第三章「今月末で終了
二月の半ば、派遣会社からLINEが来た。
送り主は担当の田中さんで、田中さんとはほとんど連絡を取ったことがなかった。契約更新の書類を送ってくる時と、たまに「ご状況いかがでしょうか」という定型文が来る時くらいだった。
メッセージはこうだった。
「松本さん、お疲れ様です。少しお話ししたいことがございまして、お電話のお時間をいただくことはできますでしょうか」
なつみはそれを読んで、ああ、と思った。
お話ししたいこと。
その言葉の意味が、すぐにわかった。十年派遣をやっていると、わかる。いい話をお電話でわざわざする必要はない。お電話でしたいのは、言いにくい話だ。
なつみは「明日のお昼休みはいかがでしょうか」と返した。田中さんはすぐに「ありがとうございます、では明日12時15分にお電話いたします」と返してきた。
スマホを置いて、なつみは受付の仕事に戻った。
里奈がちょうど来客の対応をしていた。丁寧な言葉遣いで、相手に名刺を両手で受け取っていた。一ヶ月前には存在しなかった動作が、今は自然にできている。
なつみが教えたことだ、と思った。
次の日の昼、なつみはビルの外に出た。
寒かった。二月の九段下は風が強くて、コートの前を押さえながら歩いた。人が少ない路地を見つけて、立ち止まった。
12時15分ちょうどに、スマホが鳴った。
「松本さん、田中でございます。お時間いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
「実は、今月末のご契約についてなんですが」
田中さんの声は、丁寧だった。丁寧で、抑揚がなかった。
「先方のご都合により、今月末をもちまして、ご契約を終了させていただくことになりまして」
「そうですか」となつみは言った。
「突然のご連絡となってしまい、大変申し訳ございません。松本さんのお仕事ぶりには何の問題もございませんで、あくまで先方の社内事情ということで」
「はい」
「次のお仕事につきましては、弊社でもできる限りサポートいたしますので、また改めてご連絡いたします」
「ありがとうございます」
「何かご質問はございますか」
なつみは少し考えた。
「今月末というのは、二十八日ですか」
「はい、二十八日が最終日となります」
「わかりました」
「本当に申し訳ございません」
「いえ、ありがとうございました」
電話が切れた。
なつみはスマホをコートのポケットに入れて、空を見た。
曇っていた。白い雲が低いところにあって、靖国通りのケヤキが風に揺れていた。イルミネーションはもう取り外されていた。
里奈が入ったから、二人はいらない。それだけのことだった。
なつみは笑えてきた。
笑えてきた、というのは、おかしいと思ったからじゃない。そういうもんだよな、と思ったからだ。そういうもんだよな、という感覚が、笑いに似た何かとして出てきた。
泣かなかった。
泣くほどのことかどうか、よくわからなかった。
コンビニで缶コーヒーを買って、ビルに戻った。
午後、里奈が「先輩、今日寒いですね」と言った。
「寒いね」となつみは言った。
「外出てたんですか、お昼」
「うん、ちょっと」
「コンビニですか」
「そう」
「私もコンビニにすればよかった、今日のお弁当あんまり美味しくなかった」
「どこの?」
「駅の横のやつです。なんか微妙で」
「あそこはたまに外れる」
「先輩知ってたんなら教えてくださいよ」と里奈は笑った。
なつみも笑った。
里奈は何も知らない。知る必要もない。なつみが今月末でいなくなることを、里奈は知らないし、おそらく誰も知らない。島田さんも、各部署の担当者も、毎朝「おはようございます」と言い合う総務の人たちも、誰も知らない。
そういうシステムなのだ。
派遣会社と派遣先の間で、静かに話がついて、静かに終わる。当人は最終日まで普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に帰る。お別れも言わない。お疲れ様会もない。最終日も、いつもと同じように「お疲れ様です」と言って、エレベーターに乗って、ビルを出る。それで終わりだ。
なつみはそれを、おかしいとは思わなかった。
おかしいとは思わなかったけれど、少し、変だな、とは思った。
夜、家に帰ってから、LINEを開いた。
「ソフィアンガールズ会議室」に打ち込んだ。
なつみ「クビになったwww」
送信して、三秒後にみほから返事が来た。
みほ「は???w」
麻衣「ちょwww どういうこと」
なつみ「派遣会社から電話来て、今月末で終了ですって」
みほ「急すぎるでしょwwww」
麻衣「理由は?」
なつみ「先方の社内事情らしい。でも絶対新しい子入れたからでしょ」
みほ「それって訴えられないの?」
麻衣「派遣ってそういうもんじゃないっけ」
なつみ「そういうもんだよ。3月からどうしよかな」
みほ「とりあえず今週末ペニンシュラ行こ。気分転換!!」
麻衣「絶対行こう!!」
なつみ「行く。スコーン食べて忘れる」
みほ「それでいい!!!」
麻衣「なつみ偉い!!」
なつみ「偉くはないけどwwww」
みほ「でも先輩的な子が仕事教えて、その子が入ったからクビってひどすぎる」
なつみ「それがシステムだからな。まあ仕方ない」
麻衣「なつみ強すぎる」
なつみ「そうでもないよ、ちょっと笑えてくるだけで」
みほ「笑えてくるって何wwwww」
なつみ「なんか、そういうもんだなって」
麻衣「わかるようなわからないような」
みほ「とりあえずペニンシュラで全部話して!!!」
