第14話「叙々苑の日」
九月に入って、雨の日が続いていた。
朝、スマホを開くと、いつものメッセージが届いていた。
「おはようございます。連日の雨ですね。今日も頑張りましょう」
司法書士の彼からだった。なつみも「おはようございます。本当に、よく降りますね。頑張りましょう」と返した。天気以外の話題が出たことは、一度もなかった。
そのすぐ後に、もう一件、LINEが届いた。
上原千香子からだった。小学校の同窓会以来、連絡を取るのは初めてだった。
「なつみちゃん、まだ求職中? 平日の昼間空いてる?」
「うん 暇 笑」
返信してから、少し正直すぎたかなと思った。でも、本当のことだった。
「うちの会社、毎月何回か中途採用説明会をやってるの。年金の話とか会社案内とか、午前中に一時間半くらい。そのあと四千円くらいのランチ会があってね、ヒルトンか京プラかハイアットリージェンシーか叙々苑。日によって違うから、好きなとこ選べるの」
「すごいね」
「それでね、うちの営業部に研修中の新人さんがいるんだけど、まだ一人も説明会に呼べてなくて、契約も取れてないの。入社の義務はないから、気軽にお食事に来てあげてくれないかしら」
「保険は向いてないと思う」
「いいのよ、食べるだけ。それに、わたしもなつみちゃんに会いたいし。ね、お願い」
千香子の文面は、小学校の頃と同じように、おっとりしていた。おっとりしているのに、断る隙がなかった。営業部長というのは、こういうことなのかもしれない、となつみは思った。
日程表を見た。ヒルトン、京王プラザ、ハイアット、叙々苑。
ソフィアンガールズの女子会は、アフタヌーンティーにイタリアンにフレンチと、洋食ばかりだった。
なつみは、叙々苑の日を選んだ。
二
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「千香子ちゃんの保険会社の説明会行くことになった。ランチ付き」
麻衣「出た、生保のランチ会」
みほ「どこ?」
なつみ「叙々苑」
みほ「は? 叙々苑? 私も求職中なんだけど」
麻衣「みほは短期派遣中でしょ」
みほ「短期だから実質求職中みたいなもんだよ」
麻衣「気をつけなよ。あれ、タダ飯に見えて、人数がカウントされてるから」
なつみ「カウント?」
麻衣「うちのおじさんの事務所、生保の代理店さんも出入りしてるから知ってるの。新人には説明会に何人連れてきたかの数字があるのよ。なつみは、その新人さんの『一人目』になるってこと」
なつみ「私、数字になるんだ」
麻衣「98.7%の次は、一名様」
みほ「なつみ、カウントされる人生だね」
なつみ「いいよ、カルビが食べられるなら一名様でも」
麻衣「その割り切り、嫌いじゃない」
みほ「タン塩の写真送って」
三
説明会の会場は、新宿の高層ビルのワンフロアだった。
受付で名前を書くと、新人の女性が駆け寄ってきた。三十歳くらいで、少し緊張した顔をしていた。前の職場はアパレルの販売員だったという。
「松本さんですね。上原部長から伺ってます。今日は来てくださって、本当にありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。その頭の下げ方に、なつみはなんとなく見覚えがあった。九段下の受付で、来客に頭を下げていた頃の自分だった。
会場には、二十人ほどの女性が座っていた。
なつみは、ぐるりと見回した。三十代、四十代、五十代。子供を保育園に預けてきたらしい人。スーツが少しきつそうな人。なつみと同じように、なんとなく所在なさげに座っている人。
二十代は、ほとんどいなかった。
説明が始まった。年金制度の話、会社の歴史、研修制度。前に立った講師の男性が、にこやかに言った。
「当社では、三十代、四十代の方も大歓迎です。人生経験が、そのままお客様からの信頼になる仕事ですから」
なつみは、少し笑いそうになった。
二十五歳から後期高齢者の世界で、三十七歳が「大歓迎」と言われる場所が、ここにあった。
四
ランチは、叙々苑の個室だった。
千香子が、少し遅れて入ってきた。上品なベージュのスーツを着ていて、それでも雰囲気は小学校の頃と変わらなかった。新人の女性が、ぱっと背筋を伸ばした。
「なつみちゃん、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。叙々苑、久しぶり」
「よかった。たくさん食べてね」
タン塩が運ばれてきた。網の上で、じゅっと音がした。なつみは、麻衣の忠告を思い出しながらも、タン塩を一枚、レモンにくぐらせて口に入れた。
美味しかった。
