第6話「正社員の罠」
1
四月になった。
なつみは六本木の外資系オフィスで、正社員としての最初の出勤日を迎えた。エレベーターに乗り、十九階のボタンを押す。その指が、少し震えていた。緊張ではなく、何かが始まる予感のようなものだった。
受付を通り過ぎ、自分の席に向かう。机の上には新しい名刺が置いてあった。松本なつみ。肩書きは「カスタマーリレーションズ・スペシャリスト」。
なつみはその名刺を手に取って、しばらく見つめた。正社員。派遣じゃない。それが、なんだか嘘みたいだった。
「松本さん、おはよう」
声をかけてきたのは、新しい上司の山田さんだった。四十代後半の男性で、スーツがいつもぴしっと決まっていた。
「おはようございます」
「今日から部署が変わるね。カスタマーリレーションズ部。ここが君の新しい席だ」
山田さんはなつみを案内して、オフィスの奥にある小さな区画に連れて行った。そこにはデスクが三つあり、なつみの他に、もう一人女性が座っていた。若い女性で、なつみよりは十歳くらい下に見えた。
「こちらが松本さんです。今日から配属になります」
「よろしくお願いします」と女性は言った。「私は佐々木です。同じ部署で働いています」
「よろしくお願いします」となつみも言った。
山田さんは「佐々木さん、松本さんに仕事を教えてあげてください」と言って、去っていった。
佐々木は小さな声で言った。「松本さん、この部署、ちょっと大変なんですよ」
「大変?」
「クレーム処理の部署なんです。在日外国企業からのクレームを担当してて、すごく厳しいお客様が多くて」
なつみは「そうなんですか」と言った。でも、その時はまだ、本当の意味がわかっていなかった。
2
佐々木はなつみに仕事の説明を始めた。
「ここは、日本に進出している外国企業からのクレームを処理する部署です。お客様はほとんどが外国人で、日本語が通じないこともあります。英語か、時々フランス語も使います」
「フランス語?」
「ええ。フランス系の企業も多いので」
なつみはそれが自分のスキルに合っていると思った。英語もフランス語もできる。この仕事なら、自分に向いているかもしれない。
「まずは、過去のクレーム事例を読んでみてください」と佐々木は言った。「この部署、前任者がみんなすぐ辞めちゃって、資料がばらばらなんです」
「みんな辞めたんですか?」
「ええ。ここ、数週間と持たないんです。松本さん、この部署に来たの、派遣の時と同じですか?」
「いえ、派遣の時は英文のメールや手紙作成が多かったです。配置転換は聞いてなかったです。同じ仕事だと思っていました。」
佐々木は何か言いたそうだったが、やめた。「そうなんですね」とだけ言った。
なつみはその言葉の裏にあるものを、まだ知らなかった。
3
最初の一週間は、資料を読むだけで終わった。
なつみは過去のクレーム事例を読み込んだ。どれもこれも、内容は似ていた。製品の不具合、納期の遅延、対応の悪さ。お客様の要求は厳しく、クレームの内容も理不尽なものが多かった。
でも、なつみは「これくらいなら」と思っていた。派遣の時も、理不尽な要求に対応することはあった。それと同じだと思っていた。
二週間目、なつみは初めて実際のクレーム対応を任された。
お客様はフランス系企業の日本人駐在員だった。相手は日本語で話したが、途中で英語とフランス語が混ざるタイプだった。
「この商品、納期が一週間遅れてるんですけど、どういうことですか? うちのプロジェクトが止まってるんですよ!」
「申し訳ございません。確認いたします」
なつみはそう言って、対応した。でも、相手はなかなか引き下がらなかった。
「確認って、何を確認するんですか? もうとっくに確認してるはずですよ! あなた、新人ですか?」
「はい、まだ入ったばかりで」
「新人にこんな大事な対応をさせるなんて、あなたの会社はどうなってるんですか!」
なつみは「申し訳ございません」を繰り返した。相手は三十分ほど怒り続けて、ようやく電話を切った。
なつみは深く息を吐いた。手が少し震えていた。
