第12話 はじめての商売
「もちろん! 喜んで!」
こなたの返事が響いた途端、それまでカウンターの前で遠慮がちに様子を窺っていた冒険者たちの空気が、一気に変わった。
「お、俺も頼む!」
「こっちにも一皿!」
「金ならちゃんと払うぞ!」
「押すなって! まだ順番決まってねぇだろ!」
つい先ほどまでレイスであるこなたを警戒し、販売口から距離を取っていたのが嘘のようだった。
誰もがカレーの入った寸胴鍋へ目を向け、鼻腔をくすぐる香辛料の匂いに腹を刺激されている。
探索を終えて休息していた者だけでなく、騒ぎを遠巻きに眺めていた別のパーティーまで集まり始め、販売口の前は瞬く間に人だかりになっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください! ちゃんと人数分ありますから!」
こなたが慌てて声を張る。
「押さなくても逃げません! 一列! とりあえず一列になってください!」
客たちを整理しようとする彼女の横で、ジャレッドは二杯目をよそおうとしていた手を止めたまま、少し名残惜しそうに寸胴鍋を眺めていた。
どうやら本当に、あれだけ大量に作ったカレーを自分で食べるつもりだったらしい。
やがて諦めたように玉杓子を置くと、ふと何かに気づいたようにこなたへ顔を向けた。
「こなた」
「はい? ジャレッドさんはお皿を用意して――」
「これ、ただで配るの?」
「……あ」
そこで初めて、こなたの動きが止まった。
料理を食べてもらえる。
そのことが嬉しすぎて、一番肝心なことを考えていなかった。
これは慈善活動ではない。
こなたが昔から夢見ていたのは、料理を作りながら世界を旅するキッチンカーだ。
つまり本来なら、料理を売らなければ商売にならない。
「そ、そうでした。値段を決めないと」
「決めてなかったのかよ!?」
列の先頭に立っていたルードが思わず突っ込む。
「は、初めてなんですから仕方ないでしょう!」
「初めて?」
「こっちの話です!」
危うく自分が異世界から来たことまで口走りそうになり、こなたは慌てて誤魔化した。
この世界の物価など、こなたにはまるで分からない。
七十年もアルテリアで暮らしていたとはいえ、その生活圏は迷宮最奥の一室だけ。
一般的な宿代も、食事代も、市場で野菜がいくらするのかも知らない。
少し考えた末、こなたは最も身近な現地人へ相談することにした。
「ジャレッドさん」
「なに?」
「このカレー、一皿いくらくらいなら妥当だと思います?」
ジャレッドは一度、自分の食べ終えた皿へ視線を落とした。
炊きたての米。
その上にかかった濃い茶色のカレー。
柔らかな豚肉と野菜。
鼻を近づければ、今も食欲を激しく刺激する香辛料の芳香が立っている。
ほんの数秒考え――。
「白金貨一枚かな」
即答だった。
「…………」
「…………」
「…………」
販売口の前が、水を打ったように静まり返った。
こなたには意味が分からない。
しかしルードをはじめ、この世界の金銭感覚を持つ冒険者たちは違った。
「は、白金貨……?」
「一皿で?」
「いや、払えねぇわけじゃ……いや、やっぱ無理だろ!」
「俺、そんなもん持って迷宮潜らねぇぞ……」
ざわめきが徐々に大きくなる。
中には自分の財布袋を開き、本気で中身を確認し始める者までいた。
その反応を見て、こなたはようやく嫌な予感を覚える。
「……ジャレッドさん」
「うん?」
「ちなみに、その白金貨一枚って、どのくらいの価値なんです?」
「どのくらい……」
ジャレッドが少し考える。
「一か月くらい?」
「一か月?」
「うん」
「いや、いや、何の一か月だよ!?」
ルードの怒声が飛んできた。
ジャレッドがきょとんとする。
「王都で普段使ってる宿なら、一か月くらい泊まれると思うけど」
「それ、どんな宿だ!?」
「普通の宿だよ?」
「絶対普通じゃねぇ!」
ルードが頭を抱えた。
周囲の冒険者たちも、うんうんと力強く頷いている。
どうやら、この場において金銭感覚がおかしいのはジャレッド一人らしい。
こなたは半眼になる。
「ジャレッドさん」
「なに?」
「もしかして、お金持ちです?」
「どうだろう」
「今ので誤魔化せると思います?」
以前、大量の金貨を平然と渡そうとしてきた時点で怪しいとは思っていた。
家名。
洗練された所作。
妙に高性能なマジックバッグ。
そして、白金貨を一皿の食事代として提示する金銭感覚。
(……絶対、ただの冒険者じゃないですよね、この人)
問い詰めたい気持ちはあったが、今は客を待たせている。
こなたは気持ちを切り替え、ルードへ顔を向けた。
「あの、冒険者さん」
「お、おう」
