第15話 アルテリアの空
長かった迷宮の道のりにも、ようやく終わりが見え始めていた。
中層のセーフエリアを出発してから数日。水晶に覆われた通路を上へ上へと進み、道中で遭遇した魔物をジャレッドが危なげなく片づけながら、二人はとうとう《水晶宮》の入口近くまで戻ってきていた。
奥へ潜っていた時にはどこまでも続くように感じられた水晶の回廊も、この辺りまで来ると徐々に姿を変えていく。壁を覆っていた結晶はまばらになり、代わりに剥き出しの岩肌が増え、閉ざされた迷宮の空気にも僅かずつ外の匂いが混ざり始めていた。
「……風?」
こなたが不意に足を止める。
実際に肌で感じたわけではない。
今の彼女に、風が髪を撫でる感触も、頬へ触れる冷たさもない。
それでも、分かった。
奥からではない。
前方から流れ込んでくる空気が、微かに草と土の匂いを運んでいる。
「もうすぐ出口だよ」
少し前を歩いていたジャレッドが振り返った。
「……出口」
その二文字を、こなたは確かめるように繰り返した。
胸の奥が落ち着かない。
ずっと出たかった場所だ。
生きていた頃、何度も何度も脱出しようとして、それでも《水晶竜》に阻まれ続けた。
死んでレイスになってからも馬車から遠く離れることができず、結局一度として見ることのできなかった、水晶宮の外。
「行こう」
「……はい」
ジャレッドの後を追う。
次第に前方が明るくなっていき、暗い岩壁の向こうに白い光が見え始めた。
数歩。
さらに数歩。
そして――。
「…………」
こなたは言葉を失った。
視界いっぱいに、青が広がっていた。
迷宮の水晶が放つ青白い輝きではない。
どこまでも高く、果てなど最初から存在しないかのように続いている、本物の空。
その下では巨大な木々が枝葉を揺らし、陽光を受けた無数の葉が風の流れに合わせて煌めいている。遠くには見たこともない形の山々が連なり、木々の隙間を色鮮やかな鳥が横切っていった。
水晶の壁もない。
天井もない。
閉ざされた部屋の端もない。
ただ世界が、どこまでも続いている。
「……空だ」
こなたの唇から、小さな声が零れた。
日本にいた頃なら、毎日のように見ていたものだった。
学校へ向かう朝も。
友達と帰った夕方も。
特別意識することすらなかった。
けれど、最後に空を見上げてから何十年が過ぎたのか。
アルテリアへ送られてから七十年を生き、その後はレイスとなってさらに少なくない時間を水晶宮の最奥で過ごした。
だからこそ。
今、目の前に広がる何でもない青空が、どうしようもなく綺麗に見えた。
「……こんなに広かったんだ」
ぽつりと呟く。
しばらくの間、こなたは身じろぎもせず空を見上げていた。
ジャレッドも急かさなかった。
何も言わず、少し離れた場所で立っている。
やがて。
こなたがゆっくりと顔を下ろした。
森を見渡し、遠くの山を見る。
見たことのない花々。
その間を小さな獣が駆け抜け、頭上では名も知らぬ鳥たちが枝から枝へ飛び交っている。
その瞳がみるみる輝きを増していき――。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
突然の大声に、木の上に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。
「ジャレッドさん! 森! 森ですよ!」
「うん。森だね」
「木がでっかい! 何ですかあの紫色の花!? あっ、今飛んでった鳥、尾っぽ三本ありませんでした!?」
「いるね」
「本物の異世界だぁぁぁ!」
さっきまで感極まったように静かだった少女はどこへ行ったのか。
こなたは浮かれるように辺りを飛び回り、あちらこちらへ目を向けては歓声を上げている。
ジャレッドはそんな彼女を眺め、僅かに頬を緩めた。
「こなた」
「はい!?」
「少し落ち着こうか」
「無理です!」
「即答なんだ」
「だって、初めてですよ! アルテリアの地上! 永い間、迷宮に閉じ込められてたんですよ!? これで落ち着けって方が無茶です!」
「それもそうか」
納得してしまった。
もっとも、放っておけば日が暮れるまで周囲を見回していそうなので、ジャレッドは頃合いを見て次の予定を告げることにした。
「景色を見るのもいいけど、今日はここから移動するよ」
「どこへです?」
「王都」
ぴたり。
こなたの動きが止まった。
「……王都?」
「うん」
「王都って、あの王都ですか?」
「他にどの王都があるの?」
