第2話「里奈ちゃん」
1
十二月になった。
九段下のビルの周辺に、イルミネーションが灯った。靖国通りのケヤキが白く光って、夜になると綺麗だった。なつみは定時に上がって、その光の中を駅まで歩いた。綺麗だな、と思った。それだけだった。
クリスマスが近づくと、受付に飾り付けをすることになった。小さなツリーと、赤いリボン。里奈が「かわいいですね」と言いながら手伝った。
「先輩、クリスマス予定あるんですか」
「ないよ」となつみは答えた。
「私もないです」と里奈は言った。「彼氏いないし」
「一緒だ」
「先輩、マチアプは?」
「クリスマスに向けてがんばってるひとがいっぱい出てくるから、逆に地雷も多いんだよね、この時期」
「地雷って?」
「条件だけ良くて中身がない人。あとクリスマスだけ会いたい人」
里奈は眉を寄せた。「それひどくないですか」
「ひどいよ」となつみは言った。「でもそういうもんだよ」
里奈はしばらく考えていた。「先輩って、なんか強いですね」
強い、というより、慣れただけだ。なつみはそう思ったが、口には出さなかった。
2
里奈と話すようになって、なつみは里奈のことが少しずつわかってきた。
埼玉の出身で、家族仲はいい。大学は指定校推薦で入った。特にやりたいことがあったわけじゃなく、とりあえず四年制に行っておいた方がいいと親に言われたからだった。就職活動は正直あまり頑張らなかったと里奈は言った。インターンも行かなかったし、自己分析もよくわからなかった。派遣でとりあえず働いてみて、やりたいことが見つかったら考えようと思っているらしかった。
「やりたいことって見つかりましたか、先輩は」
なつみは少し考えた。
「まだ探してる」
「そうですか」と里奈は言った。特に驚いた様子もなかった。
里奈の世代は、最初からあまり期待していないのかもしれない、となつみは思った。なつみの世代はレールがあると思っていた。だから乗れなかったとき、どこかで傷ついた。里奈の世代はレールなんて最初からないと知っている。だから傷つき方が違う。どちらがいいのかは、なつみにはわからなかった。
3
ある日の昼休み、休憩室でコーヒーを飲んでいると、里奈がスマホを見ながら言った。
「先輩、これ見てくださいよ」
里奈が見せてくれたのは、マッチングアプリの画面だった。三十代前半の男性のプロフィール。年収は八百万、身長は百七十八センチ、趣味はゴルフと料理。
「この人、めっちゃいい感じなんですけど、どう思いますか?」
なつみは画面を見た。確かに悪くなかった。写真も自然で、自己紹介文も堅苦しくなかった。
「いいんじゃない」
「ですよね! メッセージ送ってみます!」
里奈は嬉しそうに画面をタップした。
「先輩もいい人いますか?」
「いやー」となつみは言った。「最近は忙しくて」
嘘だった。マッチングアプリは開いてもいなかった。開く気にもなれなかった。
4
十二月の半ば、さやかがインスタを更新した。
写真はマンハッタンの夜景だった。高い場所から撮ったらしく、ビルの光が川まで続いていた。キャプションには「今年もあっという間だった。来年もよろしく」と書いてあった。英語と日本語で。
次の写真はリビングらしかった。大きな窓、白いソファ、クリスマスツリー。飾り付けは上品で、雑誌のページみたいだった。
その次は夫婦のツーショット。パーティーらしい場所で、さやかはドレスを着ていた。夫はタキシードだった。二人とも笑っていた。
なつみはスクロールしながら、三枚全部にいいねを押した。
指は止まらなかった。今日は止まらなかった。
ただ、スマホを置いてから、しばらく天井を見ていた。
べつに悔しくはない。さやかが悪いわけじゃない。さやかは頑張った。英語が得意で、勇気があって、アメリカに残ることを選んだ。なつみにはできなかったことだ。
できなかった、というより、しなかった。
その差が今の差になっているのかもしれない、とは思う。思うけれど、あの時のなつみにアメリカに残る選択肢が見えていたかというと、見えていなかった。母が待っていた。彼氏がいた。三ヶ月で帰る、と決めて行ったのだ。
人生は選択の連続だというけれど、選択肢が見えていないと選べない。
まあいいか、となつみは思った。
今日は仕事が終わったらコンビニでプリンを買って帰ろうと思っていた。それだけのことを、考えた。
5
クリスマスイブ、なつみはみほと麻衣と渋谷のイタリアンに行った。
三人とも予定がなかった。毎年そうだった。恋人がいた年もあったけれど、今年は三人とも自由だった。自由、という言葉を、みほが言い出した。
「自由だよね、私たち」