派遣でも、無職でも、一名様でも、タン塩は美味しい。そういうもんだよな、となつみは思った。
カルビを焼きながら、千香子が言った。
「なつみちゃん、失業保険が終わっても行くところが決まってなかったら、つなぎで全然構わないから、うちの研修に来て」
「研修?」
「座って研修を受けるだけで、月に二十万以上もらえるの。一ヶ月目が生命保険、二ヶ月目が火災や自動車の損保。気に入ったらずっといてくれたら嬉しいけど、求職しながらのつなぎでもかまわないのよ。お給料が出て、各種保険もつくから、悪い話じゃないと思う」
千香子は、本当に悪気のない顔で言った。たぶん、本当に悪い話だとは思っていないのだ。千香子の世界では、これは親切だった。
新人の女性が、横で小さく頷いていた。この人も、きっと同じ言葉で誘われて、ここに座っているのだろう。
なつみは、中高時代を思い出した。母親が保険の外交をしているという級友が、クラスに何人かいた。お母さんたちは、いつも身ぎれいにしていて、明るくて、人の家の玄関先で長く話すのが上手だった。父親の会社が傾いた子もいた。離婚した子もいた。保険の外交は、白百合のお母さんたちが、人生のどこかで足場を失った時に立つ場所だった。
自分には、向いていない、と思う。
向いていない、というのが本当なのか、それとも、あのお母さんたちの側に立ちたくない、というだけなのか、なつみにはよくわからなかった。
「考えておくね」となつみは言った。
「うん、考えておいて」と千香子は微笑んだ。「なつみちゃん、昔から賢かったもの。わたしなんかより、ずっと向いてると思うけどなあ」
小学校で一番目立たなかった子が、営業部長として、それを言った。
なつみは、ハラミを網に乗せた。
五
帰りの電車で、「ソフィアンガールズ会議室」に写真を送った。タン塩と、カルビと、デザートの杏仁豆腐。
みほ「ずるい」
麻衣「で、勧誘された?」
なつみ「研修受けるだけで月二十万だって。つなぎでもいいって」
麻衣「最初の数ヶ月はね。そのあと、契約取れないと固定給が下がっていくやつ」
みほ「麻衣、詳しすぎない?」
麻衣「代理店さんの愚痴をおじさんの事務所で毎月聞いてるから」
みほ「でも、座ってるだけで二十万って、正直、今の私の短期派遣より高いんだけど」
なつみ「それ」
麻衣「それ、が一番危ないの。みんな、それ、で入る」
みほ「臨床心理士の資格、保険の営業に使えないかな。お客さんの心理分析とか」
麻衣「使えるかもしれないけど、それで使われるのは嫌じゃない?」
みほ「嫌だね」
なつみ「千香子ちゃん、悪気ゼロなんだよね。本当に親切で言ってくれてる」
麻衣「悪気ゼロの人が一番強いのよ。断る理由を与えてくれないから」
なつみ「わかる」
みほ「とりあえず、次の叙々苑の日、私も一名様になりたい」
麻衣「みほ、それは数字を水増ししてるだけ」
みほ「新人さんも助かるし、私も助かるじゃん。ウィンウィン」
なつみは、電車の中で、少しだけ笑った。
六
家に帰って、なつみはソファに座った。
叙々苑のことを、誰かに話したかった。千香子が営業部長らしくなくて、でもちゃんと営業部長だったこと。説明会の会場に二十代がいなかったこと。三十七歳が「大歓迎」だったこと。タン塩が美味しかったこと。
司法書士の彼とのトーク画面を開いた。
今朝の「連日の雨ですね。今日も頑張りましょう」が、一番下にあった。その上も、その上も、同じような文面が並んでいた。
叙々苑の話を書きかけて、やめた。
読んだ本の話も、千香子の話も、この画面に書ける雰囲気じゃなかった。毎朝届く挨拶は、天気の話以外を受け付けない、小さな四角い窓のようだった。
なんで続けてるんだろう、となつみは思った。
答えは出ないまま、スマホを伏せた。
七
翌朝、目が覚めて、なつみはいつものようにスマホを見た。
メッセージは来ていなかった。
七時を過ぎても、八時を過ぎても、来なかった。
外は、まだ雨だった。
連日の雨ですね、と言ってくれる人がいないと、雨はただの雨だった。
なつみは、自分が少し落ち着かないことに気づいて、驚いた。意味がないと思っていたはずだった。天気の話しかしない、恋愛でも友達でもない、ただの習慣だと思っていたはずだった。
九時を過ぎた。
なつみは、トーク画面を開いて、しばらく迷ってから、打った。
「おはようございます。今日も雨ですね」
頑張りましょう、は付けなかった。付けようとして、なんとなく、やめた。
送信した。
十分後に、既読がついた。
返信は、来なかった。
なつみは、スマホをテーブルに置いて、窓の外を見た。雨は、細く、まっすぐに降り続けていた。
叙々苑のタン塩の味を、なぜか思い出した。




