第8章:薄暮の特攻(キネマ)、あるいはアルコール消毒の夜
一、 ドンペリニョンの眠りと、一升瓶のキネマ
銀座の老舗から出前された最高級の寿司桶が綺麗に空になり、麗華院長が贅沢に一本空けた『ドン・ペリニヨン』のボトルが、大理石のテーブルの上で虚しく転がっていた。
「はぁ……。完全に出来上がってるわね、院長」
畑中愛看護主任はため息をつきながら、ソファで規則正しい寝息を立て始めた麗華の身体に、そっとカシミアの毛布をかけてやった。
「疲れているのよ、院長は。いつもギラギラして遊んでいるように見えて、クリニックの経営もオペも全部一人で背負ってる。少し働きすぎるくらいよ」
畑中はそう呟くと、テレビのリモコンを手に取り、リビングの巨大な液晶画面に向けてボタンを押した。
「ねえ、大宮さん。私、この映画好きなの。普段は泥臭い戦争映画なんてほとんど興味ないんだけど……この作品だけは、不思議と昔からずっと好きなのよね。……一緒に見ようよ」
畑中が麗華の酒棚から引き抜いてきたのは、ホストたちが残していったであろう、日本の銘酒の『一升瓶』だった。スウェット姿の大宮兵長は、軍袴に代わるグレーのスウェットの尻から、灰色のロバの尻尾をトントンと床に遊ばせながら、差し出されたコップの日本酒を静かに受け取った。
夜の静寂が包み込むタワマンのリビングに、映画の劇伴が静かに流れ出す。
画面に映し出されていたのは、大日本帝国が誇る零式艦上攻撃機あるいは九九式艦上爆撃機――そして、大宮の生きたあの昭和二十年の空を駆け抜けた、神風特別攻撃隊の若者たちの姿だった。
大宮兵長は、薄荷タバコを指に挟んだまま、画面から一切の視線を外さなかった。彼の泥と髭を落としたばかりの頬を、とめどなく涙が伝い落ちていく。大宮は、その涙を拭おうともしなかった。
「……あ、うっ……、うおぉ……」
やがて、片翼を白煙で覆われた零戦が、敵の圧倒的な対空砲火の光の網を潜り抜け、巨大な空母の飛行甲板へと突入していく一瞬、大宮の喉の奥から、押し殺したような重い嗚咽が漏れ出た。
「……俺たちの時代では、これが当たり前だったんだ。学校でも、そう教え込まれた。現在の言葉では、それを『軍国主義』って言うのかな。……たくさんの、俺よりも若い、未来のある若者たちが、あんな風に火の玉になって死んでいったんだ」
大宮はコップの日本酒を一気に煽り、耳をだらしなく垂れ下げて、乾いた、しかし切ない苦笑いを浮かべた。
「……なのに、俺のような要領だけが良い汚い古参兵が、あんな満州の泥の中でのうのうと生き延びてしまった。……精神力だけではな、露助やアメ公の『鉄の塊(戦車や重砲)』には絶対に敵わないんだよ。竹槍をいくら振り回したって、空を覆い尽くす銃爆撃機に敵うはずなんてないさ。最初から分かっていたんだ」
大宮は、スウェットの袖で乱暴に涙を拭うと、一升瓶から自分で酒を注ぎ足した。
「……いつ死ぬかわからない戦場ではな、まともな精神(正気)でいられる方が不思議なんだよ。みんな、どこか気が狂っていなきゃ、あんな地獄で引き金は引けねえ。……フン、こんな話、平和な令和を生きる愛ちゃんには、少し難し過ぎたかな」
二、 日本の婦女子のプライドと、赤面
大宮の、どこか自嘲気味で、しかしあまりにも生々しい戦場の告白に、畑中主任は胸を締め付けられるような感覚を覚えていた。浴室で見つめた、あのガリガリに痩せ細った背骨。彼が奉天でどれほどの地獄を見て、どれほどの狂気に身を委ねてきたのか、その一端が、涙の奥から透けて見えるようだった。
畑中は、一升瓶の酒を自分のコップにも注ぎ、大宮の真っ直ぐな瞳を静かに見据えて、ずっと胸の奥に引っかかっていた問いを口にした。
