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なつみ35歳•BBA  作者: はまゆう


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1/3

第1話「制服とベンツ」


なつみが派遣されているのは、九段下の十八階建てビルの十二階だ。


エレベーターを降りると、正面に会社のロゴが入ったアクリルパネルがあって、その前に受付カウンターがある。なつみはそこに座って、来客にお茶を出したり、電話を取り次いだりしている。


仕事は難しくない。


上智の英語学科を出て、フランス語の弁論大会で三位になったことのあるなつみには、少なくとも難しくはない。


九時になると、総務の島田さんが「おはようございます」と言いながら通り過ぎる。なつみも「おはようございます」と言う。それで会話は終わる。島田さんはなつみの名前を三ヶ月経っても覚えていない。派遣の子、で十分なのだ。


まあそんなもんだよな、となつみは思う。


スマホにLINEが来ていた。「ソフィアンガールズ会議室」、七件。


みほ「昨日のマチアプのひどかったww 写真と全然違くて最初誰かと思ったw」


麻衣「え、どのくらい違う?」


みほ「別人レベル。でも奢ってくれたからまあいいかってなったw」


麻衣「それでいいのかwww」


みほ「よくないw でもごはん美味しかった」


麻衣「逞しすぎるwwwww」


みほ「そういえばなつみ先週のひとどうだった?」


先週のひと。なつみは少し考えた。先週のひとは四十歳の勤務医で、恵比寿のフレンチのコースに連れていってくれた。お店は悪くなかった。


悪くなかったのはお店だけだった。


「三十五歳は小学生のママの年齢ですね」と彼は言った。フォアグラのソテーを切り分けながら、さらっと言った。


なつみは「そうですね」と答えた。


「キャリア組で年収も高ければ三十五歳独身でもアリだと思うんですけど、派遣ですか。先がないですね」


「そうですね」


「三十五歳って高齢出産ですよね。僕にメリットあるかな」


「そうですね」


そうですね、しか言えなかった。言葉が出てこなかったというより、もうどうでもよくなっていた。フォアグラは美味しかった。デザートのミルフィーユも美味しかった。お会計は割り勘だった。「二十代前半の女性なら僕が全部出すんですけどね」と彼は苦笑しながら言った。


なつみ「フォアグラ美味しかった」


麻衣「それだけ!?」


みほ「ちょwww どういうこと」


なつみ「先がないですねって言われた」


麻衣「は???」


みほ「は???」


なつみ「割り勘だったし」


麻衣「最悪すぎる」


みほ「でもフォアグラ食えたからよかったってこと??」


なつみ「そういうこと」


麻衣「逞しすぎるwwwww」


みほ「なつみ来週アフタヌーンティー行こ!! 気分転換!!」


なつみ「行く行くーー!!」


来客が来た。なつみは立ち上がって、「いらっしゃいませ」と言った。



なつみが初めて制服を着たのは三歳の春だった。


紺のセーラー服に白いライン、プリーツスカート。冬はベレー帽、夏は麦わら帽子。おかばんは革製で、名前のイニシャルを焼き付けてもらった。


母は泣いた。


難関で知られるカトリックの幼稚園に合格したとき、母は声を上げて泣いた。父は「よかったな」と言って、それだけだった。父はそういう人だった。感情を大きく出さない人だった。でも母はちがった。母はなつみの合格を、自分の合格のように喜んだ。


送迎は電車だった。


家にはベンツがあったけれど、母はわざわざ電車を使った。制服を着たなつみを連れて、電車に乗った。なつみは後になって、それがなぜだったかわかった。見せたかったのだ。この子を。この子の制服を。このおかばんを。


「おかばんが曲がってるわ」と母はよく言った。「お帽子もきちんと被りましょう」


全てに「お」がついた。おかばん、お帽子、お教室、お友達。母の言葉の世界では、なつみの周りのものは全部お上品だった。


幼稚園から中学、高校と、カトリックの一貫校に通った。同じ制服を、十五年着た。


上智大学外国語学部英語学科に推薦で入ったとき、母はまた泣いた。父は「よかったな」と言った。


大学三年の夏にアメリカへ短期留学した。三ヶ月間、なつみは真面目に勉強した。大学の成績はオールAだった。帰国したとき、母は「さすがね」と言った。それがなつみは好きだった。さすがね、という言葉が。



就職活動が始まるまで、なつみは自分が選ぶ側だと思っていた。


就職活動は惨敗だった。


大手商社、全滅。外資系金融、全滅。航空会社、一次で落とされた。なつみは自分の何がいけないのかわからなかった。英語はできる。フランス語もできる。成績もいい。ルックスもかわいいと言われる。


