第14話 見守る影
《水晶宮》の入口からかなり離れた森の中。
人の往来から外れた斜面の上に、二つの影が潜んでいた。
鬱蒼と茂る木々の隙間。頭上を覆う枝葉が陽光を細かく遮り、昼間だというのに辺りは薄暗い。普通の冒険者なら、わざわざ足を踏み入れようとは思わない場所だろう。
そこに、男と女がいた。
二人とも頭から足元まで黒を基調とした装いで統一し、外套の上から森の色へ溶け込む特殊な布を纏っている。
目立つ装飾品もない。
武器も最低限。
一見すれば冒険者には見えず、ましてや旅人でもない。
誰かに見つからないことを前提とした格好だった。
「……そろそろ、お戻りになる頃合いだな」
太い幹へ背を預けていた男が、森の向こうへ目を細める。
年齢は二十代半ばほど。
生真面目そうな顔つきに短く切り揃えた黒髪。姿勢は休んでいる時でさえ崩れず、声にも妙な堅さがあった。
その隣。
枝の上に腰を下ろしていた女は、欠伸を噛み殺すように口元へ手を当てた。
「先輩、本当に毎回思うんですけど」
「なんだ」
「……あの方に、私たちの護衛って必要です?」
男の眉間に、瞬時に皺が寄った。
「馬鹿を言うな。不敬だぞ」
「本人が聞いてないところでも不敬になるんですか?」
「なる」
「面倒ですねぇ」
女は悪びれもせず肩を竦める。
男はそんな女を睨みつけながら、声を潜めて説教を始めた。
「本来なら、我々はこのように遠くから様子を窺うのではなく、もっと近くでお傍に仕えるべきなのだ。万一の事態が起きてからでは遅い」
「供回り無しってのが、あの方の希望なんですからしょうがないでしょ。私たちにできることは、こうして遠くから見守ることだけです」
「見守っているだけではない」
「じゃあ何です?」
「……適切な距離を保ちながら警護している」
「物は言いようですね」
男の頬が僅かに引きつる。
女はその反応を楽しむように口元を緩めると、さらに容赦なく続けた。
「それに、あの方って私たちが近くにいるだけでも嫌がるじゃないですか」
「それは――」
「先輩なんて、この前わざわざ近づいて報告しようとして、無言で睨まれてましたよね」
「あれは睨まれたのではない。こちらの存在を確認されたのだ」
「目が完全に『またいる』って言ってましたけど」
「……お前の主観だ」
「じゃあ、もっと分かりやすく言いますね」
女は枝から軽やかに降り立つと、男のすぐ横へ並んだ。
「ぶっちゃけ、あの方は先輩のこと嫌いですよ」
「そ、そんなことはない!」
森の鳥が一斉に飛び立ちそうな勢いで男が声を上げた。
「声、大きいですって」
「貴様があまりにも失礼なことを言うからだ!」
「でも嫌われてるのは事実じゃないですか」
「違う! あの方は我々のお役目を理解してくださっている!」
「理解した上で鬱陶しがってるんじゃないですか?」
「それも違う!」
必死だった。
女は表情こそ変えなかったが、内心では深く呆れていた。
(めでたい人だなぁ……)
本人があれほど露骨に距離を取っているというのに、男の中では都合よく解釈されているらしい。
忠誠心が高いのは美徳だ。
だが、高すぎる忠誠心は時として現実を見えなくする。
「そもそもだな」
男はまだ終わっていなかった。
「あの方は御自分のお立場を――」
「はいはい。その話、もう十回くらい聞きました」
「まだ八回だ」
「面倒くさい人だなぁ……そういう所が嫌われる原因なのに」
女がげんなりした顔をした、その時だった。
微かに空気が変わった。
彼女の表情から、それまでの軽さが消える。
「……来ます」
男も即座に口を閉じた。
「戻られたか?」
「確認します」
女は木々の隙間から《水晶宮》の方角へ身体を向けると、右目へ指先を添えた。
その瞬間。
彼女の瞳の奥に、淡い青緑色の光が灯った。
瞳孔が縦に細く絞られ、人の目では捉えられないほど遠くの景色が急速に引き寄せられていく。
森。
岩場。
水晶の結晶が露出した断崖。
そのさらに先。
《水晶宮》の巨大な入口が、まるで目の前にあるかのように視界へ映し出された。
「……出て来られました」
女が小さく告げる。
男の身体から、張り詰めていた緊張が僅かに抜ける。
「ご無事か?」
「見た限りでは」
「お怪我は?」
「少なくとも目立つ外傷はありません」