なつみ「話す話す!!!」
スマホを置いて、なつみは天井を見た。
今月末まで、あと二週間ある。
二週間、なつみは普通に出勤して、普通に仕事をする。里奈に「おはようございます」と言って、来客に「いらっしゃいませ」と言って、電話を取り次いで、お茶を出す。島田さんは相変わらずなつみの名前を呼ばないかもしれない。
そして二十八日、「お疲れ様です」と言って帰る。
それで終わりだ。
里奈は翌日も普通に出勤する。そして里奈は、なつみがいた場所に座る。なつみが三年かけて覚えたことを、全部使って仕事をする。里奈は悪くない。里奈はただ二十二歳で、愛嬌があって、飲み込みが早かっただけだ。
なつみはそれを、恨む気にはなれなかった。
ただ少し、里奈のことが心配になった。
里奈も十年後、同じことになるんだろうか。どこかの派遣先で誰かに仕事を教えて、その誰かが入ったからという理由で、お別れも言えずにビルを出ることになるんだろうか。
なるかもしれない、となつみは思った。
なるかもしれないけれど、それはそれで、里奈はなんとかやっていくんじゃないか、とも思った。根拠はない。でも里奈は悪い子じゃないし、友達を大事にできる子だ。そういう子は、なんとかなる。たぶん。
冷蔵庫を開けた。昨日買ったプリンが残っていた。
食べよう、と思った。
ペニンシュラのアフタヌーンティーは、よかった。
三段のスタンドに、サンドイッチとスコーンとケーキが並んでいた。窓の外は有楽町の街で、昼の光の中でみほとえりと向かい合って座った。
「で、どうなの、本当のところ」とみほが聞いた。
「本当のところ?」
「落ち込んでない? 強がってない?」
なつみはスコーンにクロテッドクリームを塗りながら考えた。
「落ち込んでないわけじゃないけど、なんかそれより、変だなって気持ちの方が大きい」
「変?」
「お別れも言えないじゃん、派遣って。最終日も普通に仕事して、普通に帰るだけ。誰も知らないまま終わる」
「それって、寂しくない?」とえりが言った。
なつみは少し考えた。
「寂しいかどうかよりも、なんか、変なシステムだなって。三年いたのに、それで終わりってさ」
「ひどいよね」
「ひどいんだけど、そういうもんだから」
「そういうもんで終わらせていいのかな」とみほが言った。みほは普段ふざけてばかりだけど、たまにこういうことを言う。
「終わらせていいかどうかじゃなくて、終わるんだよね」となつみは言った。「私がどう思っても、システムはそういうふうにできてる」
えりがため息をついた。「なつみって時々すごく達観してるよね」
「達観じゃないよ、慣れだよ」
「慣れたくないよそんなことに」
「慣れたくなくても、慣れるんだよ」
三人しばらく黙った。スタンドのケーキが、光の中でつやつやしていた。
「次どこ行く?」とみほが言った。
「え、もう次の話?」となつみは笑った。
「だって、次の派遣先も決めないといけないじゃん。どうせならいいビル行こうよ」
「いいビルって基準何」
「丸の内とか、赤坂とか。あとできればおじさんが少ない方がいい」
「そんな条件で絞れないよ」
「絞れないかな」
「絞れない」
えりが「でも立地は大事だよ」と言った。「ランチが充実してる方がいい」
「それは同意」となつみは言った。
三人でケーキを食べながら、次の派遣先の条件を話し合った。ランチが美味しいビル、おじさんが少ない職場、できれば英語が使える環境、でも残業は絶対にない方がいい。条件が増えていくにつれて、なつみは少し笑えてきた。
なんか、普通に楽しいな、と思った。
クビになって、二週間後にお別れも言えずにビルを出て、三月から無職になるのに、スコーンは美味しいし、みほとえりは面白いし、普通に楽しい。
そういうもんだよな、となつみは思った。
人生って、そういうもんだよな。
最終日は、普通の日だった。
九時に出勤して、島田さんに「おはようございます」と言った。島田さんは「おはようございます」と言って、通り過ぎた。
里奈が来た。
「先輩、おはようございます」
「おはよう」
「今日寒いですね」
「寒いね」
いつもと同じ会話だった。
なつみは一日、普通に仕事をした。電話を取り次いで、来客にお茶を出して、社内メールをさばいて、昼はコンビニでサンドイッチを買って食べた。
午後、里奈が「先輩、このお客様の会社名、読み方わからなくて」と聞いてきた。
「どれ」
「これです」
「これは『たちばな』じゃなくて『りつか』って読むんだよ、ここの会社」
「え、そうなんですか」
「最初間違えた。気をつけて」
「ありがとうございます」
なつみが三年前に間違えたことを、里奈に伝えた。里奈はメモに書いた。
これでよかった、となつみは思った。
里奈はもう、なつみがいなくても大丈夫だ。
定時になった。
なつみはデスクの引き出しを開けた。私物はほとんどなかった。ハンドクリームと、予備のストッキングと、のど飴。それだけを鞄に入れた。引き出しを閉めた。
里奈はまだ仕事をしていた。
「お疲れ様」となつみは言った。
「お疲れ様です、先輩」と里奈は言った。スマホを見ながら。
なつみはエレベーターのボタンを押した。
ドアが開いた。
乗り込んで、一階のボタンを押した。ドアが閉まった。
誰も知らない。
三年間がそうして終わった。
なつみはエレベーターの鏡に映った自分を見た。コートを着た三十五歳の女が立っていた。疲れてはいない。かといって元気でもない。普通だった。
一階についた。
ビルを出ると、二月の夜風が冷たかった。
なつみは鞄のストラップを直して、九段下の駅に向かって歩いた。




