを送り込める場所は大陸の東」
指先が大陸の端を示す。
続いて、その指が反対側の西端へと移動した。
「そして、お主らの故郷へ帰るための次元門は、西の果てに存在する」
「…………」
東から西へ。
地図の上ですら、とんでもない距離がある。
こなたは二つの地点を見比べ、恐る恐る口を開いた。
「つまり……大陸横断?」
「うむ」
「…………」
しばらく、こなたは広大な大陸を見つめた。
知らない土地。知らない人々。
どんな危険が待っているのかも分からず、帰るまでにどれほどの時間がかかるのかも見当がつかない。
怖くないと言えば、嘘になる。
今頃、母は夕飯の支度をしているだろうか。父もそろそろ仕事から帰ってくる頃かもしれない。
自分が帰ってこなければ、きっと家族は心配する。
そう考えると、胸の奥がきゅっと狭くなった。
「……帰りたいな」
考えるより先に、言葉が零れた。
「……当然じゃな」
こなたは、もう一度大陸へ視線を戻した。
「でも、帰れる道はちゃんとあるんですよね?」
「うむ」
「じゃあ――行くしかないですよね」
そう口にすると、不思議と少しだけ気持ちが軽くなった。
怖がっていても、ここで立ち止まっていては家に帰れない。
それなら前へ進むしかない。
そう思った途端、別の感情が顔を覗かせた。
「……世界旅行」
「ん?」
「いや、みんなと異世界旅行かぁ」
「ん? んん?」
狐の女性が怪訝そうな顔をする。
けれど、こなたの表情には徐々に笑みが戻っていた。
「異世界を旅しながら西を目指すんですよね?」
「まあ、そうじゃが」
「それ、ちょっとすごくないですか?」
「何故嬉しそうなのじゃ!?」
「だって異世界ですよ!? さっきドラゴンいましたよね!?」
「お主、帰りたいのではないのか?」
「帰りたいですけど、それはそれ、これはこれです!」
「……逞しい娘じゃな」
呆れながらも、狐の女性の口元が僅かに緩んだ。
「先に言っておくが、呑気な観光旅行ではないぞ」
「ですよね」
「魔物もおれば、盗賊もおる。西の果ては今や魔王が治める領域じゃ」
「魔王」
「そうじゃ」
「…………」
こなたの頬が少し引きつった。
「それは普通に怖いですね」
「ようやくまともな反応をしたか」
「いや、魔王は怖いですよ!」
狐の女性は呆れたように息を吐いた。
「まあよい。危険な旅路に、何の力も持たぬ子供を放り出すほど、わらわも薄情ではない」
「え?」
「先に送った三人には、それぞれ旅に役立つ魔法の品を一つ与えた」
「魔法のアイテム!」
「いちいち食いつくでない」
「だって魔法ですよ!?」
先ほどまで不安そうにしていたとは思えないほど食いついてくるこなたに、狐の女性は何とも言えない表情を浮かべた。
「お主にも一つ授けよう」
「何でも?」
「限度はある」
「うーん……」
こなたは腕を組み、真剣に考え始めた。
剣。
魔法の杖。
頑丈な鎧。
危険な異世界を旅するなら、きっとそういう物を選ぶのが正しい。
普通なら、そうするべきなのだろう。
けれど。
ふと頭に浮かんだのは、幼い頃に見た一本の映画だった。
一台のキッチンカーで各地を巡り、旅先で料理を作る主人公。
海辺の街。
賑やかな街角。
山間にある小さな村。
料理を受け取った人たちが、嬉しそうに笑っていた。
あの映画を初めて見た日のことを、こなたは今でも覚えている。
いつか自分も、料理を作りながら色々な場所を巡り、そこで出会った人たちを笑顔にしてみたい。
そんな夢を抱くようになった。
「決めました!」
「申してみよ」
「キッチンカーが欲しいです!」
「…………」
狐の女性が完全に固まった。
「きっちん……何?」
「キッチンカーです!」
「武器ではなく?」
「はい!」
「これから危険な異世界を旅するのじゃぞ?」
「分かってます」
「なら何故じゃ!」
「だからですよ」
こなたは、当然のことを言うように笑った。
「厳しい旅になるなら、せめて美味しいものくらい食べたいじゃないですか」
「…………」
「私、料理が大好きなんです。それに昔から、料理を売りながら世界中を旅するのが夢で」
「……帰るための旅じゃぞ?」
「はい」
「遊びではないぞ?」
