第四章「レールはなかったのかもしれない」
三月になった。
なつみは無職だった。
無職、という言葉は、実態よりも重く聞こえる。なつみには貯金がある。派遣会社は次の仕事を探してくれると言っている。雇用保険の手続きもした。ハローワークの窓口の女性は丁寧だった。書類をもらって、帰った。
別に、死ぬわけじゃない。
ただ、平日の昼間に家にいる、というのが、なんとなく落ち着かなかった。テレビをつけると情報番組がやっていて、芸能人が美味しそうなものを食べていた。なつみはそれを見ながら、コーヒーを飲んだ。
悪くない、と思った。
悪くないけど、ずっとこれはよくない、とも思った。
みほ「無職生活どう?」
なつみ「平日の昼のテレビが意外と面白い」
麻衣「それ危険な兆候じゃないwww」
なつみ「わかってるwww でもあと少しくらいいいかなって」
みほ「ゆっくりしなよ! 三年頑張ったんだから」
麻衣「次どんな仕事探してるの?」
なつみ「派遣会社が何件か候補送ってきてる。丸の内のやつと、渋谷のやつと」
みほ「丸の内がいい! ランチ充実してそう」
なつみ「私もそう思ってるw」
麻衣「面接いつ?」
なつみ「来週」
みほ「頑張れ!! 受かったらお祝いアフタヌーンティーしよ!!」
なつみ「それ楽しみに頑張る」
派遣の面接、というのは正確には面接じゃない。顔合わせ、という名目で、先方の担当者と話すだけだ。採否を決めるのは先方だけど、面接とは呼ばない。表現は悪いがデリヘル嬢が好みじゃなければチェンジできるのと同じで、学歴も資格も“チェンジ”の前には無意味だ。若くてかわいい女の子は当然強い。そういうことになっている。
丸の内の会社の顔合わせは、三十分で終わった。担当者は感じのいい女性で、なつみの経歴を見て「英語お使いになれるんですね」と言った。「はい」となつみは言った。「フランス語も少し」と言ったら、「まあ」と言って目を丸くした。「わたしなんかGPT任せだわ。笑」
三日後に、派遣会社から連絡が来た。採用だった。
四月から、丸の内のビルに通うことになった。
三月の残りをなつみはゆっくり過ごした。
図書館に行った。平日の図書館は静かで、老人と主婦と、あとはなつみみたいな人間がいた。なつみみたいな人間、というのが何人かいた。何をしている人たちなのか、なつみにはわからなかった。わからなかったけど、なんとなく仲間みたいな気がした。
本を三冊借りた。フランス文学の翻訳と、料理のエッセイと、何となく手に取ったミステリー。フランス文学は大学の頃に読んだやつだった。懐かしかった。
母から電話が来た。
「仕事どうなの」
「四月から新しいとこ行くよ、丸の内」
「そう」と母は言った。「丸の内はいいわね」
なつみは笑いそうになった。丸の内がいい、というのが、母の中でひとつの答えらしかった。丸の内のビルに通っている娘、というのが、母の中で一定の安心感を作るらしかった。
それでいい、となつみは思った。
母に余計な心配をさせることもない。
「ちゃんと食べてる?」と母は言った。
「食べてる」
「野菜も食べなさい」
「食べてる」
「そう」と母は言って、電話が切れた。
短い電話だった。でも、それだけで十分だった。
三月の終わり、さやかがインスタを更新した。
写真はセントラルパークだった。春の始まりで、木々がうっすら緑になっていた。ベンチに座ったさやかと夫の後ろ姿。二人の影が地面に伸びていた。
キャプションには何も書いていなかった。
なつみはその写真を、少し長く見た。
いつもより長く見た。
セントラルパークには行ったことがない。ニューヨークには行ったことがない。アメリカは三ヶ月いたけれど、西海岸だった。東海岸はいつか行けたら、と思っていたけれど、行けないまま今になっている。
さやかは今、あのベンチで何を話していたんだろう、となつみは思った。夫と何を話して、何を笑って、写真を撮った後どこへ行ったんだろう。
わからない。
わからないし、知る方法もない。インスタに写っているさやかは、なつみの知っているさやかじゃなくて、ニューヨークで暮らしているさやかだ。別の人生を生きている人間だ。
いいねを押した。
スマホを置いた。
なつみは窓の外を見た。三月の空は白かった。東京の空は、どこを見ても似たような空だ。セントラルパークの空は、どんな色なんだろう。
まあ、空は空か、となつみは思った。
コーヒーを飲んだ。
四月、なつみは丸の内のビルに通い始めた。
三十二階建てで、エレベーターが六基あった。なつみの派遣先は十五階だった。受付と庶務、英文メールの対応もある、と言われていた。久しぶりに英語を使う仕事だった。
初日、上司になる女性が案内してくれた。田辺さんという、四十代の女性で、きびきびしていた。
「英語、本当に使えますか」と田辺さんは言った。失礼な聞き方ではなく、ただ確認したい、という感じだった。
「使えます」となつみは言った。
「フランス語も少しって書いてありましたけど」
「弁論大会で三位になったことあります」
田辺さんは少し驚いた顔をした。「それはすごいですね」
久しぶりにそれを言った。言えた、という気がした。
みほ「丸の内どう!?」
なつみ「悪くない。英語使う仕事があって久しぶりに使った」
麻衣「いいじゃん!」
みほ「ランチは? 充実してた?」
なつみ「ビルの地下にいろいろある。パスタが美味しかった」
みほ「正解じゃん!!」
麻衣「なつみよかったね、本当に」
なつみ「まあね。また一から覚えることがいっぱいあるけど」