「……ねえ、大宮さん。アンタ、満州ではソ連の女の人や中国の女の子に……その、酷いこと(乱暴)をしたんでしょ? ……私にも、いつかそんな風に乱暴するの?」
その問いに、大宮は一瞬、ハッとしたように目を見開いた。
そして、ロバの耳をピンと直立させ、一升瓶をテーブルに置くと、涙と酒で真っ赤になった顔のまま、これ以上ないほど厳粛な、軍人としての、そして一人の日本の男としての顔になって激しく首を振った。
「――まさかッ!!! 平和が一番さ、愛ちゃん。……俺は、戦場で泥にまみれて鬼にも獣にもなったが、内地(日本)の、ましてや目の前にいる日本の婦女子には、絶対に、何があっても手なんて出さないよッ!!!」
大宮の声は、涙交じりではあったが、そこには一切の嘘偽りのない、彼の魂の底に残された「最後の誇り(規律)」が満ち満ちていた。
畑中は、大宮のその必死で、どこか純粋な叫びを聞いた瞬間、心の奥底の氷が融けていくような、奇妙な感覚に包まれた。この男は、戦場で壊れてしまったけれど、根底にある「生真面目さ」と「優しさ」は、八十年の時を経ても死んでいないのだ。
「……そっか。よかった」
畑中は少しだけ微笑むと、時計を見てソファから立ち上がった。
「そろそろ、お風呂に入って寝ましょう。……ねえ、大宮さん。私、アンタと一緒にお風呂に入ってあげてもいいけど、どうする?」
「……えッ!?」
その瞬間、さきほどまで堂々と大真面目に語っていた大宮兵長の顔が、一瞬にして耳の先まで真っ赤に染まった。
「な、何を言うんだ貴様ッ! 看護婦の分際で、男女が混浴など、内務班の風紀が許さん!」
「別にいいじゃない? さっき十分にシャンプーもしたんだし、アルコール消毒で綺麗になった、いつものバスルームよ。ほら、お湯が冷めないうちに行くわよ、イーヨー」
畑中はくすくすと笑いながら、大宮のグレーのスウェットの袖を優しく引っ張った。大宮は、赤面したままロバの耳をパタパタと激しく羽ばたかせ、尻の尻尾を恥ずかしそうに丸めながら、畑中の後に続いて大人しくバスルームへと歩き出した。
その二人の背中には、さきほどまでの「介助者と不審者」という関係を超えた、何か奇妙で、かすかな『愛情』のような温かい絆が、確かに芽生え始めていた。
三、 ヴァージニア・スリムの煙と、純粋の目覚め
二人の足音が洗面所の奥へと消え、ジャグジーの心地よい水音が響き始めた、その時だった。
ソファーの上で眠っていたはずの高峰麗華院長が、静かにその美しい目を開けた。
彼女は最初から、二人の会話をすべて聞いていたのだ。
麗華は毛布を跳ね除けると、大理石のテーブルから『ヴァージニア・スリム』の箱と、カルティエのライターを滑らかに指に挟んだ。
シュカッ、と地下駐車場と同じ金属音がリビングに響き、先端に灯った赤い炎が、麗華の冷徹な、しかしどこか満足げな美貌を照らし出す。
「ふぅ……」
麗華は、細い唇からゆっくりと紫煙を吐き出し、夜景の向こうの東京の空を見つめながら、誰もいないリビングでぽつりと呟いた。
「――畑中。アンタが今まで引っかかってきた、お金目当てのダメ男たちとは違って……あの大宮兵長は、本当の意味での『骨のある奴』よ。……アンタ、あのロバ男の泥臭い真っ直ぐさに触れて、やっと自分の『純粋さ』に気づいたのね」
麗華はタバコを灰皿にくゆらせながら、嬉しそうにグラスに残ったドン・ペリニヨンを飲み干した。
満州の業を背負った呪われし古参兵が、令和の二人の女性の心に、静かで、しかし決定的な変化をもたらしていく。
高級タワマンの夜は、三人それぞれの想いを乗せて、月曜日の「特患検査」という運命の朝へと、静かに更けていくのだった。
(第9章へつづく)