「それも分かってます」
こなたは素直に頷いた。
不安が消えたわけではない。
家族にも会いたいし、本当なら今すぐにでも帰りたい。
それでも――。
「でも、帰るまでの時間だって私の人生です」
その言葉に、狐の女性が僅かに目を見開いた。
「怖がってるだけじゃ、何も変わらないですから」
「…………」
「どうせすぐに帰れないなら、みんなと美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て」
こなたは少し照れたように笑った。
「最後にちゃんと帰りたいです」
しばらくの間、狐の女性は何も言わなかった。
やがて、その口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「ふふ……変わった娘じゃ」
「よく言われます」
「では、その望みを叶えてやろう」
狐の女性が目を閉じる。
その瞬間、白い空間のあちこちから細かな光が集まり、彼女の周囲をゆっくりと巡り始めた。
「残念ながら、お主の世界の車をそのまま用意することはできぬ」
「あー……」
「じゃが」
再び目を開けた狐の女性が、優美に袖を振るう。
集まっていた光が一気に膨れ上がり、眩い輝きの中で少しずつ形を変えていく。
やがて現れたのは――一台の立派な幌馬車だった。
「わぁ……!」
こなたは目を輝かせ、そのまま幌馬車へ駆け寄った。
白を基調としたキャラバン型の車体には細やかな装飾が施され、普通の馬車とは明らかに違う、不思議な存在感を放っている。
「魔法の幌馬車じゃ。中には調理場もあるし、寝泊まりもできる」
「すごい……!」
「それだけではないぞ。この馬車は、お主と共に成長する」
「成長?」
「うむ。料理を作り、客に振る舞い、商いを重ねることで、新たな機能が少しずつ使えるようになる」
「新しい機能……」
「どのようなものが目覚めるかは、その時になってからのお楽しみじゃ」
「す、すごい! 最高じゃないですか!」
こなたは幌馬車の周囲を回りながら、嬉しそうに車体を眺めた。
「これでみんなと旅できるんですね!」
「うむ」
「料理を作って、町で売って、それで旅費を稼いで――」
想像するだけで、胸が高鳴った。
知らない街へ行って。
見たことのない景色を眺めて。
三人の幼馴染と一緒に、料理を作りながら大陸の果てを目指す。
「さて、そろそろ送るとするかの」
「はい!」
こなたは弾む足取りで、魔法の幌馬車の傍へ立った。
足元から淡い光が溢れ、徐々にこなたと幌馬車全体を包み込んでいく。
「先に送った三人と同じ座標へ――」
ぱきん。
突然、ガラスが割れたような鋭い音が響いた。
「……っ!?」
狐の女性の表情が、一瞬で険しくなる。
「え?」
こなたが足元を見る。
先ほどまで白く輝いていた光が、まるで何かに侵食されるように黒く歪み始めていた。
「待て! これは――」
「な、なんですか!?」
「こなた! わらわの手を取れ!」
狐の女性が必死に手を伸ばす。
ただ事ではないと悟ったこなたも、反射的にその手へ腕を伸ばした。
「え、ちょっ――」
互いの指先が触れる、その直前。
視界いっぱいに白い光が弾けた。
◇
「――っ!」
こなたは眩しさに目を細めながら、ちかちかする目元を擦った。
「神狐さん、なんか焦ってたけど……」
胸の奥に、言葉にできない嫌な予感が引っかかる。
それでも、まずは幼馴染たちを探そうと、こなたは顔を上げた。
「みんなー! お待た……せ……」
言葉が途中で止まった。
そこに広がっていたのは、しんと静まり返った見知らぬ空間だった。
虹色に淡く輝く岩壁。
天井から滴り落ちる水滴の音だけが、やけに大きく響いている。
傍らには、先ほど狐の女性から貰ったばかりの魔法の幌馬車。
けれど、それ以外には――誰もいない。
「…………」
こなたは戸惑いながら辺りを見回した。
「ねえ……みんな?」
ぽたり。
静寂の中、水滴の音だけが返ってくる。
「…………ここ、どこ?」
彼女はまだ知らない。
世界中を旅するために手に入れた魔法の幌馬車と共に――
その旅を始めることすらできない、迷宮の最深部へ迷い込んでしまったことを。




