第8話「チーフの椅子」
1
正社員の期間は2ヶ月だったけれど、その前の派遣との合算で1年雇用保険を払っていたので、ありがたいことに失業保険をもらえることになった。
ハローワークの窓口は、混んでいて椅子は全部埋まっていた。
平日の午前中。若い男性、五十代くらいの女性、なつみと同じくらいの年齢に見える男性。みんな同じように、順番を待っていた。
「松本さん、どうぞ」
呼ばれて、なつみは窓口に座った。担当は四十代くらいの女性だった。名札には「相談員」とだけ書いてあった。
「今日は職業訓練のご相談ということでご予約いただいたんですね。」
「はい」となつみは言った。「ウェブデザインか、IT関係の講座を受けたいと思っています」
担当者は少し眉を寄せた。パソコンの画面を見て、それからなつみの顔を見た。
「松本さん、おいくつでしたっけ」
「三十六です」
担当者は小さく息を吐いた。
2
「それはダメです」
はっきりと、そう言われた。
「ダメ、ですか」
「この世界、厳しいんです」と担当者は言った。「ウェブデザインもIT関係も、大学出てからずっとその道でやってきた人たちが、三十代でチーフになれるのは一部署たった一人なんです。その下は、みんな派遣かバイトです」
「はい」
「松本さんの年齢は、そのチーフの年齢なんですよ。大学出て新卒でこの業界に入った人たちの、大半がもう辞めている年齢なんです」
なつみは黙って聞いていた。
「未経験から入って、この歳から追いつけると思いますか」
「……厳しい、ですよね」
「厳しいです。正直に言います。松本さんの年齢と経験だと、この分野は難しいです」
なつみはその言葉を、頭の中で繰り返した。あなたの歳はチーフの年齢。新卒で入った人の大半が辞めている年齢。
その担当者自身も、ハローワークの派遣職員だということを、なつみは思い出した。彼女もまた、誰かに「その歳では」と言われたことがあるのだろうか。
聞かなかった。聞く場面じゃなかった。
3
「じゃあ、何がいいと思いますか」となつみは聞いた。
担当者はパソコンの画面をいくつかクリックした。
「介護職員初任者研修はいかがですか。人手不足の業界ですし、資格取得後の就職率も高いです」
「介護、ですか」
「はい。あとは、清掃業も需要があります。それから、保険の販売員。これも未経験可の求人が多いです」
なつみはその三つを、頭の中で並べてみた。介護。清掃。保険の販売員。
「英語やフランス語は活かせないですか」
担当者は少し困った顔をした。
「翻訳や通訳の仕事は、今、AIがかなり進出しています。文書作成も同じです。それにどこの企業も若い女性を欲しがります。正直、これから先はどんどん厳しい分野になってきています」
なつみは何も言えなかった。
英語もフランス語も、なつみが十年以上かけて磨いてきたものだった。上智の英語学科、フランス語の弁論大会で三位。語学研修留学あり。それが、AIに取って代わられていく分野だと言われた。
「わかりました」となつみは言った。「少し、考えます」
4
ハローワークを出て、なつみは駅に向かって歩いた。
十二月の風が冷たかった。空はよく晴れていて、雲ひとつなかった。
英語もフランス語も、文書作成も、年齢だけじゃなくてAIに取られていく。介護か、清掃か、保険の販売員。
なつみはその選択肢を、何度も頭の中で並べ直した。どれも、なつみが今まで積み上げてきたものとは、関係のない仕事だった。
三十六年生きてきて、積み上げてきたものが、この先何にも使えないかもしれない。
その事実が、なつみの中で、じわじわと重くなった。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「ハロワでウェブデザインの相談したら、めちゃくちゃ止められた」
みほ「え、なんで」
なつみ「その業界、大卒でずっとやってきた人がやっと30代でチーフになれるかどうからしい。私の歳は、その大半が辞めてる歳だって」
麻衣「厳しいこと言うね……」
なつみ「英語もフランス語もAIに取られてくって言われた」
みほ「それ、なつみの得意なやつ全部じゃん」
なつみ「そう。介護か清掃か保険の販売員を勧められた」
麻衣「なつみ、それで大丈夫?」
なつみ「わかんない。この先どういう仕事ならできるんだろうって、ちょっと不安になった」
みほ「そりゃ不安になるよ……」
なつみはスマホをしまった。答えは、まだ出なかった。
5
その帰り道、なつみはふと、九段下で電車を降りた。
用事があったわけじゃない。ただ、なんとなく、母校の前を歩きたかった。
改札を出ると、靖国通りが見えた。ケヤキの葉はもうほとんど落ちていた。なつみが以前働いていた十八階建てのビルは、変わらずそこに建っていた。
なつみは少し迷ってから、ビルの中に入った。エントランスまでなら、部外者でも入れる。エレベーターホールで、知り合いに会うことはないだろうと思っていた。
エレベーターの扉が開いた。
中から出てきたのは、里奈だった。
6
「あれ、先輩?」
里奈は驚いた顔をしていた。髪型が少し変わっていた。前より大人びて見えた。
「久しぶり」となつみは言った。「元気にしてた?」
「元気です! 先輩こそ、どうしたんですか、こんなところで」
「ちょっと、懐かしくて寄ってみた」
「そうなんですね」と里奈は言った。少し照れたような顔をした。
二人はエントランスの隅で、少し立ち話をすることになった。
「先輩、今何してるんですか」
「今、無職。この間、正社員になった会社を辞めた」
「え、正社員になったんですか?」
「うん。でも、体調崩して、辞めた」
