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第7章:水洗便所の攻防、あるいは薄荷煙(メンソール)と寿司の宴

一、 特患(トッカン)の予兆と、活動映画の記憶


「畑中、あんた明日、何か予定ある?」

 麗華院長は、大宮兵長が物干し竿の下へ吹っ飛んだ騒動などなかったかのように、大理石のカウンターでワイングラスを傾けながら唐突に言った。

「……え? いえ、特にないですけど」

 畑中主任は、また何か面倒な雑用を押し付けられるのではないかと身構え、ぎくっと肩を強張らせた。

「じゃあ決まりね。今夜はここに泊まっていきなさいよ。月曜日の朝早くに一回自分の家に帰って着替えて、それからクリニックに来ればいいわ。多少遅刻したって私が院長なんだから有耶無耶にしてあげる。今夜は三人でとことん一杯やりましょう。私の名誉爆上げの『前祝い』よ!」

 麗華はガハハと豪快に笑った。その傍らで、新調したグレーのスウェットを纏い、尻から飛び出た灰色のロバの尻尾を所在なさげに揺らしている大宮兵長に向き直る。

「大宮兵長。月曜日の朝一番には、アンタをクリニックの『特患(特別患者)』として、秘密裏に裏口からレントゲン室とCT室へ連行するからね。血液も細胞も、徹底的に検査させてもらうわよ」

「はっ、了解いたしました、軍医殿! 帝国陸軍の身体検査(丙種や甲種)のつもりで、いかなる過酷な検診にも耐えてみせるであります!」

「あ、それとね」と麗華はソファの上にドサリと分厚い図鑑や歴史の教科書、そして数本のDVDのケースを並べた。

「うちのお手伝いさんは平日しか来ないのよ。私が子供の頃から世話になってる口の堅い人だけど、土日は私と畑中しかいないわ。大宮兵長、アンタは戦後八十年も経ってから現代に落ちてきた、令和の浦島太郎みたいなものなんだから、まずはこの国の『歴史』と『常識』を叩き込みなさい」

 麗華の指示により、畑中主任がさながら厳しい女性教師のように、大宮の横にピタリとついて現代史の講義を始めることになった。

 大宮は、液晶画面に映し出されるカラーの映像や、教科書に載っている戦後の復興、新幹線や飛行機の写真に、ロバの耳を激しく前後に羽ばたかせて驚愕していた。だが、意外にも彼は古参兵の要領の良さを発揮し、畑中の教える現代日本の仕組みを次々と驚異的なスピードで飲み込んでいった。

「……なるほど。昭和二十年のあの焦土から、内地はここまで復興したのか。……なあ、愛ちゃん主任殿。この『でぃーぶいでぃー』という液晶の箱に映る動く絵を見ていると、自分がお国のガキの頃地元の小劇場へよく見に行った『活動映画』を思い出すな……。あの弁士のダミ声と、カチカチと鳴る映写機の音が無性に懐かしい。今の映画は、色も音も生々しすぎて、なんだか首が疲れるでありますな」

 大宮は、薄荷(メンソール)タバコの煙をふぅと吐き出しながら、どこか遠い目をして、戦前の平穏だった少年時代の記憶に胸を焦がしていた。


二、 白磁の便器と、乳当ての階級章


 しみじみとしたミリタリーの哀愁がリビングを包み込んだ、その直後のことだった。大宮は不意にスウェットの尻を激しく蠢かせ、ロバの尻尾を不穏に直立させた。

「――愛ちゃん! 便所はどこだ! うな重を急に胃袋に詰め込んだせいで、どうにも下腹部が総員起こし(限界)を告げているッ!」

 大宮は大声で脱衣所へと駆け込んだ。畑中が「あっちの突き当たりのドアよ!」と叫ぶ。

 数秒後、最新の全自動温水洗浄便座(TOTOの最高級ネオレスト)が据え付けられた個室から、大宮兵長の割れんばかりの絶叫が木霊した。

「――なんじゃあ! この便所はアァァァッ!!! 床に糞尿を溜める肥溜めの穴(落下式)がどこにもないではないかッ!! この、真っ白でピカピカした磁器の洗面台のような器の中に、一体どうやってうんこをすればいいんだよッ!!!」

 畑中主任は、洗面所の前で思い切り頭を抱えた。生活介護の現場で、初めて水洗トイレを見る入所者の対応をするかのような、激しい頭痛が彼女を襲う。

「うるさいわねイーヨー! そこに『座って』するのよ! 和式(ドットン便所)みたいに跨るんじゃないわよ! 終わったら、横の壁にある『流す』のボタンを必ず押すのよ! 帝国陸軍の意地を見せて、綺麗に使いなさい!」

「ぬぅぅ……! この令和の文明は、排泄の規律までこれほど不条理なのか……っ!」

 個室の中で、大宮がロバの耳を恐怖にパタパタと震わせながら、最新の暖房便座に恐る恐る尻を据える気配が伝わってくる。

 やがて、ジャァァァーッという凄まじい水流の音と共に、すっきりとした顔をした大宮が、スウェットの腰を紐で結び直しながら個室から出てきた。

「ふぅ、一時は露助の包囲網に捕まったかと思ったであります。……ところで、愛ちゃん主任殿」

 大宮は、個室から出た瞬間、早くも古参兵のデリカシーのなさとセクハラ脳を取り戻していた。彼は、先ほど物干し竿に吊るされていた麗華院長の「Fカップの黒ブラジャー」の残像を脳裏に浮かべながら、畑中のピシッとしたスクラブ(看護服)の胸元を、大真面目な顔で凝視した。

「――貴様のような気の強い衛生兵(看護師)も、やはり軍医殿(麗華)が身につけておられるような、あの見事な構造の『乳当て(ブラジャー)』という防具を、服の下に常備しているものなのか?」

「はぁ!?……当たり前でしょ、何聞いてるのよ変質者!」

 畑中は一瞬で顔を真っ赤にして怒鳴ったが、大宮はさらにロバの耳をピコピコと直立させ、首を傾げて下卑た調子で追及を続けた。

「いや、なに。干してある軍医殿の乳当ての白い布には『F』という立派な階級章(サイズ)が印字されていたが……愛ちゃんのその胸元の膨らみを見るに、どう考えても軍医殿の『F』よりは二階級ほど……いや、圧倒的に『下』ではないか? 貴様の乳当ての暗号は、一体何文字目(何カップ)なのでありますかね?」

 本日何度目か分からない、現代のセクハラガイドラインを完全に踏み潰す大宮兵長の大真面目な査閲発言。

「――うるせーよバカ!!! 早くリビングに戻って歴史の本を読め!! このイーヨー!!!」

 畑中は、本日四度目となるビンタを放ちたい衝動をグッと堪え、顔を真っ赤にして大宮の背中を全力で突き飛ばした。

「……フン、図星を突かれて興奮とは、やはり内務班の初年兵と同じだな。……ああ、それにしても、うんこをしたらまた急激に腹が減ってきたであります!」

「さっき最高級のうな重とお蕎麦を涙流しながら食ったばっかりだろ、この燃費の悪いバカ!!」

 畑中の痛烈な毒づきが洗面所に響き渡った。


三、 寿司のバンザイと、葡萄酒(ワイン)の拒絶


「はいはい、二人ともそこまで。大宮兵長、お腹が減ったなら最高のタイミングよ」

 リビングに戻ると、麗華院長が手元のiPhoneを操作しながら、妖しく微笑んだ。

「今夜は私の名誉爆上げの前祝いなんだから。出前の第二弾――今夜の夜食は、銀座の老舗から出前させた最高級の『お寿司』よ!」

 その瞬間、大宮徹三兵長は、グレーのスウェット姿のまま両手を天高く突き上げ、タワマンの天井に届かんばかりの勢いで絶叫した。

「――天皇陛下、バンザァァァーイ!!! 寿司でありますか軍医殿ッッ!!!」

 大理石のテーブルの上に、今度は大トロ、ウニ、イクラ、職人が握った艶やかな穴子が敷き詰められた、目も眩むような寿司桶が並べられた。麗華はレクサスのトランクから運んできた冷えた缶ビールと、極上の日本酒(大吟醸)の瓶をドンと置いた。

「さあ、大宮兵長。私のために明日から馬車馬(ロバ)のように働いてもらうんだから、今夜は浴びるほど飲みなさい!」

「ハハッ! ありがたく従軍(お相伴)させていただきます!」

 大宮は、グラスに注がれた令和の冷たい缶ビールをクッと干し、続いて大吟醸の日本酒を猪口で一気に煽った。五臓六腑に染み渡る、澄み切ったアルコールの快感。満州の戦場で、現地人から掠め取って雑嚢に隠していたあのドロドロとした泥臭い古酒・杏露酒(シンルチュウ)や、麗華が優雅に飲んでいる血のような葡萄酒(ワイン)とは、格が違った。

「……ううむ、やはり自分は、軍医殿が飲まれているようなハイカラな『葡萄酒』より、このキリリと辛い『日本酒』の方が、大日本帝国陸軍軍人の身体には最高に沁みるであります……。美味い、美味すぎるあります……!」

 大宮は、贅沢な大トロを頬張りながら、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げていった。頭の上の灰色のロバの耳が、酔いとともにだらしなく左右に垂れ下がり、スウェットの尻からは尻尾が、嬉しそうに床をトントンと叩いている。

 八十年の断絶の恐怖と敗戦の絶望を、令和の圧倒的な富(寿司と日本酒)で誤魔化されながら、欲望の女医と気の強い看護師のテリトリーへと完全に骨抜きにされていく大宮兵長。

 真っ赤な顔をして上機嫌に笑う最悪の古参兵を囲む、六本木の夜は、不条理なコミカルさを孕んだまま、更なる深みへと更けていくのだった。

(第8章へつづく)

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