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第6章:黒き乳当ての査閲、あるいは戸籍なき英霊

一、 飢餓の記憶と、内務班の習性


「う、美味い……。美味い、美味い、あります……!」

 大宮徹三兵長は、涙と鼻水を流しながら、老舗のうな重の蒲焼とタレの染みた白米を、猛烈な勢いで口の中へと掻き込んでいた。満州・奉天の泥の中、ソ連軍の一五二ミリ榴弾砲の黒煙から逃げ回り、掠め取った干し肉や掠れた高粱(コーリャン)の粒で飢えを凌いできた古参兵にとって、令和の日本が誇る最高級の出前は、まさに神の慈悲そのものだった。江戸前蕎麦を音を立てて啜るその姿を、畑中愛看護主任は少し離れた場所から静かに見つめていた。

(……この人、本当にガリガリだったな)

 畑中は、先ほど浴室で大宮の入浴介助をした際、強力な殺菌石鹸の泡の下から浮き出ていた、洗濯板のように痛々しく突き出た脇腹の肋骨や、ゴツゴツと角張った背骨の感触を思い出していた。戦時中の過酷な栄養失調と、極限の緊張状態。命懸けの最前線にいるとは、一体どんな心境になるのだろう。毎日、明日の命すら分からない戦場で、銃を抱えて夜を明かす恐怖。そう思うと、先ほど褌(ふんどし)を外してセクハラをしてきた目の前のロバ耳男に対して、ほんの少しだけ気の毒になるのだった。

「ふぅ……。至福の一服でありますな、軍医殿」

 食後、大宮は麗華院長から再び恵んでもらった薄荷(メンソール)タバコに火をつけ、至福の表情で紫煙を燻らせた。

 その横で、麗華と畑中が「さて、明日からのこのイーヨーの隠し場所と、学会発表のための論文データの集め方だけど――」と今後の具体的な処遇についてヒソヒソと話し合っていた、その時だった。

 カラ~ン、カチャ、カチャ。

 流し台の方から、妙に手際の良い小気味よい金属音が響いてきた。畑中がハッとして振り返ると、なんとスウェット姿の大宮兵長が、三人分の蕎麦の器やうな重の漆器、コーヒーカップを、水道の洗剤を使ってプロの家政夫並みの速度でピカピカに洗っていたのだ。

「ちょっと、大宮さん!? アンタ何やってるのよ!」

 畑中が驚いて声をかけると、大宮はロバの耳をパタパタと揺らしながら、悪びれもせずにニカッと笑った。

「いや、なに、新兵時代(初年兵)は内務班で上官殿の食器類を毎晩毎朝洗わされたものですからな。身体が勝手に動いてしまうのでありますよ」

 皿を拭き終えた大宮は、流し台に手を突いたまま、直立不動になって麗華の方を向いた。

「軍医殿! 皿洗いついでに、先ほど煮沸消毒していただいた自分の軍服(九八式軍衣)や軍袴(ぐんこ)、そして褌をしっかりと水洗いしたいのであります! 洗濯板と石鹸を貸してはいただけないでしょうか!」

「あー、洗濯板なんて今時ないわよ。畑中、ちょっとあそこに最新のドラム式洗濯機の使い方、教えてあげて」

「えー、私がですか? ……ほら、イーヨー、こっち来なさい。ここに服を入れて、このボタンを押すだけ。全自動よ」

 畑中が呆れながら最新のタッチパネル式の洗濯機を起動させると、大宮はその近未来的な駆動音と、水が自動で激しく回る様子を、ロバの耳を直立させて凝視した。

「おぉ……! なんと便利な機械でありますか! これなら冬場の満州の凍るような川で、手を真っ赤にして洗う必要もない。あかぎれの心配も全くいらない究極の兵器でありますな!」


二、 アルファベットの謎と、本日三度目の轟音


 数十分後、洗濯と脱水が完了した。大宮兵長は、洗濯機の真上のスペースに設置された物干し竿へ、手際よく自分の装備を干し始めた。赤茶けた九八式軍衣、尻の部分にロバの尻尾用の穴がぽっかりと空いた軍袴(ぐんこ)、泥の落ちたゲートル(巻脚絆)、靴下、そして真っ白に洗い上がった褌(ふんどし)が、六本木の高級タワマンの洗面所に堂々と並ぶ。

 だが、その次の瞬間、洗面所の様子を見に来た麗華院長と畑中主任の二人は、その場に一歩も動けず、呆然と固まることになった。

 あろうことか大宮兵長は、古参兵としての「親切心」と軍隊での習性を極限まで拗らせ、脱衣カゴの中に放り込まれていた麗華院長の私物の洗濯物まで、勝手に全自動洗濯機に放り込んで、ご丁寧に一緒に干していたのだ。

 大宮兵長は、自分の褌のすぐ隣に、麗華が昨夜つけていた最高級ブランドの『黒の総レースブラジャー』を物干しピンチで器用に吊るすと、大真面目な疑問顔で麗華を振り返った。

「――新兵時代というものは、週番士官や上官殿の私物の洗濯も進んでこなすのが、要領の良い兵隊の基本であります! ……しかし、軍医殿。軍医殿が身につけておられる、この『乳当て(ブラジャー)』という防具は、実に見事な構造ですな。……ただ、一つ疑問があるのですが」

 大宮は、吊るされた黒いブラジャーのカップ部分を手のひらで大真面目に査閲(観察)しながら、首を傾げた。

「この乳当ての白い布を見ると、何故か数字の他に、アルファベットの『F』という文字が厳重に印字されております。……大日本帝国陸軍の暗号か、あるいは『6番目』の部隊章という意味ですかね? 一体何の記号なのでありますか?」

 六本木や歌舞伎町の夜の女王であり、豊かなFカップのバストを最大の武器にホストたちを狂わせてきた高峰麗華院長の顔面が、その瞬間、一気にかつてないほど真っ赤に沸騰した。自分の最も過激な下着を、ロバ耳の汚い日本兵に大真面目に指でつつかれ、サイズ(Fカップ)の解説まで求められたのだ。

 ――バギィィィィィィィンッッッッッ!!!!!!!

 本日三度目となる、そして先ほどの畑中のビンタをも遥かに凌駕する、怒髪天を衝いた麗華院長の渾身の右ストレート・ビンタが、大宮の髭が剃り落とされたばかりの滑らかな左頬へ、爆音と共に完璧に炸裂した。

「ぶはっ!!!」

「二度と!!! 私の洗濯物には、その汚い手で一ミリも触るなあああああああーーーーーッッッ!!!!!」

 タワマンのガラス窓が震えんばかりの麗華の絶叫が轟き、大宮兵長は物干し竿の下へと派手に吹っ飛んで倒れ込んだ。

「な、何故だ……!? 上官の洗濯をして、何故これほど苛烈な鉄拳制裁(ビンタ)を受けねばならんのだ……! わけがわからん、理不尽極まるッ……!」

 大宮は頬を押さえ、ロバの耳を完全にペシャンと伏せて、本気で理不尽さに涙ぐむのだった。


三、 タイムスリップの冷厳と、素直なる頭


 ようやく麗華の怒りが(冷たい氷水の氷嚢を大宮の頬に叩きつけることで)収まり、三人はリビングのソファへと戻ってきた。

 麗華はヴァージニア・スリムの紫煙を激しく吐き出し、大宮を睨みつけながら本題を切り出した。

「……はぁ。アンタのハラスメント脳のせいで寿命が縮まったわ。……ねえ、大宮さん。アンタの、昭和二十年の世界での『家族』はどうなってるの?」

 その問いに、大宮は氷嚢で頬を冷やしながら、少しだけ遠い目をして静かに語り始めた。

「……父親は、自分が高等科にいる時に、肺の病気で死にました。……二つ上の兄貴は、近衛歩兵連隊に召集され、ビルマの戦線(インパール作戦)で、生きて帰ることはありませんでした」

 大宮の声から、いつもの図太さが消えていく。

「内地(日本)に残っていた母親と妹は……昭和二十年の、あの三月の『東京大空襲』で、焼け出されて死んだと、部隊への手紙で知らされました。……ですから自分は、あの満州の奉天の地で、とっくに天涯孤独の身の上であります」

 リビングを、重苦しい沈黙が支配した。畑中主任も、コーヒーカップを握ったまま、大宮が背負う「本物の歴史の重み」に言葉を失っていた。

 麗華は手元のiPhoneを睨みつけ、画面のスクロールを止めると、大宮を真っ直ぐに見据えた。

「……さっきね、アンタの銃を靖国神社に奉納するために電話した、例の市ヶ谷(防衛省)の高官の顧客に、アンタの本名(大宮徹三)と、独立混成第百一旅団の兵籍を、極秘で裏から調べてもらったのよ」

「我が兵籍が……? どうなっておりましたか、軍医殿」

「アンタね……昭和二十年八月の奉天撤退戦の最中、消息不明による『戦死(戦没)』扱いになってるわ。靖国神社の霊璽簿(れいじぼ)にも、アンタの名前、とっくに登録されて英霊になってる」

 麗華はタバコを灰皿に揉み消し、フンと鼻を鳴らした。

「要するに、今のこの令和の日本において、アンタは戸籍上『八十年前にとっくに死んだ人』なのよ。存在しない人間。だから――警察に見つかりさえしなければ、アンタがここにこうして生きていることは誰にもバレないわ。安心して、私のこのクリニック(家)に隠れていなさい」

 大宮兵長は、その言葉をじっと噛み締めるように聞いた。

 家族は全員死に、祖国は敗戦し、自分もまた、歴史の記録上は「英霊」として処理されている。だが、この目の前にいる欲望にまみれた、恐ろしく暴力的なモダンガール(麗華)と、気の強い衛生兵(畑中)は、そんな自分を「匿ってやる」と言ってくれているのだ。

 大宮は、新調したグレーのスウェットの膝に両手をしっかりと置き、ロバの耳を静かに前に伏せると、これまでの不遜な態度を完全に捨て去り、床に届くほど深く、素直に頭を下げた。

「――大宮徹三。タイムスリップの不束者(ふつつかもの)ではありますが……何卒、よろしくお願いいたしますであります」

 その生真面目すぎる、真っ直ぐな感謝の姿勢に、麗華と畑中は少しだけ照れくさそうに顔を見合わせた。

「……まぁ、アンタがこれから私のために、名誉と大学教授の椅子を稼ぎ出すんだから、当然よ」

 麗華はそう言って立ち上がった。その顔には未来の成功を夢見る女医の顔があった。

(第7章へつづく)

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