「大丈夫ですか?」と佐々木が聞いてきた。
「大丈夫です」
でも、大丈夫じゃなかった。なつみは自分の手を見た。指先が、冷たかった。
4
三週間目、なつみは連日クレーム対応に追われていた。
お客様は在日外国企業の担当者たちだ。彼らは自己主張が強く、自分の要求が通らないとすぐに怒った。時には責任転嫁をして、なつみに全ての非をなすりつけることもあった。
「あなたのせいで、うちのプロジェクトが遅れてるんですよ!」
「それは、納期が遅れたことが原因で……」
「原因はあなたの会社でしょう! 私たちは悪くない!」
なつみは必死に謝った。でも、相手はなかなか許してくれなかった。電話を切った後、なつみはデスクに突っ伏したくなるのをこらえた。
「松本さん、大丈夫?」と佐々木が聞いた。
「大丈夫です……」
でも、大丈夫じゃなかった。なつみは自分の体調が少しずつおかしくなっているのを感じていた。
5
四週間目、なつみは朝起きると、体がだるかった。
いつもより三十分多く寝たのに、疲れが取れない。指先が冷たくて、少し痙攣しているような気がした。鏡を見ると、顔色が悪かった。
「大丈夫かな」と自分に言い聞かせて、なつみは出勤した。
その日も、クレーム対応は続いた。お客様からの電話が途切れない。なつみは何度も謝り、何度も説明し、何度も詰められた。
午後、突然、胸の鼓動が速くなった。ドキドキというより、バクバクという感じだった。心臓が変なリズムを刻んでいる。
なつみはトイレに行って、鏡を見た。顔が真っ青だった。指先が冷たくて、痙攣していた。
「大丈夫かな……」
自分に言い聞かせて、デスクに戻った。でも、その日はもう、仕事に集中できなかった。
6
夜、家に帰って、なつみはベッドに横たわった。
スマホを開いて、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「今日、体調がおかしかった。心臓がバクバクして、指が痙攣した」
みほ「え!? 大丈夫!?」
麻衣「病院行った?」
なつみ「まだ。明日行こうと思う」
みほ「絶対行った方がいいよ!」
なつみ「うん」
なつみはスマホを置いて、天井を見た。
正社員になってから、一ヶ月が経った。でも、その一ヶ月は、派遣の時よりもずっと長く感じられた。
7
次の日、なつみは病院に行った。
診察室で、医者が問診票を見ながら言った。
「松本さん、最近、強いストレスを感じていますか?」
なつみは少し考えた。
「仕事が……きつくて」
「どんな仕事ですか?」
「クレーム処理です。在日外国企業からのクレームで、毎日怒鳴られています」
医者はうなずいた。「それで、不整脈が出ている可能性があります。ストレスが原因で、心臓のリズムが乱れることがあるんです。まずは、落ち着くことが大事です」
「落ち着く、ですか」
「そう。仕事を休むことも考えてください」
なつみは「はい」と言った。でも、仕事を休むわけにはいかないと思っていた。正社員になったばかりだ。休むわけにはいかない。
8
五月になった。
なつみの体調は、良くなったり悪くなったりを繰り返していた。良い日は普通に仕事ができるが、悪い日は朝からだるくて、指先の痙攣が止まらない。
「松本さん、顔色悪いよ」と佐々木が言った。
「大丈夫です」
「そう言って、また倒れたら困るよ。前の派遣の子も、倒れて辞めたんだから」
なつみはその言葉に、少しだけ戸惑った。
「前の派遣の子?」
「そう。この部署、派遣の子が入ってきては、みんな辞めてるんだよ。クレーム対応がきつすぎて。なんで松本さんが正社員でここに配属されたのか、不思議で仕方ない」
なつみはその言葉を、反芻した。
派遣の子が入ってきては、みんな辞める。それなのに、正社員でここに配属された。それは、つまり――
「松本さん」と佐々木が言った。「もしかして、あなた、この部署に来たのは、辞められないようにするためじゃない?」
「辞められないように?」
「だって、派遣だったら辞められるけど、正社員なら簡単に辞められないじゃないですか。この部署、辞められる仕事だから、派遣が入ってきて辞めてた。でも、正社員なら辞めにくい」
なつみはその言葉に、心臓が冷たくなるのを感じた。
9
その夜、なつみは派遣会社の田中さんに電話を入れた。
「田中さん、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」
「何でしょう?」
「今の部署、カスタマーリレーションズ部なんですけど、ここって派遣の人がよく辞めてたって聞いたんです。それで、正社員になったのは、辞められないようにするためだったんじゃないかって」
田中さんは少し間を置いた。
「松本さん……その件については、私も聞いています」
「聞いてる?」
「はい。先方から、松本さんを正社員にしたいという話があった時、部署についてはあまり詳しく聞いていませんでした。でも、今になって思うと、あの部署は確かに人が定着しない部署だったんです」
「じゃあ、やっぱり……」
「松本さん、今の部署の仕事は大変だと思います。でも、正社員になったのは、あなたの能力が評価されたからです。それだけは間違いありません」
なつみは「わかりました」と言った。でも、その言葉の裏には、何かが引っかかっているのを感じていた。
10
五月の半ば、なつみは不整脈がひどくなった。
夜、ベッドで横になっていると、心臓が突然バクバクと鳴り出した。呼吸が苦しくなり、指先が冷たく痙攣した。
「やばい……」
なつみはなんとか起き上がって、水を飲んだ。でも、症状はなかなか治まらなかった。
翌朝、なつみは病院に行った。医者は「やっぱりストレスが原因ですね。仕事を休むことをおすすめします」と言った。
「でも、正社員になったばかりで」
「正社員でも、休むことはできます。無理をして、もっと悪くなる方が怖いですよ」
なつみは「はい」と言った。でも、その言葉をどう受け止めればいいのか、わからなかった。
11
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「また不整脈が出た。医者に休めって言われた」
みほ「え!? 大丈夫!?」
麻衣「仕事、休んだ方がいいよ」
なつみ「でも、正社員になったばかりで、休むわけにはいかない」
みほ「正社員でも休む人はいるよ! なつみの体が大事だよ!」
なつみ「そうかもしれないけど……」
麻衣「なつみ、無理しないで」
なつみはそのメッセージを見て、少しだけ泣きそうになった。
12
五月の終わり、なつみはついに仕事を休む決断をした。
山田さんに連絡を入れると、「わかった。ゆっくり休んでください」と言われた。でも、その言葉には、どこか事務的な冷たさがあった。
なつみは家でゆっくり過ごした。テレビを見て、本を読んで、昼寝をした。
でも、心のどこかでは、仕事のことが気になっていた。辞めてしまった人たちがいる。この部署は人が定着しない。自分もその一人になるのだろうか。
13
六月になった。
なつみは少しずつ体調が戻ってきた。でも、仕事に戻るのが怖かった。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「仕事に戻るのが怖い」
みほ「それ、わかる」
麻衣「無理しなくていいよ。ゆっくりで」
なつみ「でも、正社員なのに休んでばかりだと、クビになるかもしれない」
みほ「そんなことないよ。大丈夫」
なつみはその言葉を信じたかった。でも、信じられなかった。
14
ある日、なつみは昔のことを思い出した。
派遣で働いていた時、クビになるのが怖くて、必死に仕事をしていた。でも、結局クビになった。それで正社員になった。正社員になれば安定すると思っていた。でも、現実は違った。
正社員になっても、体を壊すような仕事をさせられる。それが派遣から正社員に抜擢された理由かもしれない。辞められないから、嫌な仕事を押し付けられる。
なつみはその現実に、少しだけ笑えた。
笑えるようなことじゃない。でも、笑うしかなかった。
15
七月、なつみは仕事に復帰した。
山田さんは「体調は大丈夫か」と聞いてきた。なつみは「大丈夫です」と答えた。