「お城があって! 大きな街があって! 市場とか露店とか冒険者ギルドとかがある!?」
「全部あるよ」
「行きましょう!」
即座にジャレッドの目の前まで戻ってくる。
先ほどまで森の景色に夢中だったというのに、もう頭の中は王都でいっぱいらしい。
「早く! 今すぐ!」
「こなた」
「はい!」
「だから落ち着いて」
「王都ですよ!?」
「知ってる。僕もそこへ行くから言ったんだけど」
ジャレッドが苦笑する。
こんなに分かりやすく感情を表へ出す相手と一緒にいるのは、彼にとっても珍しいことだった。
「水晶宮に来たのはギルドの依頼だからね。素材も手に入れたし、一度戻って報告しないといけない」
「そういえば、お仕事で来てたんでしたね」
「そう」
「それで、王都まではどれくらいなんです?」
「普通に歩けば、ここから七日くらいかな」
「七日……」
想像していたより長かったのか、こなたの勢いが僅かに削がれる。
しかし、すぐに何か思いついたように顔を上げた。
「ちなみに、ジャレッドさんが本気で走ったら?」
「三日もあれば着くと思う」
「なんで半分以下になるんですか!?」
「走るから」
「説明になってません!」
真顔で返され、こなたが思わず頭を抱える。
人間の移動速度ではない気がする。
だが、ジャレッドなら本当にやりかねない。
「そんな速さで走られたら、私ジャレッドさんについて行けませんよね?」
「たぶん無理だと思う」
「ですよねぇ……」
今のこなたは馬車に結びついた存在だ。
マジックバッグへ馬車を収納すればジャレッドについて移動できることは分かっているが、王都まで三日間も彼が全力疾走するのを想像すると、それはそれで何か違う気がした。
そこまで考えたところで。
「あ」
こなたが声を漏らした。
「どうしたの?」
「そうだ。あるじゃないですか!」
「何が?」
「新しい機能ですよ!」
セーフエリアでの商売を終えた後、確かに感じた幌馬車の変化。
死んでしまったことで、もう成長することはないと思っていた。
だが、こなたが客へ料理を振る舞い、商売を成立させたことで、馬車は再び新たな段階へ進んだ。
その時、こなたの意識の中へ自然と流れ込んできた新しい機能が一つある。
「ジャレッドさん、馬車を出してください!」
「ここで?」
「はい! 例の能力を使いたくて」
「あぁ、なるほど」
納得したジャレッドは素直に腰のマジックバッグへ手を伸ばした。
魔力を流し込むと、次の瞬間、何もなかった森の開けた場所へ、大きな幌馬車が姿を現した。
「はい、出したよ」
「ちょっと待ってくださいね」
こなたは車体の前方へ回り込んだ。
馬や荷獣を繋ぐために作られている引き手部分。
これまでは何も繋がれていなかった場所へ向かい、透けた手をゆっくり伸ばす。
もちろん、木製の車体に触れることはできない。
けれど、自分と繋がっている幌馬車の魔力へ意識を重ねることはできる。
目を閉じる。
すると、以前までは存在しなかった何かが確かに感じ取れた。
「……これだ」
「何か分かるの?」
「たぶん」
こなたは一度大きく息を吸う仕草をすると、新しく刻まれた言葉を口にした。
「――《牽引獣召喚》」
直後。
幌馬車の前方に刻まれていた紋様が白い光を放った。
「わっ!」
こなたが慌てて一歩下がる。
溢れ出した光は地面へ落ちることなく宙へ漂い、一箇所へ吸い寄せられるように集まっていった。
初めは形らしい形などなかった。
だが、光が重なるほどに輪郭が生まれていく。
四本の脚。
長い胴。
大きな頭部。
尖った耳。
そして、背後へ優雅に広がる豊かな尾。
「これって……」
光が一際強く瞬いた。
こなたが思わず目を細める。
やがて輝きが収まった時。
そこには一頭の巨大な白狐が立っていた。
「…………」
尾まで含めれば三メートルを超え、大きな馬ほどの体躯を持っている。
人間など容易く見下ろせる巨体でありながら、威圧感より先に目を奪われるのは、その神々しいまでの美しさだった。
雪を思わせる白銀の毛並みは陽光を受けて柔らかく輝き、額には淡い金色の紋様が浮かんでいる。豊かな尾が風を含んで揺れるたび、細かな光の粒が舞い、周囲の草木まで僅かに明るく見えた。
こなたは呆然と白狐を見上げる。
「……狐?」
どうして馬車を引く存在が馬ではなく狐なのか。
考えて。
すぐに思い当たる。
「もしかして、あの神狐さんが作った馬車だから……?」
十分あり得そうだった。
