第10話 カレーの匂い
「それじゃあ、始めましょうか」
販売口の向こうに集まり始めた冒険者たちを一瞥し、こなたはどこか楽しげに宣言した。
先ほどまで自分へ武器を向けていた者もいる。
その視線にはまだ警戒が混じっているものの、今はそれ以上に、見慣れない幌馬車の内部と調理台へ向けられる好奇心の方が強かった。
何を始めるつもりなのか。
そんな無言の問いを向けられているのが、こなたにも分かる。
「まずはご飯からいきましょう」
「この前みたいに土鍋?」
ジャレッドが棚へ意識を向ける。
「今日は量が違いますからね。さすがに土鍋じゃ効率が悪いです」
こなたが示したのは、調理場の奥に据えられた大きな箱型の魔道具――ではなく、彼女の世界で見慣れた業務用炊飯器だった。
銀色の外装に、分厚い蓋。
一度に大量の米を炊くことを前提に作られた、大型の炊飯器である。
ジャレッドはその前まで歩いていき、上から下までしげしげと眺めた。
「……こんなのあったんだ」
「ありましたよ」
「この前は使わなかったよね」
「あの時はジャレッドさんだけでしたからね。少量なら土鍋の方が扱いやすいんです」
ジャレッドが販売口の向こうへ視線を流した。
冒険者たちはまだ遠巻きにこちらを眺めている。
「本当にそんなに作る必要がある?」
「あります。私を信じてください!」
こなたは絶対の自信があるらしい。
彼女が何を企んでいるのか分からない。
だが、今のジャレッドにとって重要なのは、その企みよりも目の前の料理だった。
大きなボウルへ米を移し、水を張る。
白い粒の隙間へ指を沈めると、以前こなたから教わった通り、掌全体を使って優しく米を研いでいく。
しゃっ、しゃっ、と小気味よい音が調理場に響いた。
「……何やってるんだ?」
販売口の向こうから声がする。
「白い砂利みたいのが見えたが……」
「あれ食い物なのか?」
「知らねぇ」
外の冒険者たちが、先ほどより僅かに距離を詰めていた。
こなたはそれに気づいたが、何も言わない。
ジャレッドも聞こえているはずなのに、米を研ぐ手を止めなかった。
「だいぶ慣れましたね」
「この前やったから、教わったことは覚えるよ」
「さすがですねぇ」
何度か水を替え、濁りが薄くなったところで米を炊飯釜へ移す。
今回は量が多い。
水加減も、前回の土鍋とは勝手が違う。
それでも基本は同じだと伝えると、ジャレッドは迷うことなく計量を進めていった。
蓋を閉じ。
こなたの指示でスイッチを押す。
低い駆動音が鳴り、炊飯器が静かに動き始めた。
「これで放っておけば炊けます」
「……便利だね」
「文明って素晴らしいでしょう?」
「うん。こなたの世界の文明の方が進んでる気がする」
そんなたわいない会話を続けながら、ジャレッドは次の食材へ手を伸ばす。
玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
豚バラ肉。
調理台の上には、先ほど購入した食材が所狭しと並んでいる。
「まずは下ごしらえですね。食材を切っていきましょう」
「うん、わかった」
ジャレッドは腰に下げた剣を、スラリと引き抜くと上段に構えた。
「ちょ、ちょ! そんなもので食材を斬ろうとしないでください!」
「え? ダメなの?」
慌てて割って入るこなたに、首を傾げる天然剣士。
「そこに立ててあるスタンドに包丁がありますから、それを使ってください!」
ジャレッドが包丁を手に取りまじまじと眺める。
片刃の刃が独特の鈍い光を放っている。
「珍しい形のナイフだね。よく切れそうだけど、魔物相手には使えないかな」
「そんな物騒な事に使う道具じゃないですから……それは食材を切るための調理器具です」
「なるほど」
「はぁ……とりあえず、玉ねぎは少し薄めに。にんじんとじゃがいもは適当な大きさで切ってください」
「こんな感じ?」
まな板の上へ置いた玉ねぎへ刃を入れる。
とん。
とん、とん。
迷いがない。
一定の幅で刃が落ち、玉ねぎが次々と薄切りになっていく。
こなたは思わず感心した。
「やっぱり、包丁扱うの上手いですね」
「剣なら毎日使ってたから」
「包丁を剣の仲間みたいに言うのやめてもらえます?」
「同じじゃない?」
「刃物ってところしか合ってません」
「十分似てる気がするけど」
そう言いながらも、刃先は寸分狂わない。
にんじんは乱切り。
