第15話 新卒組と中途採用
雨の朝から一日たって、メッセージは何事もなかったように届いた。
「おはようございます。久しぶりの晴れ間ですね。今日も頑張りましょう」
前の日に一通も来なかったことにも、なつみが自分から送った「おはようございます。今日も雨ですね」にも、何も触れていなかった。既読だけついて返事のなかった一日は、最初から存在しなかったことになっていた。
なつみは、画面を見ながら、少しほっとした。
ほっとした自分に、少し腹が立った。
「おはようございます。久しぶりに洗濯物が干せます。頑張りましょう」
返信して、ベランダの窓を開けた。秋の空気が入ってきた。
二
みほがどうしても叙々苑に行きたいと言うので、なつみは生保のお食事付き説明会に、二度目の参加をすることになった。
なつみが二回、みほが一回。合計三回、説明会に人を呼んだことになるので、あの新人さんはとりあえず危機を脱したらしい。
叙々苑の個室で、みほは終始ご機嫌だった。
「大学生の頃の会社訪問でさ、売り手市場の男子学生は高いご飯とか旅行とか接待されてたじゃん。女子学生は全然そんなのなかったよね」
みほはタン塩を網に並べながら言った。
「十五年遅れで、やっと接待される側になった」
「みほ、それ自分で言ってて悲しくない?」
「悲しくない。叙々苑だもん」
なつみは笑いながら、ふと、自分の会社訪問のことを思い出した。
高校と大学で一つ上だった、三菱商事に勤める先輩に連絡をした時のことだ。先輩は会社の近くの静かなフランス料理店を予約してくれていて、フルコースを食べながら、会社の雰囲気や仕事の話を聞かせてくれた。
割り勘のつもりで財布を出したら、「ここはいいです。エレベーターのところで待ってて」と言われた。
領収書を切るんだろうと、あの時は思った。でも今思えば、白百合の子は金払いがいいから、後輩が訪ねてきたのが嬉しくて、ご馳走してくれたのかもしれない。
あのフレンチの後、なつみは三菱商事に落ちた。
今は、生保の説明会で叙々苑を食べている。
どちらも美味しかった、というのは、たぶん、なつみの長所なのだと思う。
三
会社からの四千円のランチコースの後、千香子が京王プラザのラウンジでケーキセットをご馳走してくれた。千香子のおごりなのか経費なのかは、聞かなかった。
新人さんは、太田さんという名前だった。
立教を出てアパレルに入ったが、毎月十万円以上、自分のブランドの服を買わされたのだという。セール品ではなく、新作の中から。しかも、自分で選べない。
「店長が、これ着て、って決めるんです。お給料の半分くらいが、服で消えてました」
「それで辞めたの?」
「はい。クローゼットが職場の制服でいっぱいになって、私服が一枚もなくなった時に」
太田さんは笑って言った。笑い方が上手な人だった。たぶん、販売員の頃に身につけた笑い方なのだろう。
どの職も大変だ、となつみは思った。
立教を出ても、上智を出ても、修士を出ても、低い賃金と不安定な雇用の中で、みんな何かを差し出しながら働いている。服を差し出す人、身体を差し出す人、資格を差し出す人。
このシステムはおかしい、と思う。思うけれど、モンブランを前にして言うことでもなかった。
なつみは、栗のクリームをフォークですくった。
四
みほは、研修の説明を聞いて、すっかり前のめりになっていた。
「最初の三ヶ月は月収二十万で、生保と損保の販売資格を取ると一ヶ月分の報酬が出るの。そのあとは、二年間お給料保証で月額二十六万」
千香子が、手帳を開いて説明した。
「二年間お給料保証って、どういうこと?」となつみが聞いた。
「うん。生保のお給料は基本給と手当でできてて、二年間は契約が取れなくても、合計で二十六万保証されるの」
「その後は?」
「その後は、基本給と手当と歩合になるわ」
「基本給はどれくらい?」
「八万」
「八万?」なつみは思わず声を上げた。「社会保険払ったら、ほとんど残らないんじゃない?」
「二年の間にしっかり契約を取っていたら、歩合で同じくらいのお給料になるわよ」
「歩合で十八万つけるには、二年間でどれくらい契約を取る必要があるの?」
「月五件かな」
「月五件を二年で、百二十件。それで十八万になるの?」
「うん。ざっくり割っても、一件あたり月千五百円でしょう。なるわよ」
千香子は、本当に簡単なことのように言った。
なつみは、父の保険のことを思い出した。掛け捨ての保険料が、月に数万円だった。それを百二十件。千香子にとっては、ざっくり割れる数字だった。なつみには、百二十人の顔が、一人も浮かばなかった。
五
「わたしたちも、頑張れば千香子ちゃんみたいに営業部長になれるの?」
なつみが聞くと、千香子は少しだけ言葉を選んだ。
