第16話 白雪と森の旅
水晶宮を出発して間もなく、巨大な白狐には「白雪」という名前が与えられた。
名付け親はもちろん、こなたである。
雪のような毛並みだから白雪。
あまりにもそのままではないかとジャレッドは思ったらしいが、当の白雪が「キュン」と満足そうに尾を揺らしたため、異論を挟む余地はなくなった。
そうして新たな仲間を加えた幌馬車は今、王都を目指してソロール大森林の街道を進んでいた。
白雪が歩みを進めるたび、豊かな尾が左右へゆったり揺れる。巨体に反して足取りは驚くほど滑らかで、車輪が多少の凹凸を越えても、御者台に伝わる揺れは普通の馬車よりずっと小さい。
こなたは御者台の端から身を乗り出すようにして、次々と流れていく森の景色へ夢中になっていた。
「わぁ……あっちの木、幹が凄く太いですよ。あ、今なにか走っていきました! リス……じゃないですね。角生えてたし」
「ホーンラットかな」
「ネズミなんですか、あれ!?」
「たぶん」
「たぶん!?」
何を見ても新鮮らしく、こなたの視線は右へ左へと忙しい。
一方、その隣に座るジャレッドはといえば。
「…………」
景色などほとんど見ていなかった。
彼の関心は一貫して、御者台の前方で揺れている白雪の尾へ注がれている。
右へ揺れ、手を伸ばす。
届く直前に左へ逃げる。
今度は左へ手を伸ばす、また逃げる。
先ほどから、それを延々と繰り返していた。
「……ジャレッドさん」
「なに?」
「楽しいですか?」
「かなり」
返事だけは迷いがない。
こなたは呆れたように笑い、再び森へ顔を向けた。
その時、前方から四人組の冒険者が歩いてきた。
装備からすると、水晶宮へ向かうところなのだろう。こちらに気づいた一人が何気なく道を空け、次いで白雪を見上げた瞬間、その顔が固まった。
「…………」
隣の男も気づく。
「……な、なんだ、あれ」
「魔物……か?」
「あんな魔物、見たことねぇよ」
「いや……それにしてもなんか神々しい姿だな」
擦れ違うまで、四人全員が白雪から目を離さなかった。
馬車が通り過ぎた後も、背後から何度も振り返る気配が伝わってくる。
「めちゃくちゃ見られてますね」
「白雪、かわいいからね」
「たぶんそこじゃないと思いますよ」
こなたが苦笑する。
さらにしばらく進むと、今度は少し遠くの茂みの奥から数匹の魔物がこちらを伺っていた。
狼に似た姿をした魔物で、口元から鋭い牙を覗かせている。
だが、こちらへ飛びかかってくることはなかった。
白雪が視線を向けた途端に身体を硬直させ、耳を伏せる。次の瞬間には踵を返し、仲間を引き連れて森の奥へ一目散に逃げていった。
「……逃げましたね」
「逃げたね」
「白雪って、実はかなり強いんじゃ?」
こなたが前を行く白狐を見る。
白雪は気にした様子もなく、ふさふさの尾を揺らしながら街道を進み続けている。
その呑気な後ろ姿からは、とても低級魔物を怯えさせるような存在には見えなかった。
「戦えるかどうかは分からないけど、普通の魔物とは違うと思う」
「神狐さんが作った馬車から出てきましたもんねぇ」
考えてみれば、正体不明にも程がある。
しかし、今のところ白雪が危険な存在にはまったく見えない。むしろ時折こちらを振り返り、こなたと目が合えば嬉しそうに尾を大きく振っている。
それを見ていると、細かいことは後でいいかという気分にもなった。
穏やかな森の風景を眺めていたこなたは、ふと思いついたように声を上げた。
「そういえば、ジャレッドさん」
「うん?」
「私、アルテリアについてほとんど何も知らないんですよね。ここって、世界のどの辺なんです?」
ジャレッドは少し考え、行く手へ視線を向けた。
「アルテリア大陸で言えば中央付近かな。ここはクレバリス王国の南西部にあるソロール大森林」
「中央付近……」
その言葉を聞いて、こなたは思わず目を瞬かせた。
この世界へ送り出される前、神狐から聞いた話では、アルテリアへ入るための門は大陸の東の果てにあるはずだった。そして三人の幼馴染も、そこへ送られている――少なくとも、神狐はそう話していた。
転送の直前に異変が起き、自分だけ別の場所へ飛ばされたことは分かっている。