じゃがいもも食べやすい大きさへ。
豚バラ肉は一口大に切り分けられていく。
動きに無駄がなく、危なげもない。
身につけた剣術の感覚が、こんなところで役に立つとは本人も思っていなかっただろう。
やがて、山のように積まれていた食材が一通り切り終わる。
「では、いよいよ鍋です」
こなたの声に、ジャレッドが大きな寸胴鍋を火へ掛けた。
まず投入したのは、塊のバター。
熱を受けた黄色い塊がゆっくりと形を失い、鍋底一面へと溶け広がっていく。
ほどなくして、濃厚で甘い乳脂肪の香りが立ち昇った。
「……もういい匂い」
「まだバターだけですよ」
「でも美味しそう」
「その感想、調理開始から早すぎます」
溶けたところへ、大量の玉ねぎを一気に入れる。
ジュワァッ――。
水分が弾ける音が響き、白かった玉ねぎの表面をバターが艶やかに包んでいった。
大きな木べらで底から返すたび、熱気と一緒に甘い香りが広がっていく。
「……なんだ、このたまらん匂いは」
外で誰かが呟いた。
「さっきの白いのとは別だぞ」
「腹にくるな……」
ぽつぽつと会話が聞こえ始める。
最初は距離を取っていた冒険者たちも、気づけば何人かが販売口の近くまで寄ってきていた。
けれど、こなたはまだ振り返らない。
今は鍋の中の方が大事だった。
「焦がさないように、ゆっくり混ぜてください」
「これ、どこまでやるの?」
「玉ねぎが飴色になるくらいまでです」
「時間かかりそうだね」
「美味しいものには手間が掛かるんです」
鍋の底を擦るように、ジャレッドが木べらを動かし続ける。
火を通すほど玉ねぎはしんなりと柔らかくなり、白から透明へ、そこから少しずつ黄金色へと変わっていった。
バターだけだった香りも、いつしか玉ねぎ自身の甘さを含んだ、より深いものへ変わっている。
ジャレッドの表情も、いつの間にか真剣そのものだった。
「……ジャレッドさん」
「なに?」
「口元」
「?」
「よだれ垂れそうですよ」
言われて初めて、自分の唇の端へ触れる。
「……危なかった」
「料理人が調理中に負けないでください」
「いい匂いなんだから仕方ないよ」
まるで反省していない。
こなたは呆れながらも、笑いを堪えきれなかった。
十分に火が入ったところで、次は豚バラ肉。
鍋へ投入した途端、玉ねぎとは違う力強い音が鳴った。
じゅううううっ!
肉から脂が溶け出し、バターと玉ねぎに混ざり合う。
香ばしい肉の匂いが一気に加わった瞬間、販売口の外がざわめいた。
「おい」
「……なんだよ」
「もう少し近く行ってもいいと思うか?」
「知るか。俺に聞くな」
「でも、あれ絶対うまいやつだろ」
その声を聞き、こなたはようやく外へ視線を向けた。
さっきより明らかに人数が増えている。
誰もこちらへ声を掛けてはこない。
けれど、揃いも揃って鍋へ目を向けていた。
中には、こなたへ魔法を放った男までいる。
腕を組み、不機嫌そうな顔をしているものの、鼻だけは正直に何度も香りを追っていた。
(ふふ……効いてる、効いてる)
こなたの口元が緩む。
「次、にんじんとじゃがいもをお願いします」
野菜を加え、肉の脂をまとわせるように全体を炒めていく。
ある程度火が回ったところで、大量の水を注いだ。
鍋の中の音が変わり、食材がゆっくりと煮汁の中へ沈んでいく。
「ここからは少し待ちですね」
「どれくらい?」
「じゃがいもが柔らかくなるくらいまで」
「味見は?」
「まだです」
「……まだか」
「残念そうな顔しない」
蓋をし、しばらく煮込む。
時間が経つにつれ、肉と野菜の旨味を含んだ湯気が立ち昇り、辺りには素朴ながら食欲を刺激する香りが漂い始めた。
それでも、まだ完成ではない。
むしろ、ここからが本番だった。
◇
「そろそろですね」
こなたの声で、ジャレッドが蓋を開ける。
ぶわり。
熱い蒸気が一気に溢れ出した。
にんじんもじゃがいもも、十分に火が通っている。
「じゃあ、火を弱めてください」
「分かった」
「次に――これです」
こなたが示したのは、箱から取り出した茶色い固形物。
カレールウ。
ジャレッドは一片を持ち上げ、顔の近くへ寄せた。
「……これ、すごくいい匂いがする。香辛料かな? 今まで嗅いだことない匂いだ」
鼻先へ近づけたまま、しばらく眺める。
そして。
「これ、このまま食べてもいい?」
「駄目です」
「少しくらい」