「普通の人が町でご飯を食べるなら、どれくらいなんですか?」
「そうだな……」
ルードは顎髭を撫でながら考え込む。
「場所にもよるが、一人もんなら銀貨一枚も出せば十分だ。大衆食堂なら、パンと汁物、それに肉料理くらい食って腹いっぱいになれる」
「なるほど……」
こなたの頭の中で、無意識に日本での感覚へ置き換わる。
おおよそ千円前後。
そんなものだろう。
「じゃあ、そのくらいでいいんじゃないですかね」
「白金貨じゃなくて?」
「その案は今すぐ忘れてください」
「美味しいのに」
「美味しいからって限度があります!」
まだ納得していないらしいジャレッドを横目に、こなたは少し考える。
幌馬車の食材購入には魔宝石を使った。
なら、客からも魔宝石を受け取れれば、そのまま次の料理の材料代に回せるかもしれない。
「銀貨一枚か……同じくらいの価値の魔宝石でもいいかな」
「いや、それは難しいぞ」
ルードがすぐに首を横へ振った。
「そうなんですか?」
「魔道具に使える程度の魔宝石でも、銀貨一枚じゃ買えねぇ。屑石扱いの小さい奴でも、物によっちゃそれ以上する」
「そうなんだ……」
食材購入端末の中では、D級程度の魔宝石をいくつか使えば大量の食材が買えた。
どうやら一般社会での魔宝石の価値と、あの端末内部での換算は一致していないらしい。
「じゃあ今回は分かりやすく――」
こなたは販売口の向こうへ向き直り、待ち構えている冒険者たちへ笑顔を見せた。
「カレー一皿、銀貨一枚で!」
「よっしゃ!」
「安い!」
「一皿頼む!」
「俺は大盛り! 肉マシマシで!」
「大盛り肉マシマシは勝手に作らないでください!」
歓声と注文が一斉に押し寄せた。
「待って待って! 順番です! お金を持って一列に並んでください!」
こなたは慌てて販売口の前を整理する。
「ジャレッドさん、お皿!」
「もう出してる」
「じゃあ、ご飯を盛って、その上にカレー! 量はさっきジャレッドさんが食べたくらいで!」
「分かった」
そこからは、目が回るような忙しさになった。
もっとも。
実際に目を回すほど忙しいのは、ほとんどジャレッド一人だったのだが。
◇
「はい、次の方どうぞ!」
「俺だ!」
「銀貨一枚です!」
「ここでいいか?」
「ええと……ジャレッドさん!」
「受け取った」
「じゃあ一皿お願いします!」
「今作ってる」
炊きたての米を皿へ盛り、湯気を上げるカレーをたっぷりとかける。
金を受け取り、皿を渡す。
そして、次の客へ。
銀貨がカウンターの端へ一枚、また一枚と積まれていった。
こなたは販売口の横に立ち、列が乱れないよう客を誘導しながら次々に注文を捌いていく。
「はい、そこ! 横入り禁止ですよ!」
「し、してねぇよ!」
「しました! 私、見てましたからね!」
「レイスなのに細けぇな!?」
「レイス関係ないでしょう!」
笑い声が上がる。
ほんの少し前までなら、考えられない光景だった。
誰もこなたを見て身構えていない。
自身の武器へ手を伸ばす者もいない。
ただ料理を待つ客として、普通に彼女と言葉を交わしている。
そんな中。
最初の一皿を受け取ったルードが、少し離れた場所へ腰を下ろした。
大きな身体には、普通の皿がやけに小さく見える。
匙ですくった米とカレーをしばらく観察し、意を決したように口へ運んだ。
「…………っ!」
太い眉が跳ね上がる。
まず最初に広がったのは、複雑な香辛料の刺激だった。
けれど、ただ辛いわけではない。
じっくり炒められた玉ねぎの甘みと、豚バラ肉から溶け出した脂の旨味がそれを包み込み、煮崩れかけたじゃがいもが口の中でほろりとほどけていく。
「……なんだ、これ」
一口目より大きく、二口目をすくう。
今度は米をたっぷり絡めて。
「うっっま……!」
低い声が、思わず広場へ響いた。
「この茶色い汁だけでも美味ぇのに、白い粒と一緒に食うと全然違うぞ!」
夢中で三口目を運びながら、それでも言葉が止まらない。
「肉も野菜も柔らけぇ! 辛いのに、またすぐ次が欲しくなる……なんだこれ、ほんとに!」
その反応を、こなたはカウンターの中からじっと見ていた。
「…………」
気づいたルードと目が合う。
こなたは少しだけ不安そうに、それでも期待を隠しきれない顔で笑った。
ルードはしばらく彼女を見る。
それから。
何も言わず、空いていた左手の親指をぐっと立てた。
「……!」
こなたの表情がぱっと明るくなる。
それだけで十分だった。
続いてカレーを受け取った者たちからも、次々と声が上がり始める。
「からっ! ……でも、美味ぇ!」
「この白い穀物、単体より絶対こっちの方がいいわ」
「この複雑な味と香り、何種類の香辛料を使ってるんだ?」
