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なつみ35歳•BBA  作者: はまゆう


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7/15

第7話「三井の出」

1


5月のマッチングアプリに、新しいメッセージが来ていた。


早稲田大学出身、出版社勤務、三十七歳。プロフィール写真は本棚をバックにした爽やかな一枚だった。自己紹介文には「読書と美術館巡りが好きです」と書いてあった。年収は書いていなかったけど、出版社なら大手だろうと想像がついた。


なつみは少し期待した。学歴も職業も、久しぶりに釣り合いが取れそうな相手だった。


みほ「出版社の人? いいじゃん!」


麻衣「読書好きって書いてある人、なつみ的にはポイント高いよね」


なつみ「そうなんだよね。会ってみる」


2


待ち合わせは神保町のイタリアンだった。彼は名刺を出さなかったけれど、会話の最初に「講談社系列の子会社です」と自分で言った。


「なつみさんは上智でしたっけ」


「はい」


「上智、いいですよね。うちの祖父の代から、上智とはご縁があって」


「そうなんですか」


「祖父、三井物産にいたんですよ。もともとは三井の本家の方の血筋で」


なつみは「へえ」と言った。


「今の三井グループの創業一族と、うちの祖父の家系は、遠戚に当たるらしくて。父はあまり言わないんですけど、法事に行くと親戚がその話ばっかりするんです」


「すごいですね」


「いや、僕自身は普通のサラリーマンなんで、そんな大した話じゃないんですけどね」


そう言いながら、彼はワインを一口飲んで、また続けた。


「なつみさんのご実家は、どちらの方なんですか」


「普通の会社員の家です」


「そうなんですね」と彼は言った。少しだけ、がっかりしたような顔をした。


3


食事が進むにつれて、三井の話は何度も出てきた。


「祖父の代の家は目黒にあったらしくて、今の価値だと億単位らしいんですけどね」


「うちの本家、軽井沢に別荘があって」


「三井家の人間は、代々慶應か上智に行くのが習わしだったらしくて」


なつみは「そうなんですね」を、何回言ったか数えるのをやめた。


内心では、少し冷めていた。三井の話をする時の彼の目が、少しだけ得意げに見えた。本当かどうかは、なつみにはわからなかった。わからなかったけど、確かめる気にもなれなかった。


デザートが来た時、彼は言った。


「なつみさんは、今のお仕事は」


「派遣です」


「派遣かあ」と彼は言った。その一言に、それまでの饒舌さはなかった。


「でも上智出て派遣って、もったいないですよね。なつみさんくらいの家柄なら、正社員でもよかったのに」


「家柄、そんなに大したものじゃないので」


「いやいや、謙遜しなくても」


なつみは笑った。笑うしかなかった。


4


家に帰って、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。


なつみ「今日会った人、祖父が三井の出身らしい」


みほ「え、すごいじゃん」


なつみ「本人がずっとその話してた。目黒の家がどうとか軽井沢の別荘がどうとか」


麻衣「それ、本当なの?」


なつみ「知らない。確かめようがない」


みほ「なんかそういう人いるよね、初対面で家柄アピールしてくる人」


なつみ「フォアグラの人よりはマシだったけど、疲れた」


麻衣「疲れるやつじゃんそれ」


なつみ「うん。もう会わないと思う」


みほ「お疲れ様! スコーンで忘れよう」


なつみ「忘れる」


スマホを置いて、なつみはベッドに横になった。


疲れた、というのが、正直な感想だった。三井の出だろうが何だろうが、なつみにはどうでもよかった。ただ、その話を延々と聞かされている時間が、疲れた。


5


疲れの原因を、なつみはしばらく考えていた。


三井の話そのものが嫌だったわけじゃない。ただ、その話をしている間、彼はなつみのことを見ていなかった。なつみを通して、自分の家系を見ていた。なつみが上智だったのも、なつみに興味があったからじゃなくて、自分の家系に釣り合うかどうかを測っていただけだった。


そういう視線には、覚えがあった。


母がなつみを連れて電車に乗っていた頃の視線に、少し似ていた。この子を見せたい。この子の制服を見せたい。あの頃も、なつみは見られる対象だった。


なつみは天井を見た。


見られる対象でいることに、もう疲れていた。


6


翌朝、なつみは目を覚ました。


体が、動かなかった。


だるい、というのとは違った。指一本動かすのに、全身の力を使うような感じだった。目は開いているのに、体だけが鉛のように重かった。


しばらく天井を見ていた。時計を見ると、いつもの起床時間を三十分過ぎていた。


起きなきゃ、と思った。思ったけど、体が言うことを聞かなかった。


なつみは自分の体に、何かを聞かれているような気がした。


このまま続ける?