「駄目」
「一欠片だけ」
「駄目ですってば!」
こなたに強く止められ、ジャレッドは名残惜しそうにルウを鍋の上へ移動させた。
「食べられないわけじゃないんでしょう?」
「食べられないわけじゃありませんけど、味が濃すぎて美味しいものではないですよ? ルウは作った煮汁に入れて初めて真価が発揮されるのです」
「……分かった」
渋々といった様子で、固形ルウを一つずつ鍋へ落としていく。
熱い煮汁の中へ沈んだ茶色い塊が、ゆっくりと表面から崩れ始めた。
「焦げないように混ぜてください」
木べらを動かす。
一周。
二周。
煮汁の色が少しずつ変化していく。
薄かった色合いが濃くなり、とろみを帯び、肉と野菜を包み込んでいく。
そして――。
香りが弾けた。
「…………!」
ジャレッドの手が止まりかける。
それまで鍋から漂っていたバターや玉ねぎ、豚肉の香りとは、まるで種類が違った。
幾つもの香辛料が重なり合った刺激的な匂い。
鼻を抜けるだけで腹の奥を強く刺激し、まだ何も口にしていないのに唾液が滲んでくる。
甘く炒めた玉ねぎ。
豚肉から溶け出した脂。
そこへ香辛料の複雑な香りが絡みつき、調理場の空気そのものを塗り替えていった。
「……なに、これ」
ジャレッドが呆然と呟く。
「これがカレーです」
「まだ食べてないのに、もう美味しい」
「ふふ、この匂いたまらないですよね」
「うん! たまらない」
即答だった。
その時。
販売口の向こうから、誰かが盛大に息を呑む音が聞こえた。
こなたが外を見る。
「…………」
いつの間に。
カウンターの前に、冒険者たちが集まっていた。
遠巻きに見ているどころではない。
ほとんど全員が、少しでも鍋に近い位置へ寄ってガン見している。
「近っ!」
思わず声が漏れた。
「いや……その……」
先ほど仲裁した大柄な男が気まずそうに咳払いした。
「別に、何かしようってわけじゃないんだ。ただ、匂いが……」
「す、すげぇな、それ」
「何の料理なんだ?」
誰もこなたを見ていない。
全員の目が鍋へ集中している。
先ほどまでなら、レイスが近くにいるというだけで身構えていた者たちでさえ、今は警戒よりも食欲の方が勝っているらしい。
こなたはその光景を見て、思わず笑ってしまった。
「もう少し待ってくださいね。そろそろ完成ですから」
何気なく返した、その一言。
すると冒険者たちが僅かにざわついた。
「……お、俺たちも食えるのか?」
「さあ?」
こなたはすぐには答えなかった。
いたずらっぽく笑いながら、再び鍋へ意識を戻す。
◇
その頃には炊飯も終わっていた。
炊飯器の蓋を開けると、白い湯気と一緒に炊きたての米の香りが広がる。
大量に炊き上がった白米。
粒はふっくらとして艶があり、しゃもじを入れれば柔らかくほぐれていった。
「この匂いも好き」
「覚えましたね」
「うん」
皿へ米を盛り付ける。
その脇へ。
ジャレッドが大きな玉杓子を使い、完成したカレーをたっぷりとかけた。
白い米の半分を覆う、照りのある濃い茶色のカレー。
じっくり煮込まれた具材には濃いカレーがたっぷりと絡み、見るからに食欲をそそる。
熱々の湯気とともに、先ほどよりも濃い香りが立ち昇り、ジャレッドの視線が皿から離れなくなった。
「これが……カレー」
こなたは満足そうに出来栄えを確認する。
「では、さっそく実食といきましょう!」
少しだけ大袈裟に、片手を差し出す仕草をした。
「どうぞ召し上がれ」
「うん!」
ジャレッドが匙を手に取る。
白い米とカレーを一緒にすくい上げた。
販売口の向こう。
冒険者たちが、固唾をのんでジャレッドの動きを追っている。
誰も喋らない。
まるで高難度の魔物との戦闘でも見守るかのような緊張感だった。
匙が口へ運ばれる。
「…………」
一度。
二度。
目を閉じ、確かめるようにゆっくりと咀嚼する。
そして、ジャレッドは名残惜しそうにゆっくりと飲みこんだ。
こなたも黙って反応を待った。
外の冒険者たちも、誰一人として声を発しない。
「…………」
長い。
あまりにも反応がない。
「ジャレッドさん?」
こなたが少しだけ不安になった、その時だった。
すっ――。
「……え?」
ジャレッドの頬を。
一筋の涙が、静かに伝った。
「……銀帝が涙を流した……だと」
誰かがぽつりと零した言葉に幌馬車の内外が、完全な沈黙に包まれた。




