第11話「98.7%の嘘」
1
七月の終わり、西日が賃貸マンションのカーテンの隙間から挿して、ベッドの上に黄色いスペースをつくっていた。 午後二時。まだベッドから起き上がれず、不整脈の名残でかすかに脈打つ胸を押さえていたなつみのスマホが、小さく震えた。
里奈からだった。
『先輩、聞いてください。私、切られました』
液晶の光をぼんやり見つめながら、なつみは呼吸を整えた。大手町の外資系デスクで、フランス語と英語の嵐のような怒号を浴び続け、心が折れて二ヶ月。失業保険を受け取りながら横たわる日常に、かつての「教育係」としての感覚が遅れて戻ってくる。
『え、里奈ちゃんが?』 『はい。契約更新なしって、先月末に言われました』 『あの新人は?』 『残ります。もう一人で回せるようになったので』
画面をスクロールする指が止まる。 一年半前、九段下の受付でなつみが切られた時と、まったく同じだ。白百合から上智を出て、どれだけ丁寧に仕事の引き継ぎマニュアルを作っても、完成した瞬間に「教育係」から捨てる。それがこの街のシステムだった。
2
『里奈ちゃん、あの時言ってたもんね。自分の出番がなくなるかもって』 『言いましたね。でも、本当に自分が踏み台になるとは思ってなかったです』
送信されてきた文章は静かだった。だが、その静かさが、今のなつみには痛いほどよくわかった。大手町で正社員になった途端、外国人からのクレーム処理係として精神をすり減らし、倒れるように辞めた自分自身の冷たい体温と重なる。
『大丈夫?』 『大丈夫です。先輩の時と同じシステムですから。私が教えて、私が消えて、教えた子が残る』
なつみは、返信の言葉に詰まった。 なつみが里奈を教え、なつみが消え、里奈が残った。今度は里奈が新人を教え、里奈が消え、新人が残る。まるで精密機械の消耗品が、型番通りに定期交換されているだけだ。
3
『理由聞いたら、笑っちゃいました』と里奈から追加が入る。 『島田さんがなんて言ったと思います?』 『なんて』 『「長く同じ人を派遣で使い続けると、直接雇用の義務が発生する。お嫁さん候補と同じだよ。ずっと同じ子と付き合ってると結婚しなきゃいけなくなるから、定期的に取り換えるの」って』
なつみは息をのんだ。冗談めかした島田の顔が浮かび、吐き気がこみ上げる。
三年ルール。派遣社員を三年以上同じ部署で使えば、直接雇用の義務が生じるという法律。労働者を守るはずの制度が、現場では「三年経つ前に殺せ」というマニュアルにすり替わっている。
人を、責任を逃れるための「取り換え可能な候補」として扱う発想。 なつみが九段下を去った理由も、大手町で使い捨てにされた理由も、すべて同じ根っこでつながっていた。
4
『里奈ちゃん、これからどうするの。正社員の求人は探さないの?』 『探してますけど……先輩、大卒女子の就職率98.7%ってニュース、見ました?』
なつみはベッドの上で眉をひそめた。
『見たことある。街の広告とかでも折々に踊ってるよね』 『あれ、罠ですよ』と里奈。『あの「就職」の中に、私の派遣も、契約社員もパートや長期バイトも、全部カウントされてるんです。正社員だけの数字じゃないんですよ』
なつみの思考が一瞬止まった。 二十五歳の時、最初の翻訳会社がブラック過ぎて辞めて、派遣会社に登録したあの春。あの時の自分も、あの絶望も、統計の上では「就業者」の1人として誇らしげにカウントされていたのだ。
『数字のマジック……っていうか、ただの詐欺だね』 『そうです。椅子取りゲームなのに、最初から椅子の数を隠して「みんな座れました!」って言ってるんです』
椅子の数はずっと一個のまま、座る人間だけが高速で入れ替わる。 なつみが降ろされ、里奈が座り、里奈が降ろされ、また新しい二十代前半が座る。