「自由だね」となつみは言った。
「彼氏いたら行けないじゃん、こういうの」
「そうだね」
「彼氏より友達の方が気楽だよね、絶対」
「うん」
なつみは白ワインを飲みながら、そうだな、と思った。気楽なのは本当だ。気楽なのは本当だけど、気楽じゃない方もちょっとだけ知りたかった、という気持ちも、ないわけじゃない。
でもそれは言わなかった。
パスタが来た。生ハムとルッコラのやつで、美味しかった。
「マチアプ、年末年始どうする?」とみほが聞いた。
「続けるよ、暇だし」となつみは言った。
「私も。お正月に出てくるひとって割といいひとが多い気がする」
「どういう統計だよ」と麻衣が笑った。
「なんとなく! 気持ちが新しくなるじゃん、正月って」
三人で笑った。
店の外では、カップルが歩いていた。なつみはちらっと見て、それからパスタに戻った。
6
年が明けた。
元日、なつみは実家に帰った。母が煮物を作っていた。父は年賀状を見ていた。弟は嫁と子供を連れてきた。姪が三歳になっていた。姪は走り回って、父に抱っこされて、煮物を少しだけ食べて、眠った。
「なつみはどうなの」と母が聞いた。
「どうって?」
「仕事とか、生活とか」
「普通だよ」
「そう」と母は言った。それ以上は聞かなかった。
母はもう、なつみの就職や結婚について、あまり言わなくなっていた。言っても変わらないと思っているのか、言うことがないのか、なつみにはわからなかった。ただ煮物を作って、「食べなさい」と言うだけだった。
煮物は美味しかった。
なつみは二泊して、帰った。
7
一月、派遣先に戻ると、里奈は元気そうだった。
「お正月どうでしたか、先輩」
「実家帰ってた。里奈ちゃんは?」
「家族でご飯食べて、友達と初詣行って、あとはずっとNetflix見てました」
「いいお正月だ」
「先輩、マチアプどうでしたか」
「年末年始に一人いい感じの人がいたけど、会う前に連絡が来なくなった」
「え、なんで」
「わかんない。そういうことある」
里奈は「ひどい」と言った。「落ち込みませんでしたか」
「二日くらい落ち込んで、忘れた」
「先輩やっぱり強いですね」
強いんじゃなくて、そうしないと生活ができない。なつみはまたそう思ったが、また言わなかった。
里奈は少し考えてから言った。「先輩みたいになりたいかもしれないです」
「どういう意味で」
「なんか、ちゃんとしてるじゃないですか。仕事もできるし、友達と楽しそうだし、落ち込んでも切り替えられるし」
なつみは返事に困った。
ちゃんとしてるのかどうか、自分ではよくわからない。ただ毎日来て、仕事して、帰っているだけだ。それをちゃんとしてると言うなら、そうなのかもしれないけれど。
「里奈ちゃんの方がこれから先長いじゃん」となつみは言った。「いろいろできるよ」
「先輩だってまだ若いですよ」
「三十五だよ」
「若いじゃないですか」
里奈は本気でそう思っているらしかった。二十二歳には、三十五歳が若く見えるのかもしれない。なつみは複雑な気持ちになった。嬉しいような、悲しいような、そのどちらでもないような。
8
その日の午後、休憩室でのことだった。
なつみと里奈がお茶を飲みながら話していると、総務部の古い方の社員が入ってきた。五十代後半くらいの、いつもネクタイが緩んでいるおじさんだった。名前は知らなかった。なつみは彼に用事があったわけじゃないし、彼もなつみに用事があったわけじゃなかった。ただコーヒーを入れに来ただけだった。
おじさんはコーヒーメーカーの前で立ち止まって、こちらを見た。
「おや、里奈ちゃん」と彼は言った。「いつもお疲れ様」
「お疲れ様です」と里奈は言った。
おじさんは里奈と、その隣のなつみを交互に見た。そして、にこにこしながら言った。
「里奈ちゃん偉いねえ、おばさんと仲良く話してて。趣味もノリも違って、合わせるの大変でしょう。いやー、ほんとえらい」
一瞬、沈黙が落ちた。
なつみは笑顔をキープしたまま、頭の中でその言葉を三回繰り返した。おばさん。おばさんと仲良く話してて。趣味もノリも違って。
三十五歳。おばさん。
確かにおばさんの年齢かもしれない。二十歳の子から見たら、三十五歳はおばさんだ。それはわかっている。わかっているけれど、本人の前で「おばさん」と言うだろうか。普通。
里奈は困ったように笑っていた。
「いや、そんなことないですよ」と里奈が言った。「先輩、すごく面白いし、仕事も教えてもらってて」
「そうなの?」とおじさんは言った。「でもやっぱり若い子とおばさんじゃ、感覚違うでしょ。里奈ちゃんが合わせてあげてるんだよ、偉いなあ」
