第7話「三井の出」
1
5月のマッチングアプリに、新しいメッセージが来ていた。
早稲田大学出身、出版社勤務、三十七歳。プロフィール写真は本棚をバックにした爽やかな一枚だった。自己紹介文には「読書と美術館巡りが好きです」と書いてあった。年収は書いていなかったけど、出版社なら大手だろうと想像がついた。
なつみは少し期待した。学歴も職業も、久しぶりに釣り合いが取れそうな相手だった。
みほ「出版社の人? いいじゃん!」
麻衣「読書好きって書いてある人、なつみ的にはポイント高いよね」
なつみ「そうなんだよね。会ってみる」
2
待ち合わせは神保町のイタリアンだった。彼は名刺を出さなかったけれど、会話の最初に「講談社系列の子会社です」と自分で言った。
「なつみさんは上智でしたっけ」
「はい」
「上智、いいですよね。うちの祖父の代から、上智とはご縁があって」
「そうなんですか」
「祖父、三井物産にいたんですよ。もともとは三井の本家の方の血筋で」
なつみは「へえ」と言った。
「今の三井グループの創業一族と、うちの祖父の家系は、遠戚に当たるらしくて。父はあまり言わないんですけど、法事に行くと親戚がその話ばっかりするんです」
「すごいですね」
「いや、僕自身は普通のサラリーマンなんで、そんな大した話じゃないんですけどね」
そう言いながら、彼はワインを一口飲んで、また続けた。
「なつみさんのご実家は、どちらの方なんですか」
「普通の会社員の家です」
「そうなんですね」と彼は言った。少しだけ、がっかりしたような顔をした。
3
食事が進むにつれて、三井の話は何度も出てきた。
「祖父の代の家は目黒にあったらしくて、今の価値だと億単位らしいんですけどね」
「うちの本家、軽井沢に別荘があって」
「三井家の人間は、代々慶應か上智に行くのが習わしだったらしくて」
なつみは「そうなんですね」を、何回言ったか数えるのをやめた。
内心では、少し冷めていた。三井の話をする時の彼の目が、少しだけ得意げに見えた。本当かどうかは、なつみにはわからなかった。わからなかったけど、確かめる気にもなれなかった。
デザートが来た時、彼は言った。
「なつみさんは、今のお仕事は」
「派遣です」
「派遣かあ」と彼は言った。その一言に、それまでの饒舌さはなかった。
「でも上智出て派遣って、もったいないですよね。なつみさんくらいの家柄なら、正社員でもよかったのに」
「家柄、そんなに大したものじゃないので」
「いやいや、謙遜しなくても」
なつみは笑った。笑うしかなかった。
4
家に帰って、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「今日会った人、祖父が三井の出身らしい」
みほ「え、すごいじゃん」
なつみ「本人がずっとその話してた。目黒の家がどうとか軽井沢の別荘がどうとか」
麻衣「それ、本当なの?」
なつみ「知らない。確かめようがない」
みほ「なんかそういう人いるよね、初対面で家柄アピールしてくる人」
なつみ「フォアグラの人よりはマシだったけど、疲れた」
麻衣「疲れるやつじゃんそれ」
なつみ「うん。もう会わないと思う」
みほ「お疲れ様! スコーンで忘れよう」
なつみ「忘れる」
スマホを置いて、なつみはベッドに横になった。
疲れた、というのが、正直な感想だった。三井の出だろうが何だろうが、なつみにはどうでもよかった。ただ、その話を延々と聞かされている時間が、疲れた。
5
疲れの原因を、なつみはしばらく考えていた。
三井の話そのものが嫌だったわけじゃない。ただ、その話をしている間、彼はなつみのことを見ていなかった。なつみを通して、自分の家系を見ていた。なつみが上智だったのも、なつみに興味があったからじゃなくて、自分の家系に釣り合うかどうかを測っていただけだった。
そういう視線には、覚えがあった。
母がなつみを連れて電車に乗っていた頃の視線に、少し似ていた。この子を見せたい。この子の制服を見せたい。あの頃も、なつみは見られる対象だった。
なつみは天井を見た。
見られる対象でいることに、もう疲れていた。
6
翌朝、なつみは目を覚ました。
体が、動かなかった。
だるい、というのとは違った。指一本動かすのに、全身の力を使うような感じだった。目は開いているのに、体だけが鉛のように重かった。
しばらく天井を見ていた。時計を見ると、いつもの起床時間を三十分過ぎていた。
起きなきゃ、と思った。思ったけど、体が言うことを聞かなかった。
なつみは自分の体に、何かを聞かれているような気がした。
このまま続ける?