同じゼミの男子は次々と内定をもらっていた。


上智の英語学科の卒業生が多いという翻訳会社に入った。英米の出版社とやり取りをする仕事で、聞こえはよかった。実態は違った。残業代は出なかった。英米との時差があるので深夜まで働くのは当然とされていた。有給は取れなかった。取ろうとすると、空気が悪くなった。


派遣で大手新聞社や商社に勤めている同期の友達の方が、給料も良くて定時で帰れた。


母が「三年は一カ所で勤めなさい」と言ったので、三年我慢した。三年経って辞めた。それから派遣会社に登録した。


二十五歳だった。



大学時代、付き合っていた同学年の彼がいた。大手商社マンになって、週末に会うたびにゼクシィを広げた。オークラがいい、帝国ホテルがいい、このドレスかわいい、そんな話を二人でしていた。


二人でティファニーに行って、ゴールドのリングを選んだ。細くてシンプルなやつで、二人で左手の薬指にはめた。店員さんが笑顔で包んでくれた。婚約指輪とは言わなかった。でも二人とも左手の薬指だった。


二十九歳の時、突然別れを告げられた。理由はよくわからなかった。彼はその3ヶ月後、自分の会社の派遣社員と入籍した。相手は二十歳で、短大を出たばかりだった。


彼女のインスタを見に行ったら、「彼ちゃまがウエディングドレスが似合ううちに結婚ってうるさくて押し切られました」と書いてあった。


二十九歳は、ウエディングドレスが似合わない年齢らしかった。左手の薬指のリングを外した日のことを、なつみは今でも時々思い出す。



大学の同期で、一番仲が良かった麻衣は聖心女子学院からの推薦で上智に来た子だった。おっとりしていて、ブランドものには興味がなく、文学が好きな子だった。彼女も就職がなかった。公認会計士のおじさんの事務所で働いた。


結婚前提でお台場のタワマンで国家公務員と同棲したが、彼はオンラインゲームが趣味で、帰宅するとすぐにヘッドセットをつけて二十歳くらいの無職のゲーマーとダンジョンに潜った。画面の向こうのそいつと一晩中しゃべって、麻衣のことは空気だった。麻衣は彼と別れた。


臨床心理士の資格を取ったみほは、都庁の会計年度任用職員で児童相談所に勤めている。更新は三回まで。その後は派遣で、心理学と全然関係ない仕事をしている。


行政の会計監査をしている子も、驚いたことに派遣だった。


バレエのスタジオで知り合った男性が弁護士だと聞いて、なつみは少し身を乗り出した。弁護士。その響きは、まだなつみの中に残っている何かを刺激した。でも彼は「今の時代、弁護士だけじゃ食べていけないので」と言って、週に三日ヨガのインストラクターもしていると教えてくれた。


みんな優秀だった。みんな真面目だった。さぼっていたわけじゃない。ただレールがなかった。あると思っていたレールが、最初からなかった。



なつみが派遣会社に登録してから十年が経った。


最初の頃は大手の派遣先も多かった。外資系メーカーの秘書補佐、大手広告代理店の営業事務。英語を使う仕事もあった。三十を過ぎると、ガクンと減った。大手企業は若い子を優先する。なつみに回ってくるのは、大きなビルに入っているのが取り柄みたいな企業ばかりになっていった。


資格の時代だというので、FPの資格も取った。宅建も勉強した。でも結局、若さが一番の資格だと悟った。


三十を過ぎるとマッチングアプリも変わった。五十代のバツイチ、六十代の再婚希望、写真と全然違うひと。すぐ結婚を求めてくる人が増えた。三十過ぎの独身女性はそういう目で見られる、ということを、なつみは三十になって初めて知った。


ふとスマホを開くと、Xのトレンドに「#29歳からはBBA」が入っていた。


なつみは思わずその投稿を開いた。バズっている投稿は、若い女性によるものだった。


「29歳からはBBAババアだよね。だってアラサーじゃん。アラサーって時点でもう終わってる。30過ぎて女やってると思ってる人こわ」


リプライ欄には賛否両論。賛成する若い女性もいれば、「そんなこと言ったら自分もいずれなるよ」と諫める人も。でも一番多かったのは「29歳はまだ若いだろ」という中年男性のコメントだった。


なつみはその投稿をスクリーンショットして、「ソフィアンガールズ会議室」に送った。


なつみ「これ見て。29歳からBBAらしい」


みほ「は??? 私は? 私は35ですけど?」


麻衣「じゃあなつみはBBAの中のBBAだね」


なつみ「超上級者ってこと?」


みほ「殿堂入りBBA」


麻衣「そっちの方がレアじゃん! 褒めてる!」


なつみ「お墓に刻むわ『殿堂入りBBA』って」


三人で適当なことを言い合っているうちに、なつみはその投稿のことはどうでもよくなっていた。BBAでも何でもいい。フォアグラを食べて、友達と笑っていられるなら、それでいい。



