第9話「資格の重さ」
1
六月の終わり、みほから「話したいことがある」とLINEが来た。
「ソフィアンガールズ会議室」じゃなくて、個別のトークだった。それだけで、なつみは少し身構えた。
なつみ「どうしたの」
みほ「今度会えたら話す。深刻な話じゃないんだけど、なんか整理したくて」
なつみ「いつでもいいよ」
みほ「じゃあ来週、お茶しよ」
土曜日、二人は代官山のカフェで会った。麻衣は誘わなかった。なんとなく、二人だけで話す方がいい気がした。
2
「実はさ」とみほは切り出した。「この間、大学の時の同期に会ったんだよね」
「児相時代の同僚?」
「そう。会計年度任用職員で一緒だった子」
みほは、コーヒーを一口飲んだ。
「その子、今どうしてるの」
「老人福祉施設で働いてる」
なつみは少し驚いた。「臨床心理士なのに?」
「そう」とみほは言った。「臨床心理士の資格持ってても、正規で雇ってくれるところなんて、ほぼないんだよね。会計年度任用職員から正規のルートもないし。正規公務員になるには地方公務員の試験受け直すしかない」
「そうなんだ」
「その子も試験受けようとしたけど、年齢制限とか色々あって、結局諦めたんだって。それで、資格を活かせる仕事を探したら、老人保健施設くらいしかなかったって」
3
「老人保健施設の心理職って、何するの」となつみが聞いた。
「認知症の方の心理検査とか、リハビリのサポートとか、一応専門的な仕事もあるんだけど」とみほは言った。「その子曰く、実際は違うって」
「違う?」
「週5で入っても、正社員にはなれない。派遣か直接雇用のパートみたいな扱いで。しかも人手が足りないから、心理職でも普通に介護の手伝いをさせられるんだって」
「介護の手伝い」
「移乗とか、下の世話とか」とみほは言った。「その子、笑いながら『もう介護職員みたいなもんだよ』って言ってた」
なつみは何も言えなかった。
4
「その子、笑ってた」とみほは続けた。「本当に、なんでもないことみたいに笑ってた。私、それ見て、なんか、ぞっとした」
「ぞっとした?」
「私もいつか、あんな風に笑うのかなって」
なつみは、みほの顔を見た。いつも冗談ばかり言っているみほが、今日は違う顔をしていた。
「臨床心理士の資格ってさ」とみほは言った。「五年ごとに更新しなきゃいけないんだよね。研修受けたり、ポイント貯めたり、お金もかかる」
「そうなんだ」
「私、次の更新、どうしようか迷ってる」
「更新しないってこと?」
「わかんない」とみほは言った。「今の事務派遣の仕事に、資格なんて関係ないし。更新するだけ無駄なんじゃないかって、思う時がある」
5
「でも」とみほは続けた。「更新しないって決めたら、なんか、完全に諦めたことになる気がして。それも嫌なんだよね」
「みほは、資格取るのすごく頑張ったもんね」
「うん」とみほは言った。「大学院まで行って、実習して、試験受けて。あの頃は、これで一生食べていけると思ってた」
「今は違う仕事してるけど、それでも持っておきたい資格ってこと?」
「そうかもしれない」とみほは言った。「でも、正直、求人見ると、老人保健施設ばっかり出てくるんだよね。たぶん、介護込みなんだろうなって」
なつみは、ハローワークで言われた言葉を思い出した。介護。清掃。保険の販売員。
「みほも、行き着く先は同じなのかもね」となつみは、静かに言った。
みほは少し笑った。「そうかもね」
6
「私たち、それぞれ全然違うルート通ってきたのに」とみほが言った。「なつみは上智出て派遣、私は大学院出て心理士。それなのに、最終的に見えてくる選択肢が、なんか同じところに集まっていく気がする」
「介護」
「介護」とみほは繰り返した。「専門性とか、学歴とか、資格とか、関係ないのかもって思う時がある」
なつみは、コーヒーカップを見つめた。
「それって、おかしいことだよね」となつみは言った。
「おかしいよ」とみほは言った。「おかしいけど、なんか、そういうもんなんだろうなって思っちゃう自分もいる」
そういうもんだ。なつみがいつも言っている言葉を、みほの口から聞くのは、なんだか不思議な感じがした。
7
「更新、するの?しないの?」となつみが聞いた。
みほは少し考えた。
「する」とみほは言った。「意味ないかもしれないけど、する。せっかく取った資格だし、いつか使う時が来るかもしれないから」
「いつか」
「うん、いつか」とみほは言った。「そのいつかが来るかどうかは、わかんないけどね」
なつみは頷いた。
「私も、まだ介護か清掃か保険の販売員か、決めてない」となつみは言った。「まだいつか使える何かがあるんじゃないかって、ちょっと期待してる」
「なつみもそうなんだ」
「うん」
二人は少しの間、黙ってコーヒーを飲んだ。
8
「なんか、暗い話になっちゃった」とみほが言った。「ごめんね」
「暗くないよ」となつみは言った。「話してくれてありがとう」
「なつみになら話せると思って」
「いつでも話して」
みほは少し笑った。今度の笑顔は、さっきよりも自然だった。
「スコーン食べよう」とみほが言った。
「食べよう」
二人は追加でスコーンを頼んだ。運ばれてきたスコーンは、温かくて、バターの匂いがした。
9
家に帰って、なつみはスマホを開いた。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「今日みほと会って、色々話した」
麻衣「どうしたの?」
みほ「言っていいよ、なつみ」
なつみ「みほの元同僚が老人福祉施設で働いてて、心理士なのに介護の手伝いもしてるって話」
麻衣「え……」
みほ「資格あっても、結局そこに行き着くのかもって思って」
麻衣「なつみもハロワで介護勧められてたよね」
なつみ「うん。二人とも、同じところに向かってるのかもね」
みほ「なんか笑えるよね、こういうの」
麻衣「笑えないよ……」
なつみ「笑えなくもないよ。三人でいつか介護施設で働いてたりして」
みほ「それ、それでちょっと楽しそうかも」
麻衣「シフト同じにしてもらお」
なつみ「休憩時間にスコーン食べよう」
みほ「絶対それやろう」
三人で笑い合った。
冗談だった。でも、冗談じゃないかもしれないという予感が、なつみの中に、少しだけ残っていた。
10
その夜、なつみはベッドに横になりながら、みほの言葉を思い出していた。
専門性とか、学歴とか、資格とか、関係ないのかもって思う時がある。
なつみも、同じことを感じていた。上智も、フランス語の弁論大会も、十年の派遣経験も、正社員としての経験も、この先の選択肢を大きく変えてはくれないかもしれない。
それでも、となつみは思った。
みほが資格を更新すると決めたように、なつみもまだ、何かを諦めたわけじゃなかった。
いつか使える日が来るかどうかは、わからない。わからないけど、今すぐ全部を手放す必要もない。
なつみは目を閉じた。
明日も、また選択肢を探す一日が始まる。