なつみは「そうですね」と言った。
それだけ言って、コーヒーカップを手に取って立ち上がった。
「失礼します」
休憩室を出た。廊下を歩きながら、なつみは笑っていた。笑っているのかどうか自分でもよくわからなかった。口元が引きつっているような、緩んでいるような。
おばさん。
おばさんか。
そうか。
廊下の窓から外を見ると、一月の空は白かった。何の感慨もなかった。ただ、おばさんと言われた。それだけのことだ。
スマホを取り出して、「ソフィアンガールズ会議室」に打った。
なつみ「おばさんって言われたwwwww」
みほ「え、誰に」
なつみ「派遣先のおじさん。里奈ちゃんに向かって『おばさんと仲良く話してて偉いね』って」
麻衣「は?????」
みほ「それ、里奈ちゃんはなんて言ったの?」
なつみ「困ってた」
麻衣「そりゃ困るわ」
なつみ「でも『そうですね』って言った」
みほ「なつみそれで許したの?」
なつみ「許すも何も、おばさんだからね。事実だし」
麻衣「事実じゃないから!! まだ35でしょ!!」
みほ「そのおじさん何歳?」
なつみ「50後半」
みほ「じゃあおじいちゃんだよ」
麻衣「そうそう! おじいちゃんに言われたと思えばいいの」
なつみ「おじいちゃんか。ちょっと気が楽になったw」
みほ「おじいちゃんに『おじいちゃん』って言い返せばよかったのに」
なつみ「派遣だからそんなことできないw」
麻衣「派遣ってつらいね…」
なつみ「つらい。でもスコーン食べたら忘れる」
みほ「次いつ行く?」
なつみ「今月中に」
麻衣「決まり!!」
スマホをポケットにしまった。
おじいちゃん。その言葉を心の中で繰り返すと、少しだけ可笑しくなった。
9
それから二日後、なつみは里奈と二人で受付にいた。
なつみは特に何も考えていなかった。普通に仕事をしていた。書類を整理して、エアコンの温度をチェックして、次の来客に備えていた。
里奈が小さな声で言った。
「先輩、あの時のこと、気にしてます?」
「え、何を」
「『おばさん』って言われたやつです」
なつみは少し間を置いた。
「ああ、あれ。気にしてないよ」
「本当ですか」
「本当。だって事実だし」
里奈は何か言いたそうだった。口を開きかけて、閉じて、また開いた。
「先輩は、おばさんじゃないと思います」
「ありがとう」
「褒めてるわけじゃなくて、そう思っただけで」
「わかってるよ」
なつみは笑った。里奈は真面目な顔をしていた。
「あの人、先輩のこと何も知らないくせに」と里奈が言った。
「何も知らないよ。派遣の子、でしかないから」
「それ、嫌じゃないですか」
「慣れた」
なつみは「慣れた」と言った。その言葉に、嘘はなかった。
10
一月の終わり、みほと麻衣とアフタヌーンティーに行った。
場所は麻衣が予約してくれた、新宿のホテルだった。大きな窓からは都庁が見えた。曇っていたけれど、それなりに眺めはよかった。
「で、そのおじさん、里奈ちゃんに『おばさんと仲良くして偉い』って?」とみほが確認した。
「そう」
「それ、セクハラじゃないの」
「セクハラってほどでもないかも。ただのバカ」
「バカだね」と麻衣が言った。「でもなつみ、よく笑って済ませるね」
「笑って済ませないと、キリがないから」
なつみはスコーンにクロテッドクリームを塗った。濃厚で、甘くて、美味しかった。
「なつみさあ」とみほが言った。「いつも『そういうもんだ』で終わらせてるけど、たまには怒ってもいいんじゃない?」
「怒るって、誰に?」
「おじさんに」
「派遣が派遣先のおじさんに怒ったら、次から案件来なくなるよ」
「それっておかしくない?」
「おかしい。でも現実」
麻衣が紅茶を飲みながら言った。「なつみは強いよ、本当に」
「強くないよ」となつみは言った。「ただ、怒る場所がわからないだけ」
そう言って、なつみはケーキを食べた。苺のショートケーキで、甘さがちょうどよかった。
「でもさ」とみほが言った。「里奈ちゃんはなんて言ったの? おじさんに」
「『先輩はすごく面白いです』って」
「いい子じゃん」
「うん、いい子だよ」
里奈はいい子だ。なつみはそう思った。おじさんの言葉に困りながらも、ちゃんとなつみをかばおうとした。それができる子だ。そういう子は、きっとどこかで報われる。
「その里奈ちゃん、今はどうなの」と麻衣が聞いた。
「仕事はもう完璧。私が教えること、もう何もない」
「それって」
「うん。だから多分、もうすぐ私の出番はなくなる」
みほと麻衣が顔を見合わせた。
「なつみ」とみほが言った。「それって」
「派遣切りってやつ。まだ決まったわけじゃないけど、そういう空気はある」
