第13話 幕間2 首なし騎士
朽ち果てた城内に、重い馬蹄の音が響き渡った。
蹄が石畳を叩くたび、長い年月を経て脆くなった床から細かな破片が跳ね上がる。
こちらへ突進してくるのは、黒い軍馬。
その背に跨がるのは、錆びついた甲冑に身を包んだ騎士だった。
ただし――首から上がない。
本来そこにあるはずの頭部そのものが存在せず、肩当ての間には底知れぬ闇だけがぽっかりと口を開けている。
「う、嘘でしょ……」
夕の口から、掠れた声が漏れた。
物語やゲームの中なら見たことがある。
首のない騎士。
デュラハン。
しかし、画面越しに見る怪物と、現実に槍を構えて迫ってくる怪物とでは何もかもが違った。
馬体を覆う黒い靄。
騎士の全身から染み出すような冷気。
何より、人間を殺すことに一片の躊躇も感じさせない殺意。
長大な槍の穂先が、まっすぐ三人へ向けられる。
「下がれ!」
真っ先に動いたのは大河だった。
夕と要を庇うように前へ飛び出し、神狐から渡された腕輪を突き出す。
「これ……どうやって使うんだよ!」
焦りを滲ませながら叫んだ、その瞬間。
右腕にはめられていた銀色の腕輪が眩い光を放った。
「――っ!」
溢れ出した光が大河の前へ集まり、瞬く間に形を変えていく。
光が半透明の大盾を形作った。
人間一人を優に覆い隠せるほどの大きさが、三人とデュラハンの間に出現した。
「大河!」
「いいから後ろにいろ!」
初めて見る力に驚く余裕すらない。
大河は反射的に腰を落とし、両腕を前へ突き出す。
次の瞬間。
デュラハンの槍が、光の盾へ正面から叩き込まれた。
轟音が城内を揺らした。
「ぐっ――!」
盾そのものは砕けなかった。
しかし、軍馬を含めた突進の勢いまで完全に殺せるわけではない。
大河の靴底が石畳を激しく擦り、身体が後方へ押し込まれる。
「う、ぐ……おおおおっ!」
歯を食いしばって踏ん張る。
けれど、それもほんの数秒だった。
デュラハンが片腕へさらに力を込めた瞬間、衝撃が一気に押し寄せた。
「大河っ!」
光の盾ごと、大河の身体が吹き飛んだ。
宙を舞い、十メートル近く離れた朽ちた壁へ背中から叩きつけられる。
石壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、崩れ落ちた石片と一緒に大河の身体が床へ落ちた。
「大河ぁっ!」
夕の絶叫が響く。
返事はない。
頭から血こそ流していないものの、目を閉じたまま動こうとしない。
「そんな……大河、大河!」
駆け寄ろうとした夕の足が止まった。
デュラハンがいる。
大河を吹き飛ばした首なし騎士は、地面に倒れた彼へ槍を向けた。
追撃する気だ。
「やめて!」
叫んでも止まらない。
黒馬が前脚を持ち上げ、再び走り出そうとした。
その時だった。
「――離れろぉぉぉっ!」
普段の要からは想像もつかないような大声が響いた。
夕が振り返ると、要は両手で一冊の本を開いていた。
神狐から渡された、表紙の擦り切れた古い本。
狭間で受け取った時には文字一つ記されていなかったはずのページに、今は赤く光る文字が幾重にも浮かび上がっていた。
「ぼ、僕だって……!」
要の手が震え、顔色も真っ青だ。
眼鏡の奥の瞳には、恐怖で涙が浮かんでいたが、それでも要は逃げなかった。
「大河を……殺させるかぁっ!」
開かれた頁から赤い光が溢れ出す。
空中へ集まった光が急速に熱を帯び、拳よりも大きな火球へ姿を変えた。
「い、行けぇぇっ!」
放たれた炎が一直線に飛ぶ。
デュラハンも気づいたらしい。
だが、大河へ槍を向けていたことで反応が僅かに遅れた。
火球が甲冑の胸元へ直撃する。
爆発。
炎が黒い騎士を包み、黒馬もろとも数歩横へ押し流した。