里奈は「そうなんですね」とだけ言った。深くは聞かなかった。その気遣いに、なつみは少しほっとした。
7
「里奈ちゃんは、まだあの受付にいるの」
「います」と里奈は言った。「でも」
「でも?」
里奈は少し言葉を選ぶような顔をした。
「最近、新しい子が入ったんです。私が教育係になって」
なつみは、その言葉に、少しだけ息を止めた。
「そうなんだ」
「はい。二十歳の子です。飲み込みも早くて、もう一人で来客対応できるくらいで」
「里奈ちゃんが教えたの」
「はい。私が」
里奈の顔は、笑っていた。でも、その笑顔の中に、なつみが三年前に見たものと同じ色が、少しだけ混じっているのがわかった。
8
「なんか、もうすぐかもって思ってます」と里奈は言った。
「もうすぐ?」
「私の出番、なくなるかもって」
なつみは何も言えなかった。
「先輩の時と、同じですよね」と里奈は言った。「私、先輩から仕事教わって、それで先輩の出番がなくなって。今度は私が教える番で、また同じことが起きようとしてる」
「里奈ちゃん……」
「わかってたんです、こうなるって。でも、実際自分がその立場になると、思ってたのと違うっていうか」
里奈は少し笑った。乾いた笑いだった。
「先輩、あの時、どんな気持ちでした?」
なつみは少し考えた。
「里奈ちゃんを恨む気持ちには、なれなかった。里奈ちゃんは悪くないから」
「でも」
「でも、システムはおかしいと思った。三年いたのに、教えた子が入ってきたら、お別れも言えずに終わるのは、おかしいって」
里奈はうなずいた。
9
「先輩は、その後どうしたんですか」
「クビになって、次の派遣先探して、丸の内に行った。そこで正社員の話が来て、正社員になって、また辞めた」
「なんか、忙しいですね」と里奈は少し笑った。
「忙しいよ、本当に」
「私も、これからそうなるんですかね」
なつみは少し考えた。
「たぶん、なる。派遣はそういうシステムだから」
里奈は少し黙った。
「それでも」となつみは続けた。「里奈ちゃんは、なんとかやっていけると思う」
「なんでですか」
「愛嬌があるし、友達を大事にできる子だから。それがあれば、なんとかなる」
根拠のない言葉だった。でも、なつみは本気でそう思っていた。
10
「先輩、連絡先交換しませんか」と里奈が言った。「今更ですけど」
「うん、しよう」
二人はスマホを出して、LINEを交換した。
「先輩、今度ご飯行きましょう」
「行こう」
「先輩の友達も紹介してくださいよ、フォアグラの話するっていう」
なつみは笑った。「紹介する」
里奈も笑った。
「先輩」と里奈が言った。「私、もし今度切られても、先輩みたいに笑っていられるかな」
なつみは少し考えた。
「笑えなくてもいいと思うよ。私だって、本当は笑えてなかった時もあるから」
「そうなんですか」
「そう。でも、笑ってるふりしてるうちに、少しは本当に笑えるようになる時もある」
里奈はその言葉を、噛みしめるような顔で聞いていた。
11
エレベーターが開いて、里奈は「じゃあ、戻ります」と言った。
「うん、また連絡する」
「はい、絶対」
里奈はエレベーターに乗って、ボタンを押した。扉が閉まる前に、里奈は小さく手を振った。なつみも手を振り返した。
扉が閉まった。
なつみは一人で、エントランスに立っていた。
十八階建てのビルを、もう一度見上げた。あの中で、今、また誰かが誰かに仕事を教えていて、また誰かの出番がなくなろうとしている。それは、なつみにはもう関係のない場所で起きていることだった。でも、関係なくはなかった。
人材は使い捨ての資源。そのシステムの中で、なつみも生きている。
12
駅に向かって歩きながら、なつみはスマホを取り出した。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「九段下で里奈ちゃんに偶然会った」
みほ「え! どうだった?」
なつみ「元気そうだった。でも、里奈ちゃんも今、自分の教育係の子に仕事教えてて、もうすぐ出番なくなるかもって言ってた」
麻衣「それ、なんか切ないね……」
なつみ「切ない。でも、里奈ちゃんはちゃんとやっていけると思う」
みほ「なつみが言うなら、そうなんだろうね」
なつみ「連絡先交換した。今度みんなで会おうって話した」
麻衣「いいじゃん! フォアグラの話、里奈ちゃんにもしてあげて」
なつみ「する」
みほ「なつみ、ハロワの件はどうするの?」
なつみは少し考えてから、返信した。
なつみ「まだわかんない。介護か清掃か保険の販売員か。それとも、他に何かあるのか。せめて失業保険終わるギリギリまで今後の自分の選択肢の可能性を探るつもり」
麻衣「焦らなくていいと思うよ」
なつみ「うん。ちょっとゆっくり考える」
みほ「その間、スコーン食べよう」
なつみ「食べる」
13
家に着いて、なつみはコートを脱いだ。
窓の外は、まだ明るかった。6月は日が暮れるのが遅い。
なつみは、里奈の言葉を思い出していた。「私も、これからそうなるんですかね」。その問いに、なつみははっきりとした答えを持っていなかった。
里奈はまだ若いけれど、今の20代はどれくらい事務や受付をしていられるんだろう。マチアプ主流になって、逆に結婚に至る交際も難しいようだ。里奈ちゃんはなつみより早く介護職を選ぶことになるかもしれない。
なつみ自身も、まだ答えを持っていなかった。介護か、清掃か、保険の販売員か。それとも、他の何かか。
わからないことは、わからないままでよかった。
今日はもう、それでいいと思った。
冷蔵庫を開けて、プリンを取り出した。
一口食べた。甘くて、冷たくて、美味しかった。