沈黙が落ちた。
なつみはスコーンを食べ終わって、次のスコーンに手を伸ばした。
「でも、また次のとこ探せばいいし」
「なつみ…」と麻衣が言った。
「大丈夫だよ。いつものことだから」
なつみは笑った。笑わないと、泣きそうだったから。
11
二月になった。
里奈の仕事は完全に板についていた。なつみが教えることは、もう何もなかった。
受付に二人いる必要が、なくなっていた。
なつみはそのことに、なんとなく気がついていた。気がついていたけれど、考えないようにしていた。考えても、どうにもならないことがある。そういうことは、考えないのが一番だ。
里奈は今日も元気だった。
「先輩、バレンタインって何かしますか」
「何もしない。自分用にチョコ買うくらい」
「私も! 友チョコは友達と交換するけど」
「いいね」
「先輩の友達って、みほさんと麻衣さんですか、いつも出てくる」
「そう、大学からの友達」
「仲いいですね、ずっと」
「うん、まあ」となつみは言った。「こういう友達がいると、なんかいいよ」
「どういいんですか」
なつみは少し考えた。
「落ち込んだときに、フォアグラ食べたって送ったら爆笑してくれる」
里奈は一瞬止まってから、笑った。「それ、いいですね」
「でしょ」
里奈は笑いながら「私もそういう友達、ちゃんと作らないとな」と言った。
なつみはそうだよ、と思った。そういう友達が、たぶん一番大事だ。お金より、仕事より、マチアプより。
そういう友達がいる限り、なんとかなる気がする。
根拠はないけれど、そう思う。
12
バレンタインデー、なつみはコンビニで自分用のチョコレートを買った。小さな箱の、値段の張らないやつ。家に帰って、テレビを見ながら食べた。美味しかった。
LINEが来た。
みほ「なつみ、チョコありがとう!」
麻衣「ありがとう! 美味しかった!」
なつみ「こちらこそ! 麻衣のトリュフすごく美味しかった」
みほ「私のクッキーは?」
なつみ「それも美味しかった」
みほ「よかったw 来年も交換しようね」
なつみ「うん」
来年。その言葉が、なつみの中で少しだけ重かった。
来年の今頃、自分はどこにいるんだろう。派遣先のビルの受付にいるのか、それとも別のビルにいるのか、それとも――
考えるのをやめた。
チョコレートをもう一粒食べた。
13
二月の終わり、なつみは派遣会社から一通のLINEを受け取った。
送り主は担当の田中さん。田中さんとはほとんど連絡を取ったことがなかった。契約更新の書類を送ってくる時と、たまに「ご状況いかがでしょうか」という定型文が来る時くらいだった。
メッセージはこうだった。
「松本さん、お疲れ様です。少しお話ししたいことがございまして、お電話のお時間をいただくことはできますでしょうか」
なつみはそれを読んで、ああ、と思った。
お話ししたいこと。
その言葉の意味が、すぐにわかった。十年派遣をやっていると、わかる。いい話をお電話でわざわざする必要はない。お電話でしたいのは、言いにくい話だ。
なつみは「明日のお昼休みはいかがでしょうか」と返した。田中さんはすぐに「ありがとうございます、では明日12時15分にお電話いたします」と返してきた。
スマホを置いて、なつみは受付の仕事に戻った。
里奈がちょうど来客の対応をしていた。丁寧な言葉遣いで、相手に名刺を両手で受け取っていた。一ヶ月前には存在しなかった動作が、今は自然にできている。
なつみが教えたことだ、と思った。
それが、ちょっとだけ胸に刺さった。
14
その夜、なつみはベッドに横たわりながら天井を見ていた。
明日、田中さんから電話が来る。内容はだいたい想像がつく。契約終了。今月末で。次の仕事はできるだけサポートします。
十年もやってれば、わかる。
里奈が来て、里奈が仕事を覚えて、なつみの出番がなくなった。それだけのことだ。里奈は悪くない。里奈はただ二十二歳で、愛嬌があって、飲み込みが早かっただけだ。
なつみはそれを、恨む気にはなれなかった。
ただ少し、里奈のことが心配になった。
里奈も十年後、同じことになるんだろうか。どこかの派遣先で誰かに仕事を教えて、その誰かが入ったからという理由で、お別れも言えずにビルを出ることになるんだろうか。
なるかもしれない、となつみは思った。
なるかもしれないけれど、それはそれで、里奈はなんとかやっていくんじゃないか、とも思った。根拠はない。でも里奈は悪い子じゃないし、友達を大事にできる子だ。そういう子は、なんとかなる。たぶん。
なつみは目を閉じた。
明日は、普通に出勤しよう、と思った。