「や……やった?」
要が震える声を絞り出す。
「要、まだ!」
夕の叫びとほぼ同時だった。
炎の中から、黒馬が姿を現した。
騎士の胸甲は黒く焦げ、一部が僅かに歪んでいる。
それでも倒れてはいない。
むしろ。
今度は要へ向けて、ゆっくりと槍が動いた。
「……え」
要の表情から血の気が引く。
標的が変わった。
大河ではない。
自分だ。
「要! もう一発!」
「む、無理……」
頁へ視線を落とす。
文字はまだ光っている。
必死に念じるが、さっきのように炎が生まれない。
「出て……お願いだから、出てよ……!」
デュラハンが黒馬の手綱を引くと馬体が大きく沈み込む。
次の瞬間、一気に加速した。
「あ……」
要の身体が硬直する。
逃げなければ。
頭では分かっているのに脚が動かない。
正面から迫ってくる巨大な軍馬と、こちらを貫こうと構えられた槍を前に、身体が完全に恐怖へ支配されていた。
「要!」
横から夕が飛び込んだ。
要を庇うように前へ立ち、腰に下げていた刀身のない剣を構えた。
それもまた、神狐から授けられたものだった。
柄の部分に淡い光が宿り、刃の形を象る。
錆一つない鋭利な刃が現れ、水晶のように透明に澄んでいる。
けれど。
それを握っている夕の手は、はっきりと震えていた。
「夕……」
要が呆然と背中を見る。
「何してるの……逃げてよ」
「嫌よ」
夕は前を向いたまま答えた。
「僕はいいから!」
「よくない」
「でも、このままじゃ夕まで――!」
「じゃあ、あなただけ置いて私が逃げればいいの?」
声は平静を装っていた。
それでも、剣先の震えは止まらない。
怖くないはずがない。
剣道を嗜んでいる夕だったが、練習で人相手に戦ったことは何度もある。
だが、魔物相手に命のやり取りをする経験などあるはずもない。
夕はそれでも、退かなかった。
「そんなことして生き残ったって、私、一生後悔する」
「夕……」
「だから黙って後ろにいて。……私だって、怖いんだから」
最後の言葉だけ、少し震えていた。
その震えに気づいた要は、それ以上何も言えなくなった。
デュラハンとの距離は、もうほとんど残っていない。
石畳を叩く馬蹄が急速に大きくなり、騎士が槍を引き絞る。
夕も剣を両手で握った。
どうすればいいのかなんて分からない。
ただ、要だけは守る。
その気持ちだけで前に立つ。
「来なさい……!」
震える声で、夕が呟く。
黒馬が目前まで迫った。
デュラハンの槍が突き出される。
夕は反射的に剣を持ち上げ――。
その瞬間だった。
ガァンッ!!
甲冑を分厚い鉄板ごと叩き抜いたような、凄まじい金属音が響いた。
「……え?」
夕は目を見開く。
槍の穂先が、自分の胸元まであと僅かというところで止まる。
それだけではない。デュラハンそのものが、まるで何かに縫い止められたように完全に動きを止めていた。
「なに……?」
夕が視線をずらすとそこで初めて気づいた。
デュラハンの胸甲から――巨大な刃が突き出している。
人間が使うには大きすぎるほど分厚い、鈍い銀色の刀身。
刃は背後から甲冑を完全に貫いていた。
ミシッ。
小さな音がした。
デュラハンの胸甲に、細い亀裂が走る。
一本だった亀裂は枝分かれし、肩、腕、腰へと瞬く間に広がっていった。
さらに異変は騎士だけに留まらない。
その身体と繋がっているかのように、黒馬の首筋や胴体にまで銀色の亀裂が浮かび上がる。
「なに……これ……」
要が息を呑む。
直後。
「ふぃ~……間一髪ってところか」
デュラハンの背後から、太い男の声が響いた。
「ガキ三人相手に、ずいぶん大人気ねぇことしてくれるじゃねぇか」
夕と要が同時に顔を上げる。
