↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
なつみ35歳•BBA  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/15

第9話「資格の重さ」

1


六月の終わり、みほから「話したいことがある」とLINEが来た。


「ソフィアンガールズ会議室」じゃなくて、個別のトークだった。それだけで、なつみは少し身構えた。


なつみ「どうしたの」


みほ「今度会えたら話す。深刻な話じゃないんだけど、なんか整理したくて」


なつみ「いつでもいいよ」


みほ「じゃあ来週、お茶しよ」


土曜日、二人は代官山のカフェで会った。麻衣は誘わなかった。なんとなく、二人だけで話す方がいい気がした。


2


「実はさ」とみほは切り出した。「この間、大学の時の同期に会ったんだよね」


「児相時代の同僚?」


「そう。会計年度任用職員で一緒だった子」


みほは、コーヒーを一口飲んだ。


「その子、今どうしてるの」


「老人福祉施設で働いてる」


なつみは少し驚いた。「臨床心理士なのに?」


「そう」とみほは言った。「臨床心理士の資格持ってても、正規で雇ってくれるところなんて、ほぼないんだよね。会計年度任用職員から正規のルートもないし。正規公務員になるには地方公務員の試験受け直すしかない」


「そうなんだ」


「その子も試験受けようとしたけど、年齢制限とか色々あって、結局諦めたんだって。それで、資格を活かせる仕事を探したら、老人保健施設くらいしかなかったって」


3


「老人保健施設の心理職って、何するの」となつみが聞いた。


「認知症の方の心理検査とか、リハビリのサポートとか、一応専門的な仕事もあるんだけど」とみほは言った。「その子曰く、実際は違うって」


「違う?」


「週5で入っても、正社員にはなれない。派遣か直接雇用のパートみたいな扱いで。しかも人手が足りないから、心理職でも普通に介護の手伝いをさせられるんだって」


「介護の手伝い」


「移乗とか、下の世話とか」とみほは言った。「その子、笑いながら『もう介護職員みたいなもんだよ』って言ってた」


なつみは何も言えなかった。


4


「その子、笑ってた」とみほは続けた。「本当に、なんでもないことみたいに笑ってた。私、それ見て、なんか、ぞっとした」


「ぞっとした?」


「私もいつか、あんな風に笑うのかなって」


なつみは、みほの顔を見た。いつも冗談ばかり言っているみほが、今日は違う顔をしていた。


「臨床心理士の資格ってさ」とみほは言った。「五年ごとに更新しなきゃいけないんだよね。研修受けたり、ポイント貯めたり、お金もかかる」


「そうなんだ」


「私、次の更新、どうしようか迷ってる」


「更新しないってこと?」


「わかんない」とみほは言った。「今の事務派遣の仕事に、資格なんて関係ないし。更新するだけ無駄なんじゃないかって、思う時がある」


5


「でも」とみほは続けた。「更新しないって決めたら、なんか、完全に諦めたことになる気がして。それも嫌なんだよね」


「みほは、資格取るのすごく頑張ったもんね」


「うん」とみほは言った。「大学院まで行って、実習して、試験受けて。あの頃は、これで一生食べていけると思ってた」


「今は違う仕事してるけど、それでも持っておきたい資格ってこと?」


「そうかもしれない」とみほは言った。「でも、正直、求人見ると、老人保健施設ばっかり出てくるんだよね。たぶん、介護込みなんだろうなって」


なつみは、ハローワークで言われた言葉を思い出した。介護。清掃。保険の販売員。


「みほも、行き着く先は同じなのかもね」となつみは、静かに言った。


みほは少し笑った。「そうかもね」


6


「私たち、それぞれ全然違うルート通ってきたのに」とみほが言った。「なつみは上智出て派遣、私は大学院出て心理士。それなのに、最終的に見えてくる選択肢が、なんか同じところに集まっていく気がする」


「介護」


「介護」とみほは繰り返した。「専門性とか、学歴とか、資格とか、関係ないのかもって思う時がある」


なつみは、コーヒーカップを見つめた。


「それって、おかしいことだよね」となつみは言った。


「おかしいよ」とみほは言った。「おかしいけど、なんか、そういうもんなんだろうなって思っちゃう自分もいる」


そういうもんだ。なつみがいつも言っている言葉を、みほの口から聞くのは、なんだか不思議な感じがした。


7


「更新、するの?しないの?」となつみが聞いた。


みほは少し考えた。


「する」とみほは言った。「意味ないかもしれないけど、する。せっかく取った資格だし、いつか使う時が来るかもしれないから」


「いつか」


「うん、いつか」とみほは言った。「そのいつかが来るかどうかは、わかんないけどね」


なつみは頷いた。


「私も、まだ介護か清掃か保険の販売員か、決めてない」となつみは言った。「まだいつか使える何かがあるんじゃないかって、ちょっと期待してる」


「なつみもそうなんだ」


「うん」


二人は少しの間、黙ってコーヒーを飲んだ。


8


「なんか、暗い話になっちゃった」とみほが言った。「ごめんね」


「暗くないよ」となつみは言った。「話してくれてありがとう」


「なつみになら話せると思って」


「いつでも話して」


みほは少し笑った。今度の笑顔は、さっきよりも自然だった。


「スコーン食べよう」とみほが言った。


「食べよう」


二人は追加でスコーンを頼んだ。運ばれてきたスコーンは、温かくて、バターの匂いがした。


9


家に帰って、なつみはスマホを開いた。


「ソフィアンガールズ会議室」に送った。


なつみ「今日みほと会って、色々話した」


麻衣「どうしたの?」


みほ「言っていいよ、なつみ」


なつみ「みほの元同僚が老人福祉施設で働いてて、心理士なのに介護の手伝いもしてるって話」


麻衣「え……」


みほ「資格あっても、結局そこに行き着くのかもって思って」


麻衣「なつみもハロワで介護勧められてたよね」


なつみ「うん。二人とも、同じところに向かってるのかもね」


みほ「なんか笑えるよね、こういうの」


麻衣「笑えないよ……」


なつみ「笑えなくもないよ。三人でいつか介護施設で働いてたりして」


みほ「それ、それでちょっと楽しそうかも」


麻衣「シフト同じにしてもらお」


なつみ「休憩時間にスコーン食べよう」


みほ「絶対それやろう」


三人で笑い合った。


冗談だった。でも、冗談じゃないかもしれないという予感が、なつみの中に、少しだけ残っていた。


10


その夜、なつみはベッドに横になりながら、みほの言葉を思い出していた。


専門性とか、学歴とか、資格とか、関係ないのかもって思う時がある。


なつみも、同じことを感じていた。上智も、フランス語の弁論大会も、十年の派遣経験も、正社員としての経験も、この先の選択肢を大きく変えてはくれないかもしれない。


それでも、となつみは思った。


みほが資格を更新すると決めたように、なつみもまだ、何かを諦めたわけじゃなかった。


いつか使える日が来るかどうかは、わからない。わからないけど、今すぐ全部を手放す必要もない。


なつみは目を閉じた。


明日も、また選択肢を探す一日が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。