「そうか」
ほっとしたように息を吐く男。
女はその横顔を見て、再び《水晶宮》の入口へ注意を戻した。
灰銀色の髪に眠たそうな瞳。
間違いない。
護衛対象である《銀帝》ジャレッドだ。
数日間も高難度迷宮へ単独で潜っていたというのに、疲弊している様子はほとんどない。
(相変わらず人間やめてるなぁ)
内心で呟いた、その直後。
「……ん?」
女の眉が寄った。
ジャレッドの横に誰かいる。
最初は冒険者かと思った。
だが、よく見れば違う。
少女だ。
見たこともない服装。
しかも――。
「……え?」
「どうした?」
男が敏感に反応した。
女は返事をせず、魔眼へさらに魔力を注ぐと視界が鮮明になる。
少女の身体が、向こう側の景色を薄く透かしていた。
地面を歩いているように見えるが、足取りには重さがない。
生命の気配も感じられない。
「先輩」
「なんだ」
「……レイスがいます」
「何?」
「少女のレイスです。あの方のすぐ横に」
男の顔色が変わった。
「まさか――!」
「声」
「憑依されているのではないか!?」
「だから声が大きい! わたしの鼓膜が破れます!」
男は聞いていなかった。
外套を翻し、今にも森から飛び出そうとする。
「お助けせねば!」
「待って待って待って!」
女が咄嗟に男の外套を掴んだ。
「は、離せ!」
「落ち着いてください!」
「レイスが傍にいるのだぞ!」
「見れば分かります!」
「ならばなぜ止める!」
「ジャレッド様ですよ!?」
女が強く引っ張る。
勢い余って男の首が締まり、ぐえっと情けない声が漏れた。
「レイス程度に憑依されるような人だと思ってるんですか!」
「万が一ということがある!」
「その万が一が起きる相手なら、私たち二人で何ができるんです!?」
「…………」
男の動きが止まった。
実にもっともな指摘だった。
「それに」
女は魔眼を維持したまま、ジャレッドたちの様子を観察する。
「襲われてる感じじゃありません。普通に会話してますよ」
「……会話だと?」
「ええ。あの方から話しかけてもいます」
「レイスに?」
「レイスに」
「……なぜだ」
「私に聞かれても分かるわけないじゃないですか」
遠目にも分かる程度には自然な会話に見えた。
ジャレッドが何かを言い、少女が大きく身振りを交えて返す。
時折、少女が嬉しそうな顔をする。
どう見ても敵対していない。
むしろ。
(結構、仲良さそうなんだけど……)
女は少し驚いた。
ジャレッドが誰かとあれほど親しげに言葉を交わす姿自体、あまり見た記憶がない。
しかも相手はレイスだ。
迷宮の中で何があったのか。
女の頭の中で疑問が次々に浮かぶ。
すると今度は、ジャレッドが腰に下げたマジックバッグへ手を伸ばした。
「先輩」
「また何かあったのか?」
「……ちょっと待ってください」
女の声が僅かに硬くなる。
ジャレッドが何かを取り出す。
最初に見えたのは、巨大な車輪。
次いで車体。
やがて全貌を現したものを見て、女は言葉を失った。
「…………馬車?」
「何?」
「馬車です」
「何を言っている」
「ですから、馬車を出しました」
「どこから」
「マジックバッグから」
「…………」
男も黙った。
数秒後。
「見間違いではないのか?」
「遠見の魔眼で馬車と木箱を見間違えるほど耄碌してませんよ。しかも、かなり大きいです」
「普段、そんなものを入れておられなかったはずだ。迷宮産の魔道具か?」
「……いや、ちょっと待ってください」
女の目が細くなる。
「なんでしょう、あれ」
「今度はどうした」
「レイスが馬車の前に行きました」
少女が幌馬車の前方へ回り込む。
そこは本来、馬や荷獣を繋ぐための場所だった。
しかし今は何もいない。
少女は、その空いた空間へ透けた手を伸ばした。
そこに存在する何かを確かめるように、掌を幌馬車へ重ねる。
少女の唇が動いた。
「……何か言ってますね」
「聞こえるか?」
「無理です。この距離ですよ」
次の瞬間。
幌馬車の前方に刻まれた紋様が、白く光った。
「……っ!」
女の魔眼が僅かに見開かれる。
光は淡い粒となって溢れ出し、空中へ集まり始めた。
最初は輪郭もなかった。
それが少しずつ密度を増し、巨大な塊となっていく。
四本の脚。
胴体。
大きな頭部に尖った耳。
そして、背後へ伸びる豊かな尾。
「……先輩」
「今度は何だ」
「私、たぶん疲れてます」
「急にどうした」
「馬車の前から……見たこともない獣が出てきました」
「獣だと?」
「結構でかいです」
「どの程度だ」
「尾まで含めれば三メートルを超える巨体です」
「…………」
男の眉が、ゆっくりと上がった。
女が見ている先。
完全に光が収まった時、そこには一頭の巨大な白狐が立っていた。
雪のように白い毛並み。
額には淡い金色の紋様。
四肢は細身ながら力強く、立っているだけで周囲の空気が澄んでいくような、不思議な神聖さを纏っている。
長く豊かな尾がゆったりと揺れるたび、光の粒子が舞い落ちた。
魔物ではない。
少なくとも、女が知るどの魔物にも該当しない。
精霊。
神獣。
あるいは、それに近い何か。
「敵意は?」
「今のところありません」
白狐は少女の前で静かに腰を落とした。
少女は驚いたように白狐を見上げている。
どうやら彼女自身も、何が出てくるか分かっていなかったらしい。
そして。
「……あ」
女が小さく声を漏らした。
「こ、今度は何だ!?」
「ジャレッド様が獣に飛びつきました」
ジャレッドが白狐の胸元に顔をうずめていた。
普段ほとんど変化のない眠たげな瞳が、明らかに輝いていた。
少女が何か話しかけているのに、ほとんど聞いていない。
関心のすべてが白狐へ向いている。
「……ものすごく幸せそうです」
「ジャレッド様は、重度のもふもふ狂いだからな……」
「少し、羨ましいです」
二人はしばらく呆然と、その光景を眺めていた。
レイスの少女。
巨大な幌馬車。
そして、光から現れた神獣めいた白狐。
迷宮へ入る前には、一つとして存在しなかったものばかりだ。
「先輩」
「……ああ」
「さすがに、これはクォリア様に報告した方がいいですよね」
「当然だな」
男は先ほどまでの勢いを失い、重々しく頷いた。
「あの方に何かが起きている」
「何かというか、色々起きすぎて何から報告するか迷いますけど」
「見たままを報告するしかあるまい」
「じゃあ、『ジャレッド様が迷宮から女のレイスを連れて帰ってきて、馬車をマジックバッグから出したら見たことのない大きな獣が生えてきました』って?」
「……」
「絶対、虚偽の報告をしたと思われますよ、私たち」
「事実を捻じ曲げるわけにもいかん」
「ですよねぇ……」
女は深いため息を吐く。
それでも、今すぐ飛び出す必要はなさそうだった。
ジャレッド本人は無事。
レイスに敵意は見られないし、白狐も今のところ従順そうだ。
となれば、任務は継続。
上へ報告し、指示を仰ぎながら監視を続ける。
それが妥当だろう。
「では、一度距離を取るぞ」
男が立ち上がる。
「了解で――」
女の声が途中で止まった。
「どうした」
「…………」
「おい?」
返事がない。
遠見の魔眼を使ったまま、女は固まっている。
額に、僅かな汗が滲んだ。
「先輩」
「何だ」
「……目が合いました」
「誰が?」
女が無言で指を差す。
その先。
遥か遠く離れた《水晶宮》の入口付近。
白狐の毛並みに埋もれていたはずのジャレッドが、いつの間にか顔を上げていた。
視線の先は。
寸分違わず、二人が潜んでいる森。
「…………」
男も言葉を失う。
この距離。
この遮蔽物。
見えるはずがない。
そもそもこちらは、気配まで殺して潜伏している。
それなのに。
ジャレッドは数秒だけ、まっすぐこちらを見たあと何事かを呟いた。
やがて興味を失ったように視線を戻し、再び白狐の毛へ手を沈める。
「……やっぱり、とっくに気づかれてますよねぇ」
「…………」
「先輩?」
男は答えない。
代わりに、何かを納得したように深く頷いた。
「なるほど」
「何がです?」
「我々の存在を把握した上で、あえて任務を続けさせてくださっているということか」
「どうしてそうなるんですか!?」
「やはり、あの方は我々の役目を理解してくださっていた」
「いやいやいや! 絶対『趣味の悪い覗き魔がいる』って顔でしたよ!」
「お前の主観だ」
「さっきと同じこと言ってる!」
森の奥で始まった言い争いを知る由もなく。
巨大な白狐を新たな旅の供に加えたジャレッドとこなたは、水晶宮を後にしようとしていた。