5
その夜、なつみは「ソフィアンガールズ会議室」のLINEグループにメッセージを投げた。自分の不整脈のせいでしばらく発言していなかったグループだ。
なつみ『里奈ちゃん、切られたって。私が九段下を辞めた時と全く同じ構図。新人教えて、教え終わったら交代で契約終了』
レスはすぐに付いた。
みほ『は? また島田? 相変わらずグロいことするね』 麻衣『出た。派遣のトカゲの尻尾切り。なつみの時と寸分違わぬクソシステムじゃん』
みほは心理学科の修士まで出て臨床心理士の資格を持っているが、児相の会計年度任用職員の任期が切れ、今は無資格でもできる短期の一般事務派遣を転々としている。制度の嘘には誰よりも敏感で、冷ややかだった。
なつみ『島田さん、「長く使うと結婚(直接雇用)しなきゃいけないから、お嫁さん候補みたいに定期的に取り換える」って笑いながら言ったらしいよ』
麻衣『死ねばいいのに』 直球だった。聖心から上智へ進み、今は親戚の公認会計士事務所で泥臭く帳簿を叩いている麻衣の毒舌は、いつも容赦がない。 麻衣『男ってさ、雇用でも恋愛でも「責任を取る」ことから逃げるために、どれだけ都合のいいロジック組むわけ? その思考回路に吐き気がする』
お台場のマンションで、Skypeの向こうの無職ネトゲ廃人女と夢中になってダンジョンに潜り、麻衣を無視し続けた国家公務員の元カレ。麻衣の怒りは今も燻っている。
6
みほ『で、里奈ちゃんはどうするの?』 なつみ『正社員探すみたいだけど、大卒就職率98.7%の数字に非正規も含まれてるって話で絶望してた。ハロワも今は正社員より実際は週3〜5日のパートや使い捨てバイトが圧倒的多数だったりするし』
麻衣『当たり前じゃん、会計の数字見てたら一目瞭然だよ。企業の「人件費削減」の帳尻合わせに使われてる数字を「就職率」って呼んでるだけ。労働市場の粉飾決算。騙される方がどうかしてる』
みほ『まあね。私が児相にいた時もそうだったよ。心病んでる子供を救う現場の人間が、3年更新の使い捨て公務員なんだから。国自体が「人を使い育てる」気なんてハナから無いの。上智出て修士とってもこれだもん』
みほの言葉は、静かだが重かった。 上智のキャンパスで、将来の夢やキャリアを語り合っていたあの頃。白百合から推薦で上がったなつみも、聖心から来た麻衣も、修士まで進んだみほも、自分たちが「選ばれる側」だと疑っていなかった。
それが今や、一人は不整脈を抱えた無職、一人は短期派遣の転々虫、一人は婚約破棄されておじさんの事務所で数字を打ち込む毎日。皆独身。彼氏すらいない。
7
麻衣『椅子がないんじゃないのよ。正社員っていう「人間扱いされる椅子」を企業が全部撤去して、パイプ椅子(非正規)だけ並べて「走れ」って言ってるの』
みほ『で、倒れたら「自己責任」「精神力が足りない」で片付けられる。大手町で潰されたなつみみたいにね』
なつみ『……私、本当に走れなくなっちゃったよ』
打ち込んでから、送信するのを一瞬躊躇した。だが、二人はすぐにスタンプを返してきた。
麻衣『走らなくていいよ。失業保険出てる間は死んだふりしてな』
みほ『そうだよ。あの狂ったレースに復帰しようとするから不整脈が出るの。今は省エネモードでいい』
画面を閉じ、スマホを胸の上に置いた。 電気代節約で冷房をつけてない部屋で、天井を見つめる。
98.7%という綺麗な数字の裏側に、押し込められた無数の悲鳴。 椅子の数を決めている奴らは、涼しい顔で「努力が足りない」と嘲笑う。だが、奪われているのは椅子だけじゃない。人として扱われる尊厳そのものだ。
なつみはゆっくりと目を閉じた。 不整脈の鼓動が、トックン、トックンと、微かに、でも確実に胸の奥で刻まれていた。




