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なつみ35歳•BBA  作者: はまゆう


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3/3

第三章「今月末で終了

 二月の半ば、派遣会社からLINEが来た。


 送り主は担当の田中さんで、田中さんとはほとんど連絡を取ったことがなかった。契約更新の書類を送ってくる時と、たまに「ご状況いかがでしょうか」という定型文が来る時くらいだった。


 メッセージはこうだった。


 「松本さん、お疲れ様です。少しお話ししたいことがございまして、お電話のお時間をいただくことはできますでしょうか」


 なつみはそれを読んで、ああ、と思った。


 お話ししたいこと。


 その言葉の意味が、すぐにわかった。十年派遣をやっていると、わかる。いい話をお電話でわざわざする必要はない。お電話でしたいのは、言いにくい話だ。


 なつみは「明日のお昼休みはいかがでしょうか」と返した。田中さんはすぐに「ありがとうございます、では明日12時15分にお電話いたします」と返してきた。


 スマホを置いて、なつみは受付の仕事に戻った。


 里奈がちょうど来客の対応をしていた。丁寧な言葉遣いで、相手に名刺を両手で受け取っていた。一ヶ月前には存在しなかった動作が、今は自然にできている。


 なつみが教えたことだ、と思った。


 次の日の昼、なつみはビルの外に出た。


 寒かった。二月の九段下は風が強くて、コートの前を押さえながら歩いた。人が少ない路地を見つけて、立ち止まった。


 12時15分ちょうどに、スマホが鳴った。


「松本さん、田中でございます。お時間いただきありがとうございます」


「いえ、こちらこそ」


「実は、今月末のご契約についてなんですが」


 田中さんの声は、丁寧だった。丁寧で、抑揚がなかった。


「先方のご都合により、今月末をもちまして、ご契約を終了させていただくことになりまして」


「そうですか」となつみは言った。


「突然のご連絡となってしまい、大変申し訳ございません。松本さんのお仕事ぶりには何の問題もございませんで、あくまで先方の社内事情ということで」


「はい」


「次のお仕事につきましては、弊社でもできる限りサポートいたしますので、また改めてご連絡いたします」


「ありがとうございます」


「何かご質問はございますか」


 なつみは少し考えた。


「今月末というのは、二十八日ですか」


「はい、二十八日が最終日となります」


「わかりました」


「本当に申し訳ございません」


「いえ、ありがとうございました」


 電話が切れた。


 なつみはスマホをコートのポケットに入れて、空を見た。


 曇っていた。白い雲が低いところにあって、靖国通りのケヤキが風に揺れていた。イルミネーションはもう取り外されていた。


 里奈が入ったから、二人はいらない。それだけのことだった。


 なつみは笑えてきた。


 笑えてきた、というのは、おかしいと思ったからじゃない。そういうもんだよな、と思ったからだ。そういうもんだよな、という感覚が、笑いに似た何かとして出てきた。


 泣かなかった。


 泣くほどのことかどうか、よくわからなかった。


 コンビニで缶コーヒーを買って、ビルに戻った。


 午後、里奈が「先輩、今日寒いですね」と言った。


「寒いね」となつみは言った。


「外出てたんですか、お昼」


「うん、ちょっと」


「コンビニですか」


「そう」


「私もコンビニにすればよかった、今日のお弁当あんまり美味しくなかった」


「どこの?」


「駅の横のやつです。なんか微妙で」


「あそこはたまに外れる」


「先輩知ってたんなら教えてくださいよ」と里奈は笑った。


 なつみも笑った。


 里奈は何も知らない。知る必要もない。なつみが今月末でいなくなることを、里奈は知らないし、おそらく誰も知らない。島田さんも、各部署の担当者も、毎朝「おはようございます」と言い合う総務の人たちも、誰も知らない。


 そういうシステムなのだ。


 派遣会社と派遣先の間で、静かに話がついて、静かに終わる。当人は最終日まで普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に帰る。お別れも言わない。お疲れ様会もない。最終日も、いつもと同じように「お疲れ様です」と言って、エレベーターに乗って、ビルを出る。それで終わりだ。


 なつみはそれを、おかしいとは思わなかった。


 おかしいとは思わなかったけれど、少し、変だな、とは思った。


 夜、家に帰ってから、LINEを開いた。


 「ソフィアンガールズ会議室」に打ち込んだ。


なつみ「クビになったwww」


 送信して、三秒後にみほから返事が来た。


みほ「は???w」


麻衣「ちょwww どういうこと」


なつみ「派遣会社から電話来て、今月末で終了ですって」


みほ「急すぎるでしょwwww」


麻衣「理由は?」


なつみ「先方の社内事情らしい。でも絶対新しい子入れたからでしょ」


みほ「それって訴えられないの?」


麻衣「派遣ってそういうもんじゃないっけ」


なつみ「そういうもんだよ。3月からどうしよかな」


みほ「とりあえず今週末ペニンシュラ行こ。気分転換!!」


麻衣「絶対行こう!!」


なつみ「行く。スコーン食べて忘れる」


みほ「それでいい!!!」


麻衣「なつみ偉い!!」


なつみ「偉くはないけどwwww」


みほ「でも先輩的な子が仕事教えて、その子が入ったからクビってひどすぎる」


なつみ「それがシステムだからな。まあ仕方ない」


麻衣「なつみ強すぎる」


なつみ「そうでもないよ、ちょっと笑えてくるだけで」


みほ「笑えてくるって何wwwww」


なつみ「なんか、そういうもんだなって」


麻衣「わかるようなわからないような」


みほ「とりあえずペニンシュラで全部話して!!!」


なつみ「話す話す!!!」


 スマホを置いて、なつみは天井を見た。


 今月末まで、あと二週間ある。


 二週間、なつみは普通に出勤して、普通に仕事をする。里奈に「おはようございます」と言って、来客に「いらっしゃいませ」と言って、電話を取り次いで、お茶を出す。島田さんは相変わらずなつみの名前を呼ばないかもしれない。


