第13話「密度」
高校の卒業生メーリングリストに、一通のメールが流れてきたのは、八月に入ってすぐのことだった。
件名は「40の専業主婦が大学生に」。開けてみると、なつみより三歳上の卒業生が、東大文一に合格したという内容だった。
なつみは、その名前に見覚えがなかった。三歳違うと、在学時期がずれていて、接点がない。でも、経歴を読んで、なつみは思わず二度見した。
系列の女子大の英文科を出て、縁故で商社に入社。翌年、同じ課の商社マンと結婚して、三人の子供を産み、専業主婦になった。子供の受験勉強を見てやっているうちに、自分も受けてみたくなって、四十歳で東大を受験し、合格した。
メーリングリストは、お祝いの言葉で埋め尽くされていた。「すごい」「感動しました」「私たちの誇りです」。
なつみは、その文面を、何度も読み返した。
二
すごい、と思う気持ちは、本物だった。
でも、それと同時に、何か別の感情が、なつみの中でゆっくりと形を持ち始めた。
なつみは、その人と同じように、一所懸命生きてきたはずだった。彼女は子育てをして、家庭を守って、そして四十歳で新しい挑戦をした。誰から見ても立派な人生だった。
その一所懸命さの密度が、なつみのそれとは、まるで違って聞こえた。
なつみも、一所懸命生きてきたつもりだった。派遣で働いて、契約を切られて、また探して、正社員になって、身体を壊して辞めて、また探している。でも、その一所懸命さは、何かを積み上げているようには見えなかった。同じ場所を、ぐるぐる回っているだけのように見えた。
三人の子供を育てながら東大に合格する密度と、契約が切れるたびに次の派遣先を探す密度は、同じ「頑張っている」という言葉で括っていいものなのか、なつみにはわからなかった。
三
その週、なつみは派遣会社のオフィスに、書類を提出しに行った。
待合スペースで順番を待っていると、奥のデスクから、担当者同士の会話が聞こえてきた。声を潜めているつもりだったのだろうけれど、静かな待合室には、はっきり届いた。
「新規の求人が来た時って、誰から優先的に紹介するか知ってる?」とベテランらしい女性の声が言った。
「え、順番あるんですか」と若い声が答えた。
「国からの指導があってね。まず、家持ち子持ちの男性。次に、同じ条件のシングルマザー。それから、家族ありの男性。次が、一人暮らしの男性」
「はあ」
「一人暮らしで、別居でも親がいる女性は、一番最後」
なつみは、書類を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「なんでそんな順番なんですか」
「養う家族がいる人を優先するのよ。落としたら何人路頭に迷うかで決まるの。実質、独身女性は後回しってことよ」
四
なつみは、その日の帰り道、ずっとその会話を反芻していた。
一人暮らしで、別居でも親がいる女性。それは、なつみのことだった。実家の親は健在で、でも一人暮らしをしている。まさに、その分類に当てはまる。
「ソフィアンガールズ会議室」に送った。
なつみ「派遣会社で聞いちゃったんだけど、求人紹介の優先順位、養う家族がいる人からで、独身の一人暮らし女性は最後らしい」
みほ「え、それ本当?」
麻衣「じゃあ私たち全員、最後の方じゃん」
なつみ「そういうこと」
みほ「なんか、腑に落ちた」
麻衣「私たちが就職に恵まれないの、努力とか能力の問題じゃなかったんだ」
なつみ「そもそも、順番の下の方に並ばされてる」
みほ「派遣会社経由じゃなくて、直接求人出してる会社を探した方がいいのかもね」
なつみ「それも考えた方がいいかも」
麻衣「でも、直接雇用の方が、もっと年齢とか条件厳しかったりしない?」
なつみ「それはそう」
みほ「どっちにしても、詰んでる気がする」
なつみ「詰んでるは言い過ぎ。まだ手はあるはず」
麻衣「その前向きさ、どこから来るの」
なつみ「他に選択肢がないから」
三人とも、それ以上は何も返さなかった。
五
司法書士の彼からは、毎朝、同じようなメッセージが届いた。
「おはようございます」
「今日もいい天気です」
「頑張りましょう」
なつみも、似たような文面を返した。「おはようございます」「いい天気ですね」「頑張りましょう」。
そのやり取りに、意味があるのかどうか、なつみにはわからなかった。恋愛でもない。友達でもない。デートの誘いも来ないし、お互いの近況を聞き合うこともない。ただ、毎朝、同じ挨拶が届いて、同じ挨拶を返す。それだけの関係だった。
「この人と結婚したいと思う人に出会うまでは、焦らずのんびりするつもりです」と彼は言っていた。
この毎朝のやり取りは、その「のんびり」の一部なのか、それとも、ただの惰性なのか。なつみには判断がつかなかった。
それでも、縁を切るのは、なんとなく惜しい気がした。
理由もなく惜しい、というのは、それ自体が、なつみの中で何かのサインだったのかもしれない。でも、それが何のサインなのかを、なつみはあえて考えないようにしていた。
六
夜、なつみはベッドに横になって、天井を見た。
東大に合格した先輩の話も、派遣会社の優先順位の話も、司法書士との淡々としたやり取りも、全部、頭の中でぐるぐる回っていた。
密度の違う人生。順番の最後に並ばされる女たち。意味のあるようでない、朝の挨拶。
なつみは、目を閉じた。
明日の朝も、きっと同じメッセージが届くだろう。おはようございます。今日もいい天気です。頑張りましょう。
なつみも、同じように返すだろう。
それが、正解なのか、間違いなのか、なつみにはまだわからなかった。