「んー、そこはちょっと。わたしは新卒で入社したから、コースが別なの」
「コース?」
「でも、なつみちゃんやみほさんも、頑張ればトレーナーにはなれるわよ。普通の会社なら課長みたいなもので、お給料もいいわよ」
コースが違う、という言葉が、なつみの中に引っかかった。
みほが、横から聞いた。
「ボーナスは、何ヶ月分出るんですか?」
「ボーナスは歩合によるの。契約がなければ三千円とか一万円とか、雀の涙だけど、企業から数億の契約を取ったりしたら、数十万になるわよ」
「千香子ちゃんも同じ?」
千香子は、ティーカップを置いた。
「ううん。正直に言うね。違う。わたしは普通のボーナス」
少し間を置いて、続けた。
「先に言っとくけど、夏休みや冬休みも、新卒組は二日多いの」
隠さなかった。そこが千香子らしかった。
なつみは、聞かずにはいられなかった。
「自分と全然違う待遇なのに、どうして幼稚園からの友達を誘うの?」
千香子は、困ったようにも、悲しそうにも見えない顔で、なつみを見た。
「なつみちゃんに同じものをあげられたらいいけど、会社のシステムだから、わたしにはできない」
それから、ゆっくり指を折った。
「でも、少なくとも三回ホテルのお食事が食べられるし、次の仕事が見つからない時に、研修を受けてるだけで働くのと同じお給料がもらえて、社会保険もつくし、他の仕事を探しながらここにいられる。いいんじゃないかと思って」
「うん」
「それにね、もし働くことになったら、七十歳まで働けるの。希望すれば、もっと。九十代の外交員さんのニュース、見たことあるでしょう」
千香子は、本気で、それを良いことだと思っていた。
三十七歳から後期高齢者の世界で、九十代まで働ける場所。
コースが違う人から差し出される、精一杯の親切だった。
みほは、隣で何度も頷いていた。
六
帰り際、二人とも手土産をもらった。
太田さんからは、京王プラザのベーカリーの食パンと、調理パンが二個。千香子からは、マリアージュ・フレールの紅茶のセット。
「来てくれて、本当にありがとうございました」と太田さんは深く頭を下げた。
食パンの袋が、まだ少し温かかった。
新宿駅に向かう途中、みほと二人でドトールに入った。叙々苑とケーキセットの後で、ブレンドを二つ頼んだ。
「なつみは、どうする?」とみほが聞いた。
「みほは?」
「わたし、今の派遣が来月までなの。その間に、あと二回お食事イベントに参加して、最後に研修に参加しようかなって」
「本気なんだ」
「座ってるだけで二十万だよ。今の短期派遣より多いし、社会保険つくし。二年は二十六万出るし。その間に、臨床心理士の求人が出たら、そっちに行けばいいし」
「基本給八万の話、聞いてた?」
「聞いてた。二年後のことは、二年後のわたしが考える」
みほは、ブレンドに砂糖を二本入れた。
「なつみは?」
なつみは、少し考えた。
「あと一回は、お食事一緒に行けるよ」
「研修は?」
「わたしは、保険に限らず、百科事典でも学習教材でもウォーターサーバーでも、営業っていうものが、たぶんやりたくないんだよね」
「向いてないって言ってたもんね」
「向いてないのか、やりたくないのか、自分でもよくわかんない。でも、来月ギリギリまで、これまで通り事務の仕事と、介護も探してみる」
「介護は、営業じゃないもんね」
「介護は、若い子が欲しいって言われたけどね」
二人で笑った。
笑いながら、なつみは食パンの袋を膝の上で抱え直した。
コースが違う。
千香子とも、太田さんとも、みほとも、たぶん、少しずつ違うコースを歩いている。どのコースが正解なのか、誰も知らない。千香子だって、自分のコースを選んだわけじゃなかった。パパのコネで、腰掛けのつもりで乗ったレールが、たまたま営業部長まで続いていただけだった。
七
家に帰って、マリアージュの紅茶を淹れた。マルコポーロの、甘い香りがした。
司法書士の彼とのトーク画面を開いた。
コースが違う、という話を、誰かに聞いてほしかった。千香子が正直だったこと。九十代の外交員の話。太田さんのクローゼットが制服でいっぱいになった話。
この人は、資格で自分のコースを作った人だった。開業するしかない、と言ったのも、この人だった。この人なら、何か言ってくれるかもしれない。
打ちかけて、消した。
画面の上には、今朝の「久しぶりの晴れ間ですね」が残っていた。その上に、一日分の空白があった。
翌朝、いつもの時間に、メッセージが届いた。
「おはようございます。今日も晴れそうですね。頑張りましょう」
なつみは、少しだけ迷ってから、返した。
「おはようございます。いい天気ですね。頑張りましょう」
頑張りましょう、を、今日は付けた。
付けた方が、なぜか、楽だった。