そう聞かれている気がした。
答えは、出なかった。出なかったけど、体の方が先に答えを出しているような気もした。
しばらくして、なつみはなんとか腕を持ち上げた。指先が冷たかった。痙攣はしていなかった。ただ、重かった。
限界だ、と思った。
はっきりと、そう思った。今までは「そういうもんだ」で流してきたことが、今日は流せなかった。
7
なつみはベッドから体を引きずるように起こした。
三十分かけて、なんとか着替えた。いつもは十分でできることだった。
電車の中で、なつみは翻訳会社時代のことを思い出していた。
二十五歳の頃、深夜まで働いていた。有給を取ろうとすると空気が悪くなった。あの時、なつみは三年我慢して、自分で辞めた。誰かに切られたわけじゃなかった。自分で決めて、辞めた。
あの時のなつみには、まだそれができた。
今のなつみには、できないと思い込んでいた。正社員になったから。辞められない人として配置されたから。だから、我慢するしかないと思っていた。
でも、と電車の窓を見ながら、なつみは思った。
あの時も、辞めていいなんて誰も言ってくれなかった。なつみが自分で決めただけだった。
今も、同じなんじゃないか。
辞めていいかどうかを、誰かに決めてもらう必要はないんじゃないか。
8
会社に着いて、なつみは山田さんのデスクに向かった。
「山田さん、少しお時間よろしいですか」
山田さんは少し驚いた顔をした。「いいよ。会議室行こうか」
小さな会議室に、二人で座った。
「どうした」
なつみは少し息を吸った。
「退職させていただきたいです」
山田さんは、しばらく何も言わなかった。
「……体調のこと?」
「それもあります。でも、それだけじゃないです」
「正社員になったばかりだよ」
「わかっています」
「この部署、辞めた人が多いのは、松本さんも知ってるよね」
「知っています」
「それでも、辞めるってことでいいのかな」
なつみは、山田さんの目を見た。
「はい」
短い返事だった。でも、なつみの中では、はっきりとした答えだった。
山田さんは、少しの間、なつみを見ていた。それから、小さくため息をついた。
「わかった。人事に伝える。手続き、進めておくよ」
「ありがとうございます」
なつみは頭を下げて、会議室を出た。
9
デスクに戻って、なつみは窓の外を見た。5月の空は、青かった。
辞めた、というより、辞めることに決めた、という方が近かった。まだ何も終わっていない。手続きはこれからだし、引き継ぎもある。それでも、なつみの中では、何かがはっきりと変わった。
切られたんじゃない。
自分で、決めた。
その違いが、なつみには大きかった。
スマホを取り出して、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「今日、退職の相談してきた」
みほ「え!!! 大丈夫なの!?」
麻衣「体調のこと?」
なつみ「それもある。でも、今朝起き上がれなくて、その時に、もう限界だって思った」
みほ「それ、ちゃんと自分で決めたんだね」
なつみ「うん。切られたんじゃなくて、自分で決めた」
麻衣「なつみ、それでいいと思う」
みほ「今までずっと、決められる側だったもんね」
なつみ「そうだね」
麻衣「これからどうするの?」
なつみ「まだわかんない。でも、ちょっとゆっくり考えたい」
みほ「それでいいよ。スコーン食べながら考えよう」
なつみ「食べる」
スマホをしまって、なつみはデスクに向き直った。
引き継ぎの資料を、開いた。
まだ仕事は残っている。でも、今日のなつみは、昨日までのなつみとは、少しだけ違っていた。