それでも、生活は楽しかった。


みほと麻衣と三人でアフタヌーンティーに行って、マチアプのひどい話を肴にスコーンを食べた。ライブにも行った。ディズニーランドにも行った。夜中にLINEでくだらない話をした。三十五歳になっても、それは変わらなかった。


十年後のことは、考えなかった。


考えても、仕方がないのだ。



「松本さん、ちょっといいですか」


総務の島田さんに呼ばれたのは、十月の終わりだった。


なつみは松本という苗字だ。今の派遣先で苗字を呼ばれたのは、初めてかもしれなかった。


「来月から新しい方が入ることになりまして」


島田さんは言いにくそうにしていた。でも、そんなに言いにくそうでもなかった。


「二十二歳の方で、受付と一般事務をお願いしようと思っているんですが、しばらくの間、教育係をお願いできますか。松本さんが一番業務に詳しいので」


「もちろんです」となつみは言った。


そうして里奈がやってきた。



里奈は愛嬌があった。


都内の、なつみが聞いたことのない大学を出ていた。敬語はあやしかった。「〜でよろしかったでしょうか」と過去形を使うし、「なるほどですね」とも言った。でも笑顔は本物だった。教えると素直に頷いた。メモを取った。翌日にはちゃんと覚えていた。


悪い子じゃない、となつみは思った。


里奈はよくスマホを見ていた。怒る気にもなれなかった。なつみだって見てる。


「先輩、マチアプやってますか」と里奈は休憩室で聞いてきた。


「やってるよ」となつみは答えた。


「どうですか、出会いありますか」


「フォアグラは食べられる」


里奈は一瞬考えて、それから笑った。「先輩おもしろいですね」と言った。


なつみも笑った。


里奈に教えることは、思ったよりたくさんあった。電話の取り次ぎ方、来客対応の手順、社内システムの使い方、各部署の担当者の名前と顔。なつみが三年かけて覚えたことを、なつみは一から教えた。


里奈は飲み込みが早かった。


一週間で電話対応が板についた。二週間で来客対応も一人でできるようになった。三週間目には、なつみが席を外しても何も問題がなかった。


「里奈ちゃん、もうほとんど覚えたね」


ある日の昼休み、なつみがそう言うと、里奈は「先輩の教え方が上手なんですよ」と言った。


お世辞でも悪い気はしなかった。


「先輩って、ずっとここですか?」


「ここは三年目かな。派遣自体は十年」


「十年! すごいですね」


すごい、という言葉の意味が、里奈の中でどういう意味なのかは、なつみにはわからなかった。でも里奈は悪意のある子じゃない。なつみはそれはわかった。


「里奈ちゃんはどうしたいの、これから」


「うーん」と里奈は言った。「とりあえず彼氏ほしいです」


なつみは笑った。「それは私も同じだ」


里奈も笑った。


10


十一月の半ば、スマホにインスタグラムの通知が来た。


さやかがストーリーを更新していた。


さやかは大学の同学科だった。おとなしくて目立たない子だったが、英語だけは群を抜いていた。卒業後にアメリカに語学留学して、そのままニューヨークに残った。現地のマッチングアプリで出会ったアメリカ人と結婚したと、数年前に知った。夫はIT系の仕事をしているらしかった。


ストーリーには、メトロポリタン歌劇場の写真があった。


ロビーの大きなシャンデリア、赤いカーペット、正装した人々。夫と並んで撮った写真には「date night」とキャプションがついていた。夫は背が高くて、さやかは幸せそうに笑っていた。


なつみはいいねを押した。


一瞬だけ、指が止まった。でも押した。


おめでとう、というコメントを打ちかけて、やめた。何がおめでとうなのかよくわからなかった。


画面を閉じて、受付に戻った。


ちょうど来客があった。「いらっしゃいませ」と言いながら立ち上がって、なつみはさやかのことを忘れた。忘れようとしたわけじゃなくて、仕事をしていたら自然に頭から消えた。それだけのことだった。


11


みほ「アフタヌーンティーどこにする? パレスホテルまだ行ったことないんだけど」


麻衣「いいじゃん! なつみどう?」


なつみ「行きたい! 来週の土曜どう?」


みほ「神! 予約する!」


麻衣「やったー!」


なつみ「インスタ映えしそう」


みほ「絶対映える! ドレスコードある?」


麻衣「パレスはスマートカジュアルらしい」


みほ「じゃあちゃんとした服着ていかないとだ」


なつみ「何着てくかもう悩んでる」


麻衣「気が早すぎるwwww」


来週の土曜が、少し楽しみになった。


さやかのメトとか、フォアグラ割り勘男とか、「29歳からBBA」とか、どうでもよくなってきた。


そういうもんだよな、となつみは思う。


今日も九段下の空は青かった。エレベーターのドアが閉まる。十二階のボタンを押す。また一日が始まる。



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