崩れた石壁の陰に、片腕を振り抜いた姿勢の大男が立っていた。
どうやら、デュラハンを貫いた大剣をそこから投げつけたらしい。
年齢は三十を越えているだろうか。
逆立つように伸びた鈍銀色の髪。
頬から顎にかけて無精髭を生やし、革鎧の上からでも分かるほど身体は分厚い。
肩も腕も異様なほど太く、袖から覗く前腕には古い傷跡が幾つも走っていた。
英雄というより、街道沿いの酒場で酔っ払って喧嘩でもしていそうな風貌である。
「さて、と」
デュラハンの元に近づき、男が投擲した大剣の柄を握り直す。
次の瞬間。
「邪魔だ」
腕を振った。
それだけだった。
男は大剣を引き抜くのではなく、そのまま力任せに振り上げた。胸甲を貫かれたデュラハンの巨体が浮き上がり、黒馬もろとも宙へ投げ出される。
次の瞬間には、デュラハンと黒馬の全身へ走っていた亀裂が一斉に輝き始めていた。
甲冑が砕け黒馬の身体も同時に崩れ、黒い靄が無数の光の粒へ変わっていく。
ほんの数秒前まで夕たちを殺そうとしていた怪物は、抵抗らしい抵抗すらできないまま完全に消滅した。
静寂が戻る。
「…………」
夕は剣を構えたまま動けなかった。
何が起きたのか、理解が追いついていない。
横では要も古びた本を胸へ抱き締め、口を半開きにして男を見ている。
「大河……!」
我に返った夕はすぐさま振り返った。
大河は壁際に倒れたままだ。
駆け寄ろうとして――足を止める。
知らない男がいる。
助けてもらったからといって、安全な相手だと決まったわけではない。
夕は要を背中へ庇い直し、震えの残る剣を男へ向けた。
「……あなた、何者ですか?」
「ん?」
男が目を丸くした。
「助けていただいたことには感謝します。でも、ここがどこなのかも、あなたが誰なのかも、私たちは何も知りません」
「夕……」
「大丈夫」
小声で要を制しながら、夕は男から目を逸らさない。
男はそんな彼女をしばらく眺めていた。
やがて。
「くっ……」
肩が震える。
「くくく……はっはっはっは!」
「……何がおかしいんですか?」
「いや、悪ぃ悪ぃ。あんだけ震えてたくせに、助かった途端ちゃんと俺を警戒できるとはな。嬢ちゃん、良いパーティーリーダーになれるぜ」
「質問に答えてください」
「おっと。こりゃ手厳しい」
男は楽しそうに口元を吊り上げると、巨大な剣を肩へ担いだ。
そして胸を張る。
「そこまで問われちゃ、名乗らねぇのは男が廃るってもんだ」
「普通に名前だけ教えてもらえれば――」
「まあ聞け」
「……はい?」
止める間もなく、足を広げ、腰を落とした男は、大仰に片手を突き出した。
「お控えなすって! あっしは生まれも育ちも東の片田舎キブカ村。幼き頃から英雄に憧れ、諸国を放浪する冒険野郎で御座います。野宿に酒場、時々牢屋、斬った魔物は星の数、飲んだ酒ならそれ以上!」
「……長い」
要が小さく呟いた。
「まだ途中だ!」
「まだあるんですか!?」
夕が思わず突っ込む。
男は気にした様子もなく、さらに声を張り上げた。
「泣いてる奴がいりゃ首を突っ込み、悪党を見りゃ放ってはおけねぇ。頼まれもしねぇ厄介事まで背負い込むのが、俺の生まれついての悪い癖!! 天下御免の渡り者にして、老若男女に愛される当代一の伊達男!」
「自分で言うんですね……」
「そこ、大事だからな」
男は白い歯を見せ、にやりと笑った。
そして。
肩に担いだ大剣を軽々と持ち上げ、自分の胸元へ親指を向ける。
「よぉく覚えときな」
鈍銀色の髪を揺らしながら、男は誇らしげに名乗りを上げた。
「――《銀帝》ジャレッドとは、俺のことよ!」
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