そう聞かれている気がした。


答えは、出なかった。出なかったけど、体の方が先に答えを出しているような気もした。


しばらくして、なつみはなんとか腕を持ち上げた。指先が冷たかった。痙攣はしていなかった。ただ、重かった。


限界だ、と思った。


はっきりと、そう思った。今までは「そういうもんだ」で流してきたことが、今日は流せなかった。


7


なつみはベッドから体を引きずるように起こした。


三十分かけて、なんとか着替えた。いつもは十分でできることだった。


電車の中で、なつみは翻訳会社時代のことを思い出していた。


二十五歳の頃、深夜まで働いていた。有給を取ろうとすると空気が悪くなった。あの時、なつみは三年我慢して、自分で辞めた。誰かに切られたわけじゃなかった。自分で決めて、辞めた。


あの時のなつみには、まだそれができた。


今のなつみには、できないと思い込んでいた。正社員になったから。辞められない人として配置されたから。だから、我慢するしかないと思っていた。


でも、と電車の窓を見ながら、なつみは思った。


あの時も、辞めていいなんて誰も言ってくれなかった。なつみが自分で決めただけだった。


今も、同じなんじゃないか。


辞めていいかどうかを、誰かに決めてもらう必要はないんじゃないか。


8


会社に着いて、なつみは山田さんのデスクに向かった。


「山田さん、少しお時間よろしいですか」


山田さんは少し驚いた顔をした。「いいよ。会議室行こうか」


小さな会議室に、二人で座った。


「どうした」


なつみは少し息を吸った。


「退職させていただきたいです」


山田さんは、しばらく何も言わなかった。


「……体調のこと?」


「それもあります。でも、それだけじゃないです」


「正社員になったばかりだよ」


「わかっています」


「この部署、辞めた人が多いのは、松本さんも知ってるよね」


「知っています」


「それでも、辞めるってことでいいのかな」


なつみは、山田さんの目を見た。


「はい」


短い返事だった。でも、なつみの中では、はっきりとした答えだった。


山田さんは、少しの間、なつみを見ていた。それから、小さくため息をついた。


「わかった。人事に伝える。手続き、進めておくよ」


「ありがとうございます」


なつみは頭を下げて、会議室を出た。


9


デスクに戻って、なつみは窓の外を見た。5月の空は、青かった。


辞めた、というより、辞めることに決めた、という方が近かった。まだ何も終わっていない。手続きはこれからだし、引き継ぎもある。それでも、なつみの中では、何かがはっきりと変わった。


切られたんじゃない。


自分で、決めた。


その違いが、なつみには大きかった。


スマホを取り出して、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。


なつみ「今日、退職の相談してきた」


みほ「え!!! 大丈夫なの!?」


麻衣「体調のこと?」


なつみ「それもある。でも、今朝起き上がれなくて、その時に、もう限界だって思った」


みほ「それ、ちゃんと自分で決めたんだね」


なつみ「うん。切られたんじゃなくて、自分で決めた」


麻衣「なつみ、それでいいと思う」


みほ「今までずっと、決められる側だったもんね」


なつみ「そうだね」


麻衣「これからどうするの?」


なつみ「まだわかんない。でも、ちょっとゆっくり考えたい」


みほ「それでいいよ。スコーン食べながら考えよう」


なつみ「食べる」


スマホをしまって、なつみはデスクに向き直った。


引き継ぎの資料を、開いた。


まだ仕事は残っている。でも、今日のなつみは、昨日までのなつみとは、少しだけ違っていた。



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