でも、クレーム対応は相変わらずだった。外国企業からの怒号が、毎日のように電話から聞こえてくる。なつみは何度も謝り、何度も説明し、何度も責められた。
「本当に大丈夫か?」と佐々木が聞いてきた。
「大丈夫です」
「そう言って、また倒れるんだよ」
なつみは笑った。笑うしかなかった。
16
八月のある日、なつみは派遣会社の田中さんに電話を入れた。
「田中さん、ちょっと話したいことがあるんですけど」
「何でしょう?」
「今の部署、やっぱりきついです。派遣の人が辞めてたのもわかります。私も、正直きついです」
田中さんはしばらく沈黙した。
「松本さん、実はあなたに言っていなかったことがあります」
「何ですか?」
「あなたが正社員になった時、部署の話があったんです。カスタマーリレーションズ部は、クレーム対応が多くて人が続かない部署だと聞いていました。でも、先方があなたを正社員にしたいと言ってきたのは、その部署の人手不足が原因だったんです」
「じゃあ、やっぱり……」
「あなたは、辞められない人として、そこに配置されたんです」
なつみはその言葉に、何も言えなかった。
17
電話を切った後、なつみはしばらく動けなかった。
正社員になれるチャンスは、普通34までと言われている。自分は35でなった。それは珍しいことだった。でも、その理由がわかった。
辞められない人として、嫌な仕事を押し付けられた。
なつみは笑った。笑わずにはいられなかった。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「正社員になった理由がわかった。辞められない人として、嫌な部署に配置されたんだ」
みほ「え!? どういうこと?」
なつみ「派遣の人が辞める部署に、正社員として配置された。辞められないから、その仕事をやらされる」
麻衣「それって、ひどすぎる……」
なつみ「ひどいよね。でも、そういうもんなんだよ」
みほ「なつみ、泣いてもいいんだよ」
なつみ「泣かないよ。笑ってるよ」
なつみはスマホを置いて、窓の外を見た。
八月の空は青かった。でも、その青さが、なつみには少しだけ刺さるように感じられた。
18
その夜、なつみは一人でスコーンを食べた。
コンビニで買った、安いスコーンだった。でも、それでも美味しかった。
なつみはスコーンを食べながら、考えた。
正社員になっても、派遣の時と変わらない。むしろ、派遣より縛りが強い。辞められないから、嫌な仕事を押し付けられる。
でも、それでも、なつみは笑っていた。
笑わないと、やっていけないから。
19
翌日、なつみは山田さんに言った。
「山田さん、この部署、派遣の人が辞めてたって聞きました」
山田さんは一瞬、表情を変えた。
「そうだね。人が続かない部署だよ」
「私が正社員になったのは、そのためですか?」
山田さんはしばらく沈黙した。
「松本さん、それは……」
「辞められない人として、この部署に配置されたんですか?」
山田さんは何も言わなかった。でも、その沈黙が答えだった。
「わかりました」となつみは言った。「でも、私は辞めません。辞めるわけにはいきませんから」
山田さんは何か言おうとしたが、やめた。
なつみはデスクに戻って、仕事を続けた。
20
八月の終わり、なつみは毎日のようにクレーム対応をしていた。
体調は万全じゃなかった。不整脈は時々出るし、指先の痙攣も止まらない。でも、なつみは辞めなかった。
辞められないから、辞めなかった。
それは、選択肢がないということだった。でも、なつみはそれを「そういうもんだ」と思うことにした。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「今日もクレーム対応。でも、笑ってるよ」
みほ「なつみ、すごいよ」
麻衣「無理しないでね」
なつみ「無理してる。でも、それが正社員ってやつだよ」
みほ「それ、おかしいよ」
なつみ「おかしいよね。でも、それが現実」
なつみはスマホを置いて、窓の外を見た。
八月の空は、まだ青かった。




