第5章:名誉の青写真、あるいは令和の猿股と出前箱
一、 メンズの袋と、内務班の洗面
「畑中、ここにメンズたちのお泊りグッズ置いておくからね」
麗華院長は、大宮兵長がバスタブの墨汁のようなお湯の中で畑中主任から本日二度目のビンタを喰らった音を聞き流しながら、脱衣室の棚に無造作に布の巾着袋を置いた。
「え、何ですかこれ……」
防水エプロンを泡だらけにした畑中が袋の中を覗き込むと、そこにはブランド物の男性用下着、T字の安全カミソリ、電動歯ブラシ、そしてホストや男たちを夜な夜な連れ込んでいることを生々しく物語る、数個の『コンドーム』が平然と収まっていた。
「ちょっと、院長ったら……! 何を常備してるんですか!」
畑中は思わず耳まで赤面して叫んだが、麗華は「現役の美容外科医だもの、避妊と衛生管理は基本でしょ」と笑いながらリビングへ戻っていった。
畑中はため息をつくと、看護師としてのプロのスイッチを入れ直した。一年以上風呂をサボってシラミまみれだった大宮の肉体を、強力な殺菌石鹸を使って何度も、皮膚が赤くなるまで念入りに洗い流してやった。
仕上げに、泡をたっぷりつけて、満州の敗走戦で熊のようにボウボウに伸び切っていた大宮の髭を、安全カミソリで滑らかに剃り落としていく。カミソリの刃が顎のラインを滑るたび、泥の下から、意外にも引き締まった大宮の素顔が露わになった。
「ふぅ……。ほら、これ着て!」
手渡されたのは、麗華の部屋にあった新品のグレーのスウェット上下と、柔らかな厚手の靴下だった。
さっぱりとした姿になった大宮兵長は、洗面台の鏡の前に立ち、渡されたハミガキ粉(ミントの強烈な香りがするもの)をブラシにつけて、内務班の朝の洗面を思い出すような激しい手つきで歯を磨き始めた。頭の上の灰色の『ロバの耳』が、歯を磨く振動に合わせてピコピコと規則正しく揺れている。
その横で、畑中は文字通りヘロヘロの満身創痍になりながら、冷蔵庫から引っ張り出した冷たいミネラルウォーターをゴクゴクと喉を鳴らして煽っていた。
「……軍医殿、いや、愛ちゃん殿。この現代の『猿股』は、ゴムの締まりが絶妙で誠に履きやすいな。褌のように股間に食い込まん」
大宮が、新調したグレーのスウェットの腰を引っ張りながら大真面目に感心した。
「……ボクサーパンツだよ、バカ。あと私のことは『愛ちゃん』じゃなくて『畑中主任』って呼びなさい」
畑中はボトルの水を飲み干し、吐き捨てるように毒づいた。
二、 ハッカの紫煙と、大学教授の皮算用
リビングのソファに腰掛けた三人。大宮の前には、麗華が淹れた挽きたてのブラックコーヒーが置かれ、大宮は麗華から一本恵んでもらった『ヴァージニア・スリム・メンソール』に、カルティエのライターで火をつけた。
吸い込んだ瞬間、大宮は激しく咳き込みそうになりながらも、懐かしいタバコの感覚に、ロバの耳を満足げに羽ばたかせた。
「……ふぅ。現代のタバコというものは、なんだか『ハッカ(薄荷)』みたいな味がしますな、軍医殿。帝国陸軍の配給品である『ほまれ』や『あさひ』のような、喉にガツンとくる泥臭い葉の匂いとは大違いであります」
「メンソールっていうのよ、それ」
麗華は自身のヴァージニア・スリムから細く美しい紫煙を吐き出しながら、大理石のテーブルに肘をついて大宮を凝視した。その目は、すでに哀れなタイムスリップ兵を見る目ではなく、巨万の富と名誉をもたらす「世紀の実験体」を見る医学者の目に変わっていた。
「いい、大宮兵長。アンタの身体に変異が起きている、その『ロバの耳と、ズボンの尻を突き破って生えている尻尾』だけどね。これは現代の最先端の日本の医療、いや、世界の医学界の歴史を見ても、完全に前代未聞の症例なのよ」