「肉もっと入ってねぇのか?」
「入ってますから掘り返さないでください!」
「おい、これ本当に銀貨一枚でいいのか!?」
あちこちから驚きや笑い声が重なり、静かだったセーフエリアはいつの間にか食堂のような賑わいに包まれていた。
中には、こなたへ魔法を放った男もいた。
少し離れた場所で無言のまま皿を抱え、一心不乱に匙を動かしている。
「…………」
こなたが見ていることに気づくと男は動きを止めた。
一瞬、気まずそうに視線がぶつかる。
やがて男は何も言わず、もう一口カレーを食べた。
そして、ほんの僅かに頭を下げる。
謝罪なのか、料理への礼なのか。
こなたには分からない。
それでも。
悪い気はしなかった。
「次の方ー!」
明るく声を上げる。
すると、すぐに客がカウンターの前へ進んできた。
◇
忙しさの中で。
ジャレッドもまた、少しずつ変わっていた。
最初はこなたに言われるまま、ご飯を盛り、カレーをかけ、客へ皿を渡していただけだった。
しかし何十皿と繰り返すうちに、動きが滑らかになっていく。
「肉多めで頼む!」
「それだと後の人の分が減るから駄目」
「そこをなんとか!」
「駄目」
「銀帝、意外と厳しいな!?」
「みんな同じ方がいいでしょう?」
口調はいつも通り淡々としている。
それでも。
料理を受け取った冒険者が嬉しそうに礼を言うたび、ジャレッドの口元にはほんの少しだけ柔らかなものが浮かんでいた。
「美味かったぞ!」
「うん」
「また食わせてくれ!」
「こなた次第かな」
「そこでわたしに振るんですか!?」
慣れない作業に追われ、忙しさに息をつく暇もない。
それでも、ジャレッドは不思議と嫌ではなかった。
料理を作った時とは、また少し違う。
自分の作った料理を手渡し、誰かがそれを美味しそうに食べる。
その光景を眺めることが、ジャレッド自身にも少しずつ楽しくなっているようだった。
そして。
そんな彼の姿を、こなたも嬉しそうに眺めていた。
夢にまで見た光景だった。
旅先で店を開き、料理の匂いにつられて人が集まる。
たわいのない会話を交わし代金を受け取り、笑いながら食べてくれる。
「また食べたい」と言ってもらえる。
五十二年前。
神狐にキッチンカーが欲しいと頼んだ時、頭の中に思い描いていたものと、よく似ていた。
(……やっと)
胸の奥が、温かくなるような感覚があった。
(やっと、できたんだ)
生きている間には叶えられなかった夢。
死んだ後で、思いもよらない相棒と一緒に、ようやく夢の最初の一歩を踏み出すことができた。
本当に嬉しかった。
だからこそ、ほんの僅かに胸の奥へ、別の感情が混じった。
「…………」
こなたは自分の手を見る。
半透明の指。
客が差し出す銀貨を受け取ることはできない。
完成した料理を皿へ盛ることも。
カウンターの向こうへ差し出すことも。
ジャレッドが忙しそうに何枚もの皿を運ぶ横で、自分にできるのは言葉を掛けることだけだった。
もちろん、それでもいい。
ジャレッドがいてくれるから、この景色を見ることができた。
分かっている。
分かっているのに――。
(……私も、自分の手で渡してみたかったな)
ほんの少しだけ、悔しかった。
客から代金を受け取り。
出来たての料理を差し出して。
笑顔で、『ありがとうございました』
そう言ってみたかった。
「…………」
寂しさをごまかすように、こなたは透けた手を握ろうとする。
当然、何も掴めない。
その時だった。
――とくん。
「……え?」
不意に。
何かが、こなたの奥で脈打った。
心臓ではない。
今の彼女に、そんなものはもう存在しない。
それなのに確かに何かが響いた。
――とくん。
もう一度。
今度は、はっきりと。
「これは……」
こなたが周囲を見回す。
客たちは変わらずカレーを食べている。
ジャレッドも新しい皿へご飯を盛っている。
異変に気づいた様子はない。
けれど。
こなたには分かった。
自分ではない。
幌馬車から伝わる、不思議な感覚だった。
こなたはこの不思議な感覚を生前に何度か感じていた。
「…………」
「こなた?」
ジャレッドの声。
気づけば、手が止まっていたらしい。
「どうしたの?」
「え……いや、その……」
こなたは戸惑いながら、幌馬車の内部へ意識を向ける。
ジャレッドが怪訝そうに首を傾げた。
こなたは返事もせず、周囲を確かめるように視線を巡らせる。
「ジャレッドさん」
「うん」
「あの……」
一度、言葉を切る。
こなた自身も、まだ信じられずにいた。
死んでしまったから、この恩恵も止まるものだと思っていた。
どうやら、それは大きな思い違いだったらしい。
「この馬車……また、成長したみたいです」