それでも、まさか大陸の端から中央近くまで離されていたとは思わなかった。
(……思ってたより、ずいぶん遠くに飛ばされてたんだ)
永い間、水晶宮の外へ出られなかった自分には、確かめる術すらなかった。
もし三人が予定通り東の果てへ送られていたのなら、自分たちは最初から相当な距離を隔てられていたことになる。
こなたの胸に、一瞬だけ幼馴染たちの顔が浮かぶ。
けれど、今さら落ち込んでも距離が縮まるわけではない。
ようやく馬車は動き始めたのだ。
「大陸には大きな国が五つあって、クレバリスはその中の一つ。人族を中心にできた国だよ」
こなたの目が興味深そうに輝く。
「五大国ってやつですね!」
「まあ、そんな呼ばれ方もしてるね」
「残り四つは?」
「ドワーフ、エルフ、獣人、それから魔族。それぞれの種族を中心にした大国が一つずつある」
「おお……異世界っぽい」
思わず感嘆するこなたに、ジャレッドは小さく首を傾げた。
「こなたからしたら異世界だからね」
「そうでした」
納得しかけてから、こなたは改めて頭の中で整理する。
人族。
ドワーフ。
エルフ。
獣人。
魔族。
いかにも日本のゲームや小説で目にしそうな種族が、本当に国家を作って存在しているらしい。
「その五つの国しかないんですか?」
「いや。小国や都市国家もたくさんあるよ。それに、人族の国だから人族しか住んでないってわけでもない。王都なら他の種族も普通に見かける」
「へぇ……」
ますます王都への期待が膨らむ。
「じゃあ、五大国ってどんな配置なんです?」
「クレバリスを中央として考えるなら、大まかには四方かな。正確には少しずれてるけど」
「西にも?」
「あるよ。魔族が治める国が」
「西……」
こなたの声から、僅かに弾んでいた調子が消えた。
西。
その言葉には覚えがある。
この世界へ送り込まれる前、神狐から聞かされた。
日本へ帰るための門は、アルテリアの西の果てにある。
そして、そこには魔王の治める領域が広がっていると。
「……ジャレッドさん」
「なに?」
「その魔族の国って、魔王が治めてるんですよね?」
「そうだよ」
やはり。
こなたは御者台の上で腕を組んだ。
魔王。
その響きを聞けば、日本人としてはどうしても一つの姿を想像してしまう。
黒い城。
配下の魔物。
人類への侵略。
そして世界征服。
「もしかして、その魔王って……世界を支配してやるー、とか考えてたりします?」
「……なんで?」
ジャレッドが珍しく目を丸くした。
「なんでって、魔王ですよ?」
「うん」
「魔族の王ですよ?」
「そうだけど」
「人類を滅ぼすとか、世界征服するとか……」
「しないよ」
あまりにも即答だった。
こなたが瞬きを繰り返す。
「……しないんですか?」
「少し変わった方ではあるけど、そんなことを考えるような人じゃないね」
「なんだか、知り合いみたいな言い方ですね」
「……そう聞こえた?」
「聞こえました」
「気のせいじゃないかな」
「絶対ごまかしましたよね?」
ジャレッドは答えず、また白雪の尾を追いかけ始めた。
こなたはじっと横顔を見るが、本人は知らぬ顔である。
どうにもこの男には、まだ色々と隠していることがありそうだった。
「まあ、いいですけど……」
こなたは納得していない顔のまま引き下がった。
「じゃあ、魔族とは戦争してないんです?」
「五大国同士の大きな戦争なら、ここ数百年は起きてない。国境で揉めたり、小さな衝突が起きたりはするけどね」
「数百年……」
思っていたより、ずっと平和だ。
少なくとも「魔王率いる魔族対人類」という単純な構図ではないらしい。
もちろん、西の果てが安全だという意味でもないのだろう。神狐は、帰還門まで辿り着くこと自体が険しい道のりだと話していた。
魔族の王だから悪。
そんな単純な話ではないというだけだ。
「……私、ちょっと失礼なこと考えてました」
「あの方なら笑って許してくれると思うよ?」
「そ、そういう問題ですかね」
こなたは苦笑しながら、再び街道の先を見る。
西の果て。
いつかは向かわなければならない場所。
今はまだ遠い。