みほ「頑張れ! ゴールデンウィークにお祝いアフタヌーンティーしよ!!」
なつみ「するする!! どこにする?」
麻衣「帝国ホテルまだアフタヌーンティーは行ったことない」
みほ「行こう!! 予約する!!」
なつみ「楽しみーーー!!」
五月になった。
ゴールデンウィーク、なつみはみほとえりと帝国ホテルに行った。
ロビーは広くて、天井が高かった。ソファはゆったりしていて、運ばれてくるお茶は丁寧な出し方だった。なつみは自分が何度もお茶を出してきた側だったことを思い出した。どちらが正しいとか、どちらがいいとか、そういう話じゃなく、ただ思い出した。
スコーンが来た。
「いただきます」と三人で言った。
「里奈ちゃんって今どうしてるんだろう」となつみは言った。
「誰、それ」とみほが言った。
「教育係してた子。私がクビになった理由の子」
「あー、恨んでるの?」
「恨んでない。ただ、ふと思って」
「どういう気持ちで思うの」と えりが聞いた。
なつみは少し考えた。
「元気でやってるといいな、くらい」
「それ、すごいな」とみほは言った。
「そうかな」
「普通もっとモヤモヤするじゃん」
「モヤモヤしなかったわけじゃないけど」となつみは言った。「里奈ちゃんも悪くないんだよ。ただ二十二歳で、愛嬌があっただけで。私だって二十二歳の時はそうだったかもしれない」
「なつみは二十二歳の時どうだったの」とえりが言った。
「選ぶ側だと思ってた」
三人で笑った。
笑いながら、なつみはスコーンにクロテッドクリームを塗った。
帝国ホテルのクロテッドクリームは、濃くて美味しかった。
六月、丸の内の仕事に慣れてきた。
田辺さんは厳しいが公平だった。英語のメール対応を任せてもらえるようになった。久しぶりに英語を毎日使って、なつみは少しずつ勘が戻ってきた。
フランス語を使う機会はなかった。でも、あると言えた。それだけでよかった。
マチアプは続けていた。
六月に一人、感じのいい人と二回会った。三回目の約束をしたところで、急に返信が来なくなった。なつみは三日待って、諦めた。
なつみ「またゴーストされたwww」
みほ「は、なんで!?」
なつみ「わかんない、そういうもんだよ」
麻衣「落ち込んでる?」
なつみ「二日くらい落ち込んで忘れると思う」
みほ「強い」
なつみ「慣れただけ」
麻衣「次行こ次!!」
なつみ「そうする」
七月、さやかがインスタを更新した。
エコーがかった写真だった。白い部屋に、小さなものが置いてある。
よく見たら、ベビーシューズだった。
キャプションには「Coming soon」とだけ書いてあった。
なつみはその写真を見て、ああ、と思った。
おめでとう、とコメントを打った。今度は迷わなかった。打てた。
さやかからすぐにハートのリアクションが来た。
それだけだった。それだけで十分だった。
なつみはスマホを置いて、窓の外を見た。七月の空は青かった。東京の夏が始まっていた。
十年後のことは、考えない。
考えたって、わからない。さやかの人生がこうなるとは、大学の頃には誰も思っていなかった。なつみの人生がこうなるとも、なつみ自身思っていなかった。人生は、考えた通りにはならない。
レールがなかったのかもしれない、となつみは思った。
最初から、ずっと。あると思っていたレールは、どこにも存在しなかったのかもしれない。みんながそれぞれ、足元の地面を踏みながら歩いていただけで、レールなんて最初からなかったのかもしれない。
だとしたら、なつみはちゃんと歩いてきた。
遠回りしたかもしれない。思った場所には着いていないかもしれない。でも、転ばずに、ちゃんと歩いてきた。
まあいいか、となつみは思った。
今日のランチはビルの地下のパスタにしよう、と思った。
九月のある朝、なつみは九段下で用事があって、久しぶりにあの駅を通った。
丸の内に移ってから、九段下には来ていなかった。半年ぶりくらいだった。
改札を出ると、靖国通りが見えた。ケヤキが少し色づき始めていた。もうすぐ秋だった。
十八階建てのビルは、そこにあった。
なつみは少し見上げた。十二階の窓は、外からは全部同じに見えた。どこで誰が何をしているか、外からは何もわからない。
ふと、足が止まった。
改札の近くで、小さな女の子が母親に何か言われていた。
女の子は四歳か五歳くらいだった。紺のセーラー服に白いライン。麦わら帽子は少し斜めになっていた。革のおかばんを肩にかけていた。
母親がかがんで、おかばんのストラップを直した。
「おかばんが曲がってるわ」
なつみには聞こえなかった。でも、そう言っているのがわかった。口の動きで、わかった。
母親はそれから帽子にも手を伸ばして、まっすぐに直した。女の子は少し嫌そうな顔をして、それからまた笑った。
母親が女の子の手を引いた。二人は歩き出した。
なつみはそれを見ていた。
泣かなかった。
泣くかと思ったけれど、泣かなかった。ただ、見ていた。あの制服を着ていた頃の自分と、今の自分と、二つが重なるような、重ならないような、不思議な感覚があった。
あの頃のなつみは、三十五歳の自分がこうしているとは思っていなかった。思っていなかったけれど、こうなった。
それが悪いとは、思わなかった。
母親と女の子の後ろ姿が、人混みに消えた。
なつみは鞄のストラップを直した。おかばんじゃなくて、ブランドのトートバッグだけど。
駅に向かって、歩き出した。
丸の内まで、東西線で一本だ。
今日も仕事がある。