というより、それ以外にこの選択の理由が思いつかない。
白狐もまた、こなたを見下ろしていた。
金色の瞳には獣とは思えないほど理知的な光が宿っている。
「こんにちは?」
とりあえず挨拶してみる。
「キュン?」
白狐が小さく首を傾けた。
「……か、かわいい」
声がした。
「ですよねぇ」
こなたは笑顔で振り返り――。
「…………あれ?」
ジャレッドがいない。
つい先ほどまで数歩後ろに立っていたはずなのに。
「ジャレッドさん?」
次の瞬間。
白狐の胸元に、人影があった。
「…………」
いつ移動したのか分からない。
ジャレッドが白狐の首へ両腕を回し、顔を分厚い毛並みの中へ埋めていた。
「…………え?」
こなたの思考が止まる。
魔物を目の前にしても顔色一つ変えず。
レイスである自分を初めて見ても「レイス?」の一言で済ませ。
何を見ても基本的には眠そうな目をしている男が。
巨大な狐へ全力で抱きついている。
「……もふもふ」
くぐもった声が聞こえた。
「ジャレッドさん?」
返事がない。
「ジャレッドさーん?」
白狐の毛へ顔を埋めたまま、ジャレッドは至福そのものといった表情を浮かべていた。
そして。
「僕と家族になろう」
「いきなり重い!」
こなたの突っ込みが森に響いた。
白狐もさすがに困惑したらしい。
首へ抱きついている人間を一度見下ろし、それから助けを求めるようにこなたへ金色の目を向けてきた。
「キュキュ~ン」
「そんな目で見ないでください。私にも止められる自信ないですから」
こなたは苦笑いする。
だが、改めて見るとふっわふわだ。
いや。
どこからどう見ても、ものすごくふっわふわだ。
首元など特に毛量が多く、ジャレッドの腕が半分近く埋まっている。
こなたの指が無意識に動いた。
わきわき。
白狐が今度はそちらを見る。
「……ちょっとくらいなら」
「キュ~」
誘惑に負けた。
こなたが白狐の脇腹へ手を伸ばす。
そのまま。
すかっ。
半透明の指が、白い毛並みを何の抵抗もなく通り抜けた。
「…………」
もう一度。
すかっ。
「…………」
目の前ではジャレッドが幸せそうに頬ずりしている。
「ずるい!」
「なにが?」
「私も触りたいんですよ!」
「触ればいいのに」
「触れないから怒ってるんです!」
「ああ」
「『ああ』じゃないですよ!」
理不尽だ。
自分の馬車から出てきた牽引獣なのに、所有者である自分だけがもふもふできない。
こんな悲劇があっていいのか。
「いいなぁ……」
羨ましそうに白狐を眺める。
すると白狐は何かを察したのか、こなたへ鼻先を近づけた。
触れることはできない。
それでも、大きな鼻先が自分の顔のすぐそばまで寄ってきたことに、こなたの表情が自然と緩んだ。
「キュキュ!」
「……良い子ですねぇ」
その時。
白狐の首へ埋もれていたジャレッドが、ふいに顔を上げた。
それまで完全にもふもふへ奪われていた視線が、森の一点へ向けられる。
僅かに細められた青い瞳。
さっきまでの緩んだ雰囲気がほんの一瞬だけ消えた。
「ジャレッドさん?」
こなたが気づいて声を掛ける。
「何かいました?」
「別に」
「でも、今――」
「趣味の悪い覗き魔がいるだけ」
「覗き魔?」
「うん」
ジャレッドはそれ以上説明する気がないらしく、すぐに白狐へ顔を戻した。
再び両腕を毛並みへ沈める。
「…………」
「いや、気になりますけど!?」
「敵じゃないから大丈夫」
「そういう問題ですかね!?」
「問題ないよ」
本人がそう言う以上、本当に危険ではないのだろう。
こなたは森の奥へ目を凝らしてみたものの、当然ながら何も見つけられなかった。
仕方なく諦めて振り返る。
そして。
「ジャレッドさん」
「ん?」
「そろそろ出発しません?」
「……あと少し」
「さっきと立場が逆転してるんですけど?」
「もう少しだけ」
「王都に行くんでしょう!?」
「行くよ」
「じゃあ離れてください!」
名残惜しそうに白狐の毛を撫で続けるジャレッド。
そんな彼を呆れ半分で眺めながら、こなたは空を仰いだ。
どこまでも続く青空。
その下に広がる、見たことのない異世界。
七十年以上も閉ざされた場所から眺めることさえできなかった景色が、今は自分の前に広がっている。
これから向かうのは王都。
その先に何が待っているのかは、まだ何一つ分からない。
それでも。
こなたは自然と笑っていた。
「ほら、行きますよ!」
ようやく。
彼女の旅が、本当の意味で始まろうとしていた。