けれど、こうして馬車が一歩ずつ進んでいるのだから、昨日までとは違う。
止まっていた自分の旅が、確かに動き始めている。
そんなことを考えながら進んでいるうちに、森へ差し込む陽光が少しずつ橙色へ変わり始めた。
長く伸びた木々の影が街道を覆い、昼間には賑やかだった鳥の声も次第に少なくなっていく。
「今日はこの辺にしようか」
ジャレッドが周囲を見回し、街道から少し外れた開けた場所を指した。
「この辺?」
「日も落ちるし、今日は野営」
「野営!」
こなたの顔が一気に明るくなる。
ジャレッドが思わずそちらを見る。
「そんなに嬉しい?」
「だって、野営ですよ! 森の中で火を焚いて、ご飯作って、夜空を見ながら寝るやつですよね!」
「まあ……だいたいそう」
「異世界キャンプじゃないですか!」
「野営だけどね」
こなたにとっては同じことらしい。
白雪を止め、幌馬車を街道脇へ寄せる。
ジャレッドが手早く周囲を確かめている間にも、こなたは夕食のことで頭がいっぱいになっていた。
「ジャレッドさん、晩ご飯作りましょう!」
「何作る? カレーの残りはもうなかったよね?」
返事が妙に早かった。
セーフエリアでの騒動が収まったあと、ジャレッドは残った材料でもう一度カレーを仕込み、水晶宮を出るまでの数日間、それを飽きもせず食べ続けていた。
「食いつきましたね」
「カレーもいいけど、他の料理も楽しみたいな」
「ふふ、でしょうね」
こなたは笑いながら馬車を見た。
調味料ならある。
問題は主役になる食材だ。
「そうだ。魔宝石、まだ持ってます?」
問いかけた途端。
ジャレッドの眉尻が僅かに下がった。
「……ない」
「ない?」
「この前、最後の分を使った」
「全部ですか?」
「うん」
「一個も?」
「一個も」
こなたは腕を組み、しばらく考え込む。
魔宝石がなければ、馬車の機能を使って日本の食材を購入することはできない。
とはいえ、魔宝石そのものが魔物から必ず得られるわけでもない。あれは魔力を濃く蓄えた一部の魔物から、稀に取れるものだと聞いている。
ならば、今夜の夕食は別の方法で用意するしかない。
「……現地調達ですね」
「そうなるね」
「何か食べられるもの、います?」
ジャレッドは少しだけ空を見上げた。
暮れかかった空を、何羽かの大きな鳥影が横切っている。
「あれなら食べられる」
「鳥ですか?」
「ブラストバード。この辺によくいる」
「名前がちょっと物騒なんですけど」
「羽ばたく時に風の刃を飛ばすから」
「やっぱり物騒だった!」
こなたが思わず声を上げるが、ジャレッドはすでに立ち上がっていた。
「じゃあ、少し狩ってくる」
「ちょっと待ってください。今からですか?」
「夕飯いるでしょ?」
「いや、いますけど……コンビニ行ってくるみたいな感じで魔物を狩りに行かないでくださいよ」
「こんびに? まぁ、すぐ戻るよ」
まるで近所へ買い物にでも出かけるような口調だった。
ジャレッドは腰の剣を確かめると、白雪の頭をひと撫でする。
「こなたをお願い」
「キュン」
白雪が胸を張るように顔を上げた。
「そこ、私じゃなくて白雪に頼むんですね」
「こなた、戦えないから」
「正論!」
言い返せない。
ジャレッドは満足そうに頷くと、そのまま森の奥へ向かって歩き出した。
「気をつけてくださいねー!」
こなたが背中へ声を掛ける。
ジャレッドは振り返らず、片手だけを軽く上げた。
やがて灰銀色の髪が木々の向こうへ消えていく。
「……さて」
こなたは白雪と顔を見合わせた。
「帰ってきたら解体してもらって、何を作るか考えましょうか」
「キュ!」
「鳥なら何がいいかなぁ……」
まだ獲物すら届いていないというのに、頭の中ではすでに献立会議が始まっている。
そんなこなたの背後。
幌馬車から少し離れた木々の間で、小さな茂みがかすかに揺れた。
風ではない。
葉の隙間から、丸い二つの瞳が覗いている。
背丈は、人間の子供よりさらに小さい。
頭には大きな耳。
木の陰へ身体のほとんどを隠したその小さな影は、こなたと白雪の様子を興味深そうに窺いながら、まだこちらへ近づこうとはしなかった。