 そして二十八日、「お疲れ様です」と言って帰る。


 それで終わりだ。


 里奈は翌日も普通に出勤する。そして里奈は、なつみがいた場所に座る。なつみが三年かけて覚えたことを、全部使って仕事をする。里奈は悪くない。里奈はただ二十二歳で、愛嬌があって、飲み込みが早かっただけだ。


 なつみはそれを、恨む気にはなれなかった。


 ただ少し、里奈のことが心配になった。


 里奈も十年後、同じことになるんだろうか。どこかの派遣先で誰かに仕事を教えて、その誰かが入ったからという理由で、お別れも言えずにビルを出ることになるんだろうか。


 なるかもしれない、となつみは思った。


 なるかもしれないけれど、それはそれで、里奈はなんとかやっていくんじゃないか、とも思った。根拠はない。でも里奈は悪い子じゃないし、友達を大事にできる子だ。そういう子は、なんとかなる。たぶん。


 冷蔵庫を開けた。昨日買ったプリンが残っていた。


 食べよう、と思った。


 ペニンシュラのアフタヌーンティーは、よかった。


 三段のスタンドに、サンドイッチとスコーンとケーキが並んでいた。窓の外は有楽町の街で、昼の光の中でみほとえりと向かい合って座った。


「で、どうなの、本当のところ」とみほが聞いた。


「本当のところ?」


「落ち込んでない? 強がってない?」


 なつみはスコーンにクロテッドクリームを塗りながら考えた。


「落ち込んでないわけじゃないけど、なんかそれより、変だなって気持ちの方が大きい」


「変?」


「お別れも言えないじゃん、派遣って。最終日も普通に仕事して、普通に帰るだけ。誰も知らないまま終わる」


「それって、寂しくない?」とえりが言った。


 なつみは少し考えた。


「寂しいかどうかよりも、なんか、変なシステムだなって。三年いたのに、それで終わりってさ」


「ひどいよね」


「ひどいんだけど、そういうもんだから」


「そういうもんで終わらせていいのかな」とみほが言った。みほは普段ふざけてばかりだけど、たまにこういうことを言う。


「終わらせていいかどうかじゃなくて、終わるんだよね」となつみは言った。「私がどう思っても、システムはそういうふうにできてる」


 えりがため息をついた。「なつみって時々すごく達観してるよね」


「達観じゃないよ、慣れだよ」


「慣れたくないよそんなことに」


「慣れたくなくても、慣れるんだよ」


 三人しばらく黙った。スタンドのケーキが、光の中でつやつやしていた。


「次どこ行く?」とみほが言った。


「え、もう次の話?」となつみは笑った。


「だって、次の派遣先も決めないといけないじゃん。どうせならいいビル行こうよ」


「いいビルって基準何」


「丸の内とか、赤坂とか。あとできればおじさんが少ない方がいい」


「そんな条件で絞れないよ」


「絞れないかな」


「絞れない」


 えりが「でも立地は大事だよ」と言った。「ランチが充実してる方がいい」


「それは同意」となつみは言った。


 三人でケーキを食べながら、次の派遣先の条件を話し合った。ランチが美味しいビル、おじさんが少ない職場、できれば英語が使える環境、でも残業は絶対にない方がいい。条件が増えていくにつれて、なつみは少し笑えてきた。


 なんか、普通に楽しいな、と思った。


 クビになって、二週間後にお別れも言えずにビルを出て、三月から無職になるのに、スコーンは美味しいし、みほとえりは面白いし、普通に楽しい。


 そういうもんだよな、となつみは思った。


 人生って、そういうもんだよな。


 最終日は、普通の日だった。


 九時に出勤して、島田さんに「おはようございます」と言った。島田さんは「おはようございます」と言って、通り過ぎた。


 里奈が来た。


「先輩、おはようございます」


「おはよう」


「今日寒いですね」


「寒いね」


 いつもと同じ会話だった。


 なつみは一日、普通に仕事をした。電話を取り次いで、来客にお茶を出して、社内メールをさばいて、昼はコンビニでサンドイッチを買って食べた。


 午後、里奈が「先輩、このお客様の会社名、読み方わからなくて」と聞いてきた。


「どれ」


「これです」


「これは『たちばな』じゃなくて『りつか』って読むんだよ、ここの会社」


「え、そうなんですか」


「最初間違えた。気をつけて」


「ありがとうございます」


 なつみが三年前に間違えたことを、里奈に伝えた。里奈はメモに書いた。


 これでよかった、となつみは思った。


 里奈はもう、なつみがいなくても大丈夫だ。


 定時になった。


 なつみはデスクの引き出しを開けた。私物はほとんどなかった。ハンドクリームと、予備のストッキングと、のど飴。それだけを鞄に入れた。引き出しを閉めた。


 里奈はまだ仕事をしていた。


「お疲れ様」となつみは言った。


「お疲れ様です、先輩」と里奈は言った。スマホを見ながら。


 なつみはエレベーターのボタンを押した。


 ドアが開いた。


 乗り込んで、一階のボタンを押した。ドアが閉まった。


 誰も知らない。


 三年間がそうして終わった。


 なつみはエレベーターの鏡に映った自分を見た。コートを着た三十五歳の女が立っていた。疲れてはいない。かといって元気でもない。普通だった。


 一階についた。


 ビルを出ると、二月の夜風が冷たかった。


 なつみは鞄のストラップを直して、九段下の駅に向かって歩いた。



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