麗華は身を乗り出し、妖しく微笑んだ。
「私がアンタの面倒を衣食住すべて見てあげる。警察にも引き渡さないし、ここに匿ってあげるわ。だから、私に全面的に協力しなさい」
その言葉に、隣でコーヒーを飲んでいた畑中主任が、危うく中身を吹き出しそうになりながら唖然として声を上げた。
「……ちょっと、院長!? 本気で言ってるんですか? このシラミまみれのイーヨーの面倒を、本当にこの家で見る気ですか!?」
「当たり前じゃない!」
麗華は立ち上がり、両手を広げて高らかに宣言した。その瞳には、ギラギラとした俗物的な野心が燃え盛っていた。
「アンタね、この大宮兵長の『生きたまま骨格と遺伝子が獣化(ロバ化)しているタイムスリップ症例』を、私が世界的な医学会で独占発表したらどうなると思う!? 世界中のメディアが蜂の巣をつついたような大騒ぎよ! 私はノーベル医学賞、いや、そこまでいかなくてもどこかの名門医大の『大学教授』に一発で推薦されて、医師としての地位も名誉も、ついでにクリニックの株価も資産も、異次元のレベルまで爆上げよーーーっ!!」
「は、はぁ……」
畑中は完全に呆れ果て、空いた口が塞がらなかった。結局、この院長の行動原理はどこまでいっても「金、地位、名誉、そしてホスト」なのだ。
当の大宮兵長は、麗華が叫んでいる「ガクカイ」や「キョウジュ」「ノーベルショウ」といった現代の単語の意味がさっぱり理解できず、ブラックコーヒーの苦味に顔をしかめるだけだった。
三、 限界のチャイムと、欲望の出前
「まあ、大宮兵長は何も心配しなくて大丈夫よ。アンタの身の回りの世話(介助)や、その頭の耳と尻尾の毎日の消毒、衣服の手入れは、ここにいる畑中と、うちの専属の家政婦に全部やらせるから安心しなさい!」
麗華がパンと手を叩いて言い放つと、畑中主任の顔がサッと強張った。
「……院長。今、さらっと言いましたけど、私もですか? 私の業務の中に、ロバ男のシラミ駆除やセクハラの相手は入ってないんですけど!」
「何言ってるのよ畑中! 私が大学教授になったら、アンタだって准教授か看護学部のトップよ! 給料も知名度も、今の三倍にはしてあげるわよ!」
その圧倒的な経済的権力と名誉のチラつきに、畑中はぐっと言葉を詰まらせ、何も言えなくなってしまった。確かに、麗華の引き上げの力は本物なのだ。
その時だった。
チーンロコォォン、とタワマンの静寂を破る、洗練されたインターホンの『限界のチャイム』がリビングに鳴り響いた。
「あ、噂をすれば来たわね」
麗華は嬉しそうにインターホンの通話ボタンを押した。
「はーい、そこのドアの前の宅配ボックス……じゃなくて、置き配でお願いしまーす」
麗華が玄関から大きなプラスチックの出前箱を受け取り、リビングの大理石テーブルの上にドン、と並べた。蓋を開けた瞬間、香ばしい醤油と出汁の香り、そして甘辛い極上のタレの匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「さあ! 作戦会議の前に、まずは腹ごしらえよ! 今日の労働の締めくくりは、皆で最高級の『お蕎麦』と、老舗の『うな重』を食べまくりましょう!」
大宮兵長は、目の前に並べられた、黄金色に輝く鰻の蒲焼と、艶やかな江戸前蕎麦の姿を見て、喉をゴクリと鳴らした。満州の過酷な泥の中を這いずり回り、略奪した高粱米と干し肉で飢えを凌いでいた古参兵の前に現れた、令和の圧倒的な「富の象徴」。
頭の上のロバの耳を激しくピコピコと直立させ、軍袴に代わるスウェットの尻の中で尻尾をブンブンと振る大宮兵長。彼らの、欲望と名誉が渦巻く奇妙な共同生活は、この贅沢な夜食と共に、さらなる不条理へと加速していくのだった。
(第6章